─僕の名前─
うっすらと目を開けると視界が何かに閉ざされていた。あごを上げると引き締まるような冬の空気を感じた。鼻先に触れる冷気が五感を目覚めさせてゆく。
どうやら僕は、父の背中に負ぶわれているらしい。僕をすっぽりと包み込むのは父のコート。そして記憶の奥底から蘇る父の臭い。父は、僕を背負ってコートを羽織っているようだった。
理髪店が見えた。そう、僕が郵便配達のバイクにぶつかった場所だ。やがて神社への入り口が見えた。病院だ。病院に行く途中に違いない。これは、幼稚園の頃の記憶だ。さっき見た公園の風景より前であるのか、後の出来事であるのか、記憶が定かではない。
「寒くはないかタカヒロ」父の声がした。父の体温を体いっぱいで受け止めていた僕は、ちっとも寒くはなかったから、うんと頷いた。
「道路を歩くときは、気をつけんばいかんぞ。あれが自動車だったら、今頃は大ごとになっとるからな。父さんや母さんを悲しませるなよ」
父の話し言葉は他の大人たちと少し違っていた。それがときおり混じる九州なまりのせいだったということが分かったのは、僕がいろんな地方の人たちと交流を持つことになる大学生の頃だった。
「頭は痛くないか」父が少し首をひねって尋ねた。うん。僕は応えた。僕を背負った父の足取りは僕の体を心地よく揺すった。
あの日は抜糸だったのか、それとも包帯の交換だったのだろうか。その病院で行われた手術も治療の様子もまったく覚えていないけれど、通りの角にある病院の場所と、この日の父の背中はよく覚えている。
事故の起こった日、家を出た僕はどこかに向かって歩いていた。理髪店の前に路上駐車している車を迂回した刹那、郵便配達のバイクが目の前に飛び込んできた。そして僕は、頭を縫う怪我した。
「家はどこなの?!」
郵便屋さんが尋ねた。僕は、こっち、と今出てきたばかりの細い道を指さした。決してその通り沿いに家があるわけではなかったし、その道を行けばすんなりと家にたどり着けるわけではなかったのだけれど、ショックで固まっていた僕にはそれが精一杯の返事だった。
そのバイクのシートに乗せられて病院に行った。きっと顔面を血に染めながら。僕は泣いていたのだろうか、それとも、驚きのあまり黙っていたのだろうか。ただあのときの僕にできたのは、郵便屋さんにしがみついたまま風を切るバイクに身を任せることだった。
今考えてみれば、救急車も呼ばずバイクに乗せてすぐさま病院に向かうというのはきわめておかしな行動だった。原付のスーパーカブに二人乗りというのは明らかに交通違反だし、配達用の赤いボックスが備え付けてあるバイクにはシートはひとつしかない。それでもその選択をしたのは、郵便屋さんもおそろしく気が動転していたからに違いない。だから、シートにきちんと座ることもできずにハンドルを握ったはずだ。
その夜のことだった。郵便屋さんが謝罪に来た。玄関口で必死に謝っている声は、こたつに入っていた僕の耳にも届いた。父はといえば、怒り出した様子もなく静かな話し声が聞こえる。郵便屋さんは悪くはないのにあんなに謝っている。自責の念に駆られた僕は、堪えた涙がぽとりと落ちたのを覚えている。
父に負ぶわれながら、公園のベンチで聞いた父と母の会話を思い出していた。
「これは墓場まで持って行く話だ。絶対に知られちゃならんぞ。もしも耳に入ってしまったらタカヒロがあまりにもかわいそうだからな。タカコちゃんが命を捨ててまで産んだ子だ。大事にせんばいかん。
だけどな、俺はタカヒロには強く、真っ直ぐ生きてほしいからうるさく言うぞ、厳しくするぞ、せからしか父親になるぞ。だからお前は、2倍も3倍もかわいがってやれ。逃げ場を作ってやらんといかんからな。ただし、甘やかすとかわいがるは違うからな。そこを間違えんようにな」
そのとき僕は、雷に打たれたかのように気がついた。僕の名前、タカヒロの〝孝〟は生みの母からひと文字もらっていたのだと。
母は僕を抱いてくれただろうか。せめてその指で、この頬に触れてくれただろうか。それともすでに、物言わぬ骸(むくろ)になっていたのだろうか。
「どうしたタカヒロ、泣いてるのか? 痛いのか? かわいそうにな」父の手が僕のお尻をぽんぽんと叩いた。
「もうすぐ病院だぞ、お父さんがお医者さんに早く治してくれるようにお願いしてやろうな。泣くんじゃないぞ、男ん子がこげんことで泣いちゃいかんぞ、頑張れタカヒロ」
僕の脳裏を渦巻くさまざまな思いは、ますます肩の震えを大きくさせた。
「さあ、買い物をして帰るぞ」
呼びかけるその声に、僕は我に返った。
父がベンチから腰を上げ、母がはいと立ち上がった。
「タカちゃん、アキちゃん、お買い物よ! お手々洗いなさい」
母の声に、待ってましたとばかり、二人は水場に向かって走り出した。母はバスケットからタオルハンカチを取り出した。
「今夜は水炊きにでもしますか」父の好物だった水炊きはよく食卓にのった。けれど、今もそうなのだが、僕は鶏肉をあまり好まなかった。
「そうだな。俺は助六も食いたいな」
「でも、お鍋の後はおじやにしますよ」
「そうか、そうだな。じゃあ助六は今度にしよう。豚肉も買わなくちゃな、タカヒロが鶏嫌いだから」
「いったい誰に似たのか」
「少なくとも、俺ではないな」二人は苦笑にも似た笑いを漏らした。腹を空かせた僕と妹が矢のように走ってきた。
もう少しだけ仲睦まじい家族の風景を見ていたかったけれど、四人の背中を見送って、再び団地へと向かった。僕には帰るべき場所がある。僕を待つ人がいる。
エレベーターのドアは、はたして在るだろうか。
にほんブログ村
人気ブログランキングへ











