さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
─創世記第6章1~2─
その子供たちはネフィリムと呼ばれる巨人になって人の悪が地にあふれました。そこで神は洪水を起こしました。いわゆるノアの方舟のお話です。
しかし、巨人がいたなら発掘されていても良さそうですが、そんな情報はありません。
この「神の子ら」が誰かについては説がいくつかあります。
●堕落した天のみ使い(天使)たち。
●人間の権力者や支配者。
●アダムが属する教会の人たち。人の子とはそれに属さない人たち。
●神を信じたセツの子孫で邪悪なカインの子孫と結婚してできた者たち。
「*どちらもアダムとイブの子です。神を信じるセツの子孫と、神を信じないカインの子孫がいて、それぞれが結婚してできた者たちということです」
諸説があるということは、実は分かっていないということで、これを爬虫類人「レプティリアン」と読んでしまえばスッキリします。約10万年前です。
ちなみにアヌンナキも進化をして、人類を奴隷として扱うのをやめ、その後に来たのがレプティリアンとグレイだといわれています。
人類が長く奴隷となっていたのに、さらに今現在もそうだと言われてもいるのに、神は何もしないのでしょうか? 救いの手は差し伸べないのでしょうか?
しません。なぜなら〝唯一の存在〟〝在りて在るもの〟は観察者だからです。
だから、神に向かって祈ることには実は何の意味もありません。教会に通うことも、朝晩祈りを捧げることも、崇拝することも赦しを請うことも、無意味なのです。
しかし神が確かに存在することを信じ、愛することには大いに意味があります。
〝唯一の存在〟は魂を宇宙に送り出しました。しかし、いつまで待っても魂たちは帰ってきません。〝唯一の存在は〟あらゆる事を試しました。そしてそのキーワードを見つけました。それは「愛」だったのです。
愛を添えて送り出した魂たちはやがて帰ってきたからです。
神は存在するものであり、冷たい言い方をすれば傍観者です。私たちが何をしようと諫(いさ)めたり、罰を下したりしません。一切文句を言いません。滑り台を登って階段を下りることをひたすら繰り返そうと、レゴを頭に載せて遊ぼうと、お人形を振りまわそうと、「それは遊び方が違うよ」と干渉したりはしません。
なぜなら〝唯一の存在〟は宇宙のあらゆる魂に自由意志を与えたからです。
もしも〝唯一の存在〟の思い通りに操れるとしたら、魂たちが思う存分探求する機会を妨げることになります。
だからこそ選択の自由を与えたのです。
選択の自由が与えられたということは、何をしても罰せられることはないのです。このことからも、特に旧約聖書に描かれる姿は、神とは遠く離れた別物だということが分かります。
ヘミシンクの生みの親であり、体外離脱者である故ロバート・A・モンローは、著書の中で神をこう書いています。
●我々が人間として生きている限りは、我々の理解を超えている。
●我々もその一部として参与している進行中のプロセスの設計者である。
●我々の理解の及ばないようなことにも、目的を持っている。
●右(横書きのため、上)のプロセスにおいて、必要に応じて調節。微調整を行う。
●万人、万物に適用される単純な法則を定める。
●崇拝も賛美も、おのれの存在を認めることも要求しない。
●「悪」や「あやまち」を罰しない。
●我々の人生での行いに関して、勧めたり妨げたりしない。
ロバートモンロー著 「究極の旅」 (日本教文社)