“オブラートに包む” という言葉が消えていこうとしている。いや、もはや消えてしまったのだろうか。
意味はご存知のように、遠回しとか、婉曲(えんきょく)を表すもので、要は人を傷つけないように言葉を選ぶことだけれど、どれぐらいの世代まで通じるのだろう。
これはどうにも調べようがない。
日本に伝わった頃のオブラートはまだ固いもので、現在のような柔らかいオブラートは日本で開発されたらしい。
その昔は、飴やキャラメルを包むのに使われていた。昭和25年に砂糖が自由化されたのに伴い……なに? 砂糖の自由化って……。
詳細は省くけれど、水飴で作られていたものが砂糖に変わってオブラートが必要でなくなったのですね。砂糖は貴重品だったってことで話を締めましょう。
子供の頃、粉薬を飲む時に使っていたのはよく覚えている。薬を包んで飲むのだけれど、結構なサイズになった。
そのせいで、飲み込む時に気が遠くなった。なんというか、意識を失いそうな気分だった。今思えば、粉のままで飲んだほうが楽だったのではないかとさえ思う。
でもまあ、その苦さを知らないからだけど。
そして、砂糖も無縁ではない物語は始まる。「明日さあ」放課後、サトシが近づいてきて声を潜めた。
「川沿いの道路があるだろ? あそこでさ」
「橋を渡るの?」
「渡んない。でさ……」
「ええッ?」サトシの提案に、ランドセルを背負おうとしていた手を止めてマサユキは眉をひそめた。
「それって、悪いことだよ」オブラートに包まず、マサユキは言葉にした。
「いいんだって」
いいの根拠がさっぱりわからない。
休日に悪事を働く。もちろん気乗りのする話ではなかった。それにトラックを追いかけるなんてバカげた話。
でもまあ、脚力試しにはいいかもしれない。マサユキもサトシも、足の速さでは学年で一位二位を争うライバル。
気は進まないのは変わらなかったけど、トラックと競争、その一点だけで自分を納得させた。
翌日の午後、空は青く遠く晴れ渡っていた。
「ここで待つんだ」サトシはちょっと引っ込んで草むらになった場所を示した。
「ここ嫌だな」
「なんで?」
「犬のうんこ踏みそう」マサユキはおっかなびっくりそこに足を踏み入れた。
半ズボンの足を葉っぱがチクチクと刺す。
待つ間、ずっと犬のうんこが気になっていた。くんくんスンスンとうんこの匂いを探る。
「お前、几帳面だな」サトシが不思議そうな顔をする。
言葉の選び方が、ち・が・う……。
「来た!」
サトシの声にマサユキはその肩口からそっと道路を伺った。
遠く右手に見えるのは、老体を震わすように走ってくるオンボロトラックだ。
「行くからな」
振り向いたサトシの声に、マサユキは黙って頷いた。
トラックが目の前を走り抜けた瞬間サトシが飛び出した。マサユキもその後を追って走り出した。
それほどスピードを出していないとはいえ、小学生がトラックに追いつくのは並の脚力ではかなわない。
「うりゃ、うりゃ」サトシがスピードを上げる。
マサユキも腕を力いっぱい振って全力疾走に入った。排気ガスが臭い。
けれど、トラックの荷台が少しずつ遠ざかっていく。両足に力を込めても遠ざかっていく。それは失敗の証。全力を出しても失敗することがあることを、こんなことで学ぶ。
ああ……
二人は走るのをやめた。両手を膝について荒い呼吸を繰り返す。
「戻ろ」ハァハァと喘ぎながら元いた場所に引き返す。
「いま来たらだめだな」体育座りをしたサトシが空を見上げる。
「ムリ」マサユキは犬のうんこが気になってしゃがんだまま一台を見送った。
やがてサトシが立ち上がり通りを伺う。マサユキは手足をブラブラと振って回復状態を確かめた。なんとか走れそうだ。
「来たぞ。行けるかマサユキ」
「うん、大丈夫そう」
「行くぞ!」
サトシの声にマサユキも飛び出した。
「うりゃ、うりゃ」サトシが声を出してスピードを上げる。
こいつはいつもそうだ。リレーで人を追い抜くとき、うりゃうりゃ言う。
青い塗料が剥がれ、サビの浮いたトラックの荷台が眼前に迫ってきた。
あと少し。排気ガスは容赦なく襲ってくる。
サトシが飛びついた。積荷を引っこ抜こうと全身を揺らしている。
マサユキも手を伸ばす。あと少し、もうちょっと。
サトシが積荷を掴んで道路に落とす。
マサユキも積荷を掴んでトラックに両足をつけてグイグイと引っ張る。
抜けた。もう一本。さらに一本。
二人は飛び降りた。
排気ガスを撒き散らしてトラックが遠ざかる。
運転手に見えているのかいないのか。見えていたって戻ってきたりはしないだろう。
盗人の少年が二人、達成感に頬を緩め、道路に落とした獲物をズルズルと引きずる。全力疾走の体に風が心地良い。
こんなことしなくてもサトウキビは家にあるというのに……。
少年は妙なことに力を注ぐ癖を持っている。それもまた勉強なのかもしれない。昭和はまだ長く続くことになる。

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