風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -127ページ目

─僕の名前─

うっすらと目を開けると視界が何かに閉ざされていた。あごを上げると引き締まるような冬の空気を感じた。鼻先に触れる冷気が五感を目覚めさせてゆく。

どうやら僕は、父の背中に負ぶわれているらしい。僕をすっぽりと包み込むのは父のコート。そして記憶の奥底から蘇る父の臭い。父は、僕を背負ってコートを羽織っているようだった。

理髪店が見えた。そう、僕が郵便配達のバイクにぶつかった場所だ。やがて神社への入り口が見えた。病院だ。病院に行く途中に違いない。これは、幼稚園の頃の記憶だ。さっき見た公園の風景より前であるのか、後の出来事であるのか、記憶が定かではない。

「寒くはないかタカヒロ」父の声がした。父の体温を体いっぱいで受け止めていた僕は、ちっとも寒くはなかったから、うんと頷いた。
「道路を歩くときは、気をつけんばいかんぞ。あれが自動車だったら、今頃は大ごとになっとるからな。父さんや母さんを悲しませるなよ」
父の話し言葉は他の大人たちと少し違っていた。それがときおり混じる九州なまりのせいだったということが分かったのは、僕がいろんな地方の人たちと交流を持つことになる大学生の頃だった。

「頭は痛くないか」父が少し首をひねって尋ねた。うん。僕は応えた。僕を背負った父の足取りは僕の体を心地よく揺すった。
あの日は抜糸だったのか、それとも包帯の交換だったのだろうか。その病院で行われた手術も治療の様子もまったく覚えていないけれど、通りの角にある病院の場所と、この日の父の背中はよく覚えている。

事故の起こった日、家を出た僕はどこかに向かって歩いていた。理髪店の前に路上駐車している車を迂回した刹那、郵便配達のバイクが目の前に飛び込んできた。そして僕は、頭を縫う怪我した。

「家はどこなの?!」
郵便屋さんが尋ねた。僕は、こっち、と今出てきたばかりの細い道を指さした。決してその通り沿いに家があるわけではなかったし、その道を行けばすんなりと家にたどり着けるわけではなかったのだけれど、ショックで固まっていた僕にはそれが精一杯の返事だった。

そのバイクのシートに乗せられて病院に行った。きっと顔面を血に染めながら。僕は泣いていたのだろうか、それとも、驚きのあまり黙っていたのだろうか。ただあのときの僕にできたのは、郵便屋さんにしがみついたまま風を切るバイクに身を任せることだった。

今考えてみれば、救急車も呼ばずバイクに乗せてすぐさま病院に向かうというのはきわめておかしな行動だった。原付のスーパーカブに二人乗りというのは明らかに交通違反だし、配達用の赤いボックスが備え付けてあるバイクにはシートはひとつしかない。それでもその選択をしたのは、郵便屋さんもおそろしく気が動転していたからに違いない。だから、シートにきちんと座ることもできずにハンドルを握ったはずだ。

その夜のことだった。郵便屋さんが謝罪に来た。玄関口で必死に謝っている声は、こたつに入っていた僕の耳にも届いた。父はといえば、怒り出した様子もなく静かな話し声が聞こえる。郵便屋さんは悪くはないのにあんなに謝っている。自責の念に駆られた僕は、堪えた涙がぽとりと落ちたのを覚えている。

父に負ぶわれながら、公園のベンチで聞いた父と母の会話を思い出していた。

「これは墓場まで持って行く話だ。絶対に知られちゃならんぞ。もしも耳に入ってしまったらタカヒロがあまりにもかわいそうだからな。タカコちゃんが命を捨ててまで産んだ子だ。大事にせんばいかん。
だけどな、俺はタカヒロには強く、真っ直ぐ生きてほしいからうるさく言うぞ、厳しくするぞ、せからしか父親になるぞ。だからお前は、2倍も3倍もかわいがってやれ。逃げ場を作ってやらんといかんからな。ただし、甘やかすとかわいがるは違うからな。そこを間違えんようにな」

そのとき僕は、雷に打たれたかのように気がついた。僕の名前、タカヒロの〝孝〟は生みの母からひと文字もらっていたのだと。
母は僕を抱いてくれただろうか。せめてその指で、この頬に触れてくれただろうか。それともすでに、物言わぬ骸(むくろ)になっていたのだろうか。

「どうしたタカヒロ、泣いてるのか? 痛いのか? かわいそうにな」父の手が僕のお尻をぽんぽんと叩いた。
「もうすぐ病院だぞ、お父さんがお医者さんに早く治してくれるようにお願いしてやろうな。泣くんじゃないぞ、男ん子がこげんことで泣いちゃいかんぞ、頑張れタカヒロ」
僕の脳裏を渦巻くさまざまな思いは、ますます肩の震えを大きくさせた。


「さあ、買い物をして帰るぞ」
呼びかけるその声に、僕は我に返った。
父がベンチから腰を上げ、母がはいと立ち上がった。
「タカちゃん、アキちゃん、お買い物よ! お手々洗いなさい」
母の声に、待ってましたとばかり、二人は水場に向かって走り出した。母はバスケットからタオルハンカチを取り出した。

「今夜は水炊きにでもしますか」父の好物だった水炊きはよく食卓にのった。けれど、今もそうなのだが、僕は鶏肉をあまり好まなかった。

「そうだな。俺は助六も食いたいな」
「でも、お鍋の後はおじやにしますよ」
「そうか、そうだな。じゃあ助六は今度にしよう。豚肉も買わなくちゃな、タカヒロが鶏嫌いだから」
「いったい誰に似たのか」
「少なくとも、俺ではないな」二人は苦笑にも似た笑いを漏らした。腹を空かせた僕と妹が矢のように走ってきた。

もう少しだけ仲睦まじい家族の風景を見ていたかったけれど、四人の背中を見送って、再び団地へと向かった。僕には帰るべき場所がある。僕を待つ人がいる。
エレベーターのドアは、はたして在るだろうか。



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─望まぬ子供─

四人は芝生でお弁当を食べている。僕はちょっと離れたベンチに座って家族の風景を見つめていた。
「美味しいな」僕と妹に向かって同意を求めるような父の声が、緩やかな風に乗って運ばれてくる。
父は美味しいなどと口にする人だったのか。こんなにも無邪気な笑顔を浮かべる人だったのか。僕の記憶は、いったいどこでねじ曲がっていたのだろう。額に汗を浮かべておにぎりを頬張り、卵焼きに箸を伸ばす父を不思議な気分で眺めていた。

「食べ終わったらキャッチボールをするかタカヒロ」父の声に僕が嬉しそうに頷いている。母の下げていたバスケットから二つのグローブと軟式ボールが出てきた。

僕は体全体を使って、不格好にボールを投げている。それは足下に叩きつけられる危なっかしいボールであったり、頼りのない弓なりであったりした。
それを走り回りながら受け取った父は、下手投げでゆっくりとしたボールを返す。それは小一時間も続いた。

父が死んでから、僕たちの住まいは母の実家になった。あの頃は祖父母ともに元気で、僕たちをかわいがってくれた。
今はその祖父母も亡くなり、母が一人で暮らしている。だから僕は、あの団地に長く住んだわけではなく、その記憶もあまり多くは残していない。

心地よい疲れに目を閉じ、風が奏でる木々のさざめきと家族の声を聞いていた。ゆく夏と命の短さを儚むように、蝉が鳴く。

ふと気がつくと2メートルほど離れた隣のベンチに、父と母が座っていた。くの字を描くように設えられているから、その姿はよく見えた。今の僕よりも若い父と母だった。僕と妹は芝生の上を走り回っている。僕はまた居眠りを続けるように目を閉じて、あごを引いた。

「あなた、無理をしなくてもいいのよ」母の声がする。僕は耳をそばだてた。
「いや、俺は別に無理なんぞしとらん」
「そぉお? ならいいんだけど」
「タカヒロが俺たちの子じゃないことを気に病んでいるのは、むしろおまえの方じゃないのか」
「そんなつもりはないんだけど」

僕は二人の子じゃないのか?!
父だと思い、母だと疑わなかった人が、赤の他人だったのか?!

「でも、タカコちゃんもよく生む決心をしたものだ。一時は自殺を恐れるほどに半狂乱だったのに、周りの反対を押し切って生んだ。自分の命の危険も顧みずにな」
「あたしも反対しました」
「うん、それが普通だろう。何せ父親が誰だか分からないのだからな。それでもタカコちゃんは俺に言った。これは、あたしの子です、と。女というのはなんと強い生き物なのだろうと、俺は思った」

父親が誰だか分からない? 僕の実の母はそれほど淫らな人だったのだろうか。僕の眉間はぎゅっとシワを作った。いや待て、自殺を恐れた、半狂乱だった……今確かにそう言った。
ひどく恐ろしい想像が頭を駆け巡った。

「俺にとっては、タカヒロもアキコも我が子だ。かけがえのない我が子だ」
「ありがとう」
「だがな、もしも、もしも仮にだが、あの子に悪い血が騒ぐようなことがあったら、取り返しの付かないことをしでかしたとしたら」
「はい」母の小さい返事が聞こえた。

「俺は、刺し違えるつもりでいる。そのときはチエコ笑ってくれ。父親としての職責を全うできなかった愚かな男だと、罵ってくれ」
「そんな!」母が強く咎(とが)めた。
「もしもだ。万が一の話だ。氏より育ちだ」父は小さいけれど、強く口にした。
僕の悪い想像は当たっているような気がした。
「どこでタカヒロの耳に入るかも分からない。こんな話は金輪際やめだ」
母は小さく、はい、と返事をした。

僕の母親はいったい、誰なんだろう。父と母の話から、もうすでにこの世の人ではないのだろう。
でも僕は、近所の人に母親似だと言われた。自分でもそう思うし、同級生にも言われたことだ。

それらを総合すると一人思い当たる人がいる。小さい頃から何度も行ったお墓参り。母のおじいちゃんやおばあちゃんが眠るそのお墓に、母の妹も眠っていると聞かされた。ほら、お線香を上げなさい、お手々を合わせなさい、ありがとうって言いなさい、と母は口にした。

その叔母の写真は家にあった。おそらくは十代の半ば頃の、姉妹並んで写る姿は似ていたけれど、印象はかなり違っていた。
母がお茶目で勝ち気そうな顔をしているのに対して、叔母は優しげでおっとりとした顔をしていた。でも、目鼻立ちはよく似ていた。

タカコちゃん、父がそう呼んだと言うことは、義理の妹でもおかしくはない。僕は叔母の名を知らないことに今更ながらに気がついた。もしも僕が叔母の子供だったとしたら、母のありがとうという言葉はきわめて自然に映る。

そして僕は、望まぬ子供。実の母に地獄の苦しみを与えた性犯罪者の血を引く子供……。僕の体は高熱の悪寒に耐えるように、小刻みな震えを繰り返した。



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壁2

─ツクツクボウシ─

通路に音が響き僕は飛び上がるほど驚いた。そっと右を見ると、左側の鉄製のドアの一つが開いたところだった。僕が見つめていた壁側だ。
そこから男が一人現れた。黒縁めがねをかけてポロシャツにコットンパンツ姿の男は、こちらに気づかない様子だった。
壁に向かって立っているのは不自然きわまりないことに気づいた僕は、弾かれるようにしゃがみ込んだ。急いで靴のひもを解き、結び直す仕草でその場を取り繕った。

ドアを足で押さえて中を見ていた男がこちらを向き、こんにちは、と軽く会釈をした。僕もそれに倣ってしゃがんだまま、こんにちは、と頭を下げた。その距離およそ7メートル。年の頃は僕よりも幾分若いだろうか。30代の後半ぐらいに見える。見上げていた僕は、息を呑んだ。目を見開き、惚けたようにその顔をじっと見つめた。

「ほら、早くしなさい」男が神経質そうにめがねの中心を中指で押し上げた。それに応えるように半袖に半ズボン姿の男の子がズックの先で床を蹴りながらひょいと現れた。
「ほら、靴のかかとを踏まない」
かがみ込んだ男の子は人差し指の先を使ってズックにかかとを押し込んだ。
「タカヒロ、お帽子お帽子」母親と思われる女性がキャップを手に現れた。年の頃は30代前半ぐらいか、弾けるような華やかな笑顔の人だった。

手にしていたバスケットを床に置き、男の子の頭にキャップ被せて両手で整えた。その母親のスカートを3歳ぐらいの女の子がつかみ、「おにいちゃん、かかとふんじゃあだめ」と父親のまねをした。母親がこちらに気づき会釈をした。立ち上がった僕も返した。
扉が閉まり、四人の背中が遠ざかっていった。

それを追うように僕も通路を歩き出した。建物の中心辺りの角を左に曲がると、玄関口から外の景色が見えた。出口が近づくにつれて、熱気をはらんだ空気を感じた。外に出ると眩い日差しが出迎えた。

なぜ……昼間なんだ。なぜ、夏、なんだ。

前をゆく四人はどこかウキウキとした雰囲気を振りまいていた。白いノースリーブのワンピースに、つばの小さい麦わら帽子をかぶった女の子は母親に手を引かれ、男の子は父親の中指をつかみ、その大きな歩幅に合わせようとバタンバタンと大股で歩いていた。

彼らがたどり着いたのは10分ほど歩いた場所にある緑あふれる公園だった。8の字を描いたサイクリングコースがあり、中央部分は芝生が敷き詰められ、くつろぐ人たちの姿が見える。サイクリングコースの周りには遊具が点在していた。
左手には円形の噴水があって、水のしぶきを透過する陽の光が小さな虹を作っていた。蝉の声が辺り一面に降り注いでいる。ツクツクボウシの声も聞こえるから、晩夏なのだろう。夏の終わりはいつも、どこか寂しげだったことを思い出す。

子供たちは風に煽られるそのしぶきを浴びて、噴水の周りをひとしきり走り回っていた。妹が転ぶと、兄はすぐに戻ってしゃがみ込み妹を慰めている。二人はとても仲良しに見えた。

やがて男の子はブランコに向かってまっしぐらに走った。その後を、つい今しがた転んでべそをかいたことすら忘れたように妹が追う。そしてその後を、父親にバスケットを預けた母親が追う。マキシ丈のワンピースから覗く足首が、細くしなやかだった。

男の子は早速ブランコをこぐ。兄の真似をしてブランコに乗りたがる女の子に、母親はスカートをたくし上げ、足の間に挟み込んでブランコに座る。その膝頭は艶やかだった。

母親は女の子を膝に乗せた。父親はと見ると、切り株を模した椅子に腰掛け煙草をくゆらせ始めた。子供たちの遊びに関わる様子は、まったくない。

僕は、この父親が好きではなかった。

けれど先ほどの仕草を見ると、決して父を嫌っているようには見えなかった。それは心を隠しているのか、あるいは、この後、決定的に父を嫌うような出来事でもあったのか、僕は記憶していない。

読書が趣味だったのか、その部屋にはたくさんの蔵書があった。仕事は地方公務員で、お酒を飲むことはなく、冗談も言わず、軽口も叩かず、ご飯を食べても美味いとも不味いとも言わない無愛想な印象の人だった。
黒縁めがねの奥で光る目が、ちっとも笑っていないように感じたこの父親が少し怖かった。せっかちで厳格で、柔らかみを感じさせないこの父親が疎ましかった。父親には常に、急かされて育ったような気がする。

僕が小学一年の冬の終わり、春の足音が聞こえ始める頃に、この父は死んだ。母親は女手一つで兄妹を育てた。



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ツクツクボウシ

─消失─

かすかな機械音とともにエレベーターのドアが開いた。薄暗い通路を隔てて真正面に壁がある。何の変哲もない古びた壁なのだが、いや、だからこそ、明らかにこのマンションのものとは思えない色合いを放っていた。
薄気味悪くなった僕は、すぐに1階のボタンを目がけて指を伸ばした。けれど、押すのをためらった。

それはたとえば、物置に仕舞われたまま埃をかぶった扇風機。押し入れから見つけたかつてお気に入りだったマフラー。食器棚の引き出しから出てきた古びたお箸。それらはどこか、切なさを呼び起こすスイッチを持っている。

恐怖と裏腹に強く惹かれる思い。
ドアの開くボタンを押していた僕は、項垂れるように足元を見た。そして自分の呼吸音を聞いた。前を見た。
よし、と小さく呟いて、まるでバンジージャンプに挑むような立ちくらみを振り切り、ドアの外へ足を踏み出した。

用心深く右を見て、ゆっくりと左を見た。そして左側に向かっておそるおそる歩き出した。左右にドアの並ぶ薄暗い通路は静けさに包まれていた。まるで無人かと思われるほどの静寂が辺りを覆い、僕は息を殺した。
両端に黒い輪を浮かせた蛍光灯は頼りなく通路を照らし、壁と天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。僕はなおも進んだ。

見覚えがある。ここは僕の記憶の奥底に残っている場所に似ている。いや、間違いない。

ふと不安を覚えて振り返り異変に気づいた。きびすを返して小走りになった。靴の底がキュッと音を立てた。盆の窪から頭の後ろ、側頭部から耳の奥。時を刻む秒針のようにトクン、トクン、と鼓動が鳴った。

慌てて壁を触った。叩いた。さらに走った。叩いた。けれど、どこにもエレベーターのドアは存在しなかった。

しまった! 閉じ込められた……。
僕は呆然と壁を見た。



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壁

─下降する─

煙草の空き箱をひねり潰し、肘掛けを支えに立ち上がった。
「あたしが買ってきましょうか。これ、見終わった後で良ければだけど」
テレビから目を離さない妻の声に、いや、ちょっと外の空気でも吸ってこよう、と僕は頷いた。

「ミウも行く!」
レゴで遊んでいた6歳になる下の娘が立ち上がった。8歳になる長男は部屋で宿題に取り組んでいるはずだ。

「お父さんはたばこを買いに行くだけだよ。美羽はお留守番してなさい」長財布をズボンの尻ポケットに入れて笑いかけた。
「じゃぁあ、おみやげ」
足にまとわりついてきた娘の声に、通りの角にある自販機ではなく、コンビニへと予定を変えた。
「何がいいのかな」
「ガム、ぶどうのガム」
「ぶどうのガムね。うん、分かった」娘の柔らかい髪を撫でた。

エレベーターが下りてゆく。7階、6階、5階、右側に並ぶ階層表示が緩やかに下降していく。
チラリと見た腕時計は午後の8時半を少し過ぎていた。どっちのコンビニにしようかと双方の店内風景を思い浮かべ、ガムの売り場が広い方に決めた。

また階層表示を見た。2階、1階。
一歩踏み出した足元を見ながら、そろそろこのウォーキング・シューズも買い換え時だなと思った。

え?! 

エレベーターが下降している感覚は消えない。
慌てて見た右横にある階層表示は0階のランプを点し、大地に押し込まれるような圧力を残して静かに止まった。
このマンションに地下はない。あったとしても、0などという表示は、あり得ない。


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エレベーター

君はいくつ失敗してきただろう。どれほど躓(つまづ)いてきたのかな。
え?! 今指を折った? ここは折らなくてもいいんだけどね (=`ェ´=;)ゞ

失敗してもいいのさ。人は失敗からしか学べないのだからね。だから君はたくさん学んできたということになるんだね。

今日やるべきことを明日に延ばすのは、時として自分の首を絞めることがあるけれど、明日やれることは明日やればいいのさ。
問題にぶち当たって挫けたら、明日またやればいいんだよ。それは今日解くべき問題じゃないと、君を見守る何かが教えているに違いないのだから。

余裕がなくなると周りが見えなくなっていく。君の前にあるはずの道は、君の心が折れた瞬間、見えなくなる。競走馬のブリンカー・遮眼革(しゃがんかく)みたいに君の視界を狭くする。心が疲弊していく。どんどん萎縮していく。

ツイてるなぁと思えばツキが回ってくる。なぜならそれは、君に〝楽観〟と〝脱力〟いう荒技を教えようとするお茶目な神様の悪巧み。
だからどんなにひどいときでも、それに負けずにツイてるなぁとつぶやこう。
そして時には、ううん、毎日でも自分をほめてあげよう。ここでこそ片手の指を折りながら、せめて三つは褒めてあげよう。

大丈夫、失敗しても大丈夫さ。間違えても大丈夫。泣いたってへっちゃらさ。それで命を取られることは、多分ない。

生きていればいろんな人に出会う。君に何かを押しつけようとする人もいる。支配しようとする人もいる。過度な期待をする人もいれば、こき下ろす人もいる。失敗をあげつらう人もいる。

失敗をしたら、「ま、こんなこともあるさ」と開き直ろう。君は他の誰のためでなく、君自身のために生きているのだから。


そんな君にゲシュタルトの祈りを。

─ゲシュタルトの祈り─

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen –
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du –
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。


フレデリック・S・パールズ(1893~1970)の言葉。
ドイツの精神医学者にして、ローラ夫人と共にゲシュタルト療法の創始者。


〝明日は明日の風が吹くんだ 君のために〟

これでも聴きながら、おやすみなちゃい (。-ω-)zzz. . .
起きて聴いてたら長いよぉ実際 ( *´艸`)


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何回も観た映画 ブログネタ:何回も観た映画 参加中

1972年公開の映画。劇作家ミゲルデ・セルバンテスの「ドン・キホーテ」を題材にしたミュージカル「ラ・マンチャの男」ですね。しつこいぐらい見ました。

中世のスペインが舞台になっていて、ドン・キホーテを書いた劇作家ミゲルデ・セルバンテスが主役の設定です。
劇中劇ですが、ややこしいです。カトリック教会を侮辱したとして地下牢に入れられるセルバンテス……彼がアロンソ・キハーナという老人を演じます。そのキハーナが妄想に駆られてドン・キホーテを演じているのです。
文字で見ると、ど、どゆこと? って感じですよね。

ピーター・オトゥールがいいのです。あの「アラビアのロレンス」を演じたオトゥールが、〝セルバンテス〟で、騎士道かぶれの〝アロンソ・キハーナ〟という老人で、〝ドン・キホーテ〟なのです。サンチョもいかにもって感じでいいです。

若かりし頃にはソフィア・ローレンは全然魅力を感じなくて、僕的には明らかなミスキャストにしか見えなかったけれど、今は違うかもしれません。

背中を向けてかがみ込み、早変わりの変装を始めるセルバンテス。そして立ち上がり振り返るやいなや、囚人たちを劇中劇へ誘(いざな)う歌。
私の名はドン・キホーテ、ラ・マンチャの男「I, Don Quixote」は鳥肌ものです。

でもこれ、セルバンテスがドン・キホーテに変わる瞬間が映ってないので、鳥肌は立たないと思います(´ー`A;)






あらすじは下にあります。お暇のある方はどうぞ(*⌒∇⌒*)

以下のあらすじはネットより拝借しました。複数が全く同じ内容だったので出所は記しません。

作家としても詩人としても、また税収吏としても失敗した失意のミゲル・デ・セルバンテス(P・オトゥール)は、教会を攻撃した罪でセビリアの牢獄にぶち込まれ、宗教裁判を待つ身となった。
牢の中の泥棒、人殺し、売春婦、牢名主(H・アンドルース)の命令により模擬裁判を開き、セルバンテスの所持品を押収しようとした。その中には大切な「ドン・キホーテ」の原稿もあった。
彼はそれを守るため、芝居の形式で自らを釈明し、人生に対する自分の態度を説明したいと申しでた。“裁判所”はこれを許可し、早速セルバンテスと彼の忠実な召使マンセルバント(J・ココ)は扮装して、ドン・キホーテとサンチョ・パンザに早変りし、他の囚人たちも役をもらって、いよいよ物語が始まった。

スペインの田舎を「ラ・マンチャの男」を歌いながらいく奇妙な主従がいた。甲冑に身を固めた老人ドン・キホーテと人のいいデブの従者サンチョ・パンザだった。騎士道精神を復活させ、悪しきをくじき、正しきを助けようと武者修業の旅にでたのだ。

やがて二人は宿屋に着いた。ドン・キホーテはこれを城だと思い込み、宿屋の女中でパート・タイマーの売春婦アルドンサ(S・ローレン)を理想の女性ドルシネア姫とあがめたてまつった。

一方、キホーテの故郷では姪のアントニア(J・グレッグ)と家政婦(R・クラッチレイ)に頼まれて、神父(I・リチャードソン)と、アントニアの婚約者サンソン・カラスコ(J・キャッスル)が気のふれたキハナ老人(ドン・キホーテ)を連れ戻すために旅立った。

その頃、アルドンサはドン・キホーテの理想主義に次第にかぶれだし、辛い現実から逃避して夢を見るようになった。宿屋に辿りついた神父とカラスコ医師はドン・キホーテを正気に戻そうと、異様な装束の鏡の騎士に扮してドン・キホーテに決闘を挑んだ。彼は、鏡を見て遇かな気違いの姿に気づいた。ドン・キホーテと称したキハナ老人は破滅し、死の床についた。

アルドンサは病室に押し込み、もう一度ドン・キホーテに戻り、自分に与えてくれた輝かしい夢をとり戻してと哀願した。
彼の夢と情熱が甦ってきた。冑と剣を持て! キホーテとサンチョはドルシネア姫のために旅立とうとした。「ラ・マンチャの男」を歌いながらキハナ老人は息絶えた。しかしアルドンサの胸の中にはドン・キホーテは生き続け、彼の愛と信念は彼女をすっかり変えてしまった。

再び牢獄の中。罪人たちはセルバンテスの物語に深く感動し、原稿を返してくれた。本物の裁判に呼びだされるセルバンテスをドン・キホーテの「見果てぬ夢」
を合唱しながら見送ってくれるのだ。

お読みいただいた方、ご苦労様でした( ・´ω`・p


ソフィア・ローレン演じるアルドンサを演じる、ダルシネア(ややこしいがな)に歌い上げる「見果てぬ夢」は涙ものです。
The Impossible Dream……直訳すると、不可能な夢。それを「見果てぬ夢」とし
たのは名訳中の名訳ですね。



夢は稔り難く 敵は数多なりとも
胸に悲しみを秘めて 我は勇みて行かん

道は極め難く 腕は疲れ果つとも
遠き星をめざして 我は歩み続けん
これこそは我が宿命(さだめ)

汚れ果てしこの世から 正しきを救うために
如何に望み薄く 遥かなりとも

やがて いついつの日か光満ちて 永遠の眠りに就く時来らん
たとえ傷つくとも 力ふり絞りて
我は歩み続けん あの星の許へ

福井峻訳「見果てぬ夢」<騎士遍歴の唄>


いよいよエンディングに進みます。キハーナ老人が伏すベッドに娼婦アルドンサが。
ドルシネア姫になりきった彼女の熱い語りかけに、やがてキハーナ老人は騎士ドン・キホーテとしての正気を取り戻す……
がしかし、そこで息絶えます。

囚人たちの合唱に送られ地下牢から出て行くセルバンテスと召使マンセルバント。

ピーター・オトゥールってこんなに格好いいんですよ。地下牢の階段が上がりながらのエンド。素晴らしいです。






セルバンテスの描いた、風車を怪物だと勘違いして突進した愚かしい男ドン・キホーテ。個人的にはかなり好きです。
村人には笑われたけれど、それは、それが怪物ではなく風車だと知っていたからで、もしも本物の怪物だったとしたらどうだろう。村人は立ち向かっただろうか。村人にドン・キホーテを笑う資格はないんじゃないの? と僕は思う。

長いブログだなこりゃ・・・(・∀・i)タラー・・・


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風車

悲しくなる歌 ブログネタ:悲しくなる歌 参加中

僕にとって、この歌はとても悲しい。
僕が身ぐるみ剥がされたように立ち尽くした、あの頃の歌だから。
でも僕は、頑張ってきたよ。だから今、君に僕なりのアドバイスができる。

〝今〟以外に君が体験することはできない。存在することもできない。〝今〟の集積が未来になる。だから、いたずらに未来を考えることは、下手をすれば現在を否定することになる。
考えすぎないように、悩まぬように。

悩む人と悩まない人は、問題のあるなしではないんだよ。
〝たら〟と考えるのは、君のために良くない。

もしも○○だったら
これが○○だったら
これが上手く○○だったら

君の夢見た未来は、君の想像通りだったろうかと考えてごらん。少し、いや、だいぶ違っているようにも思えるはず。

未来が見えないからと言って、〝今〟を否定しないことが大事だよ。君は必要な体験をして今に至っているのだし、今必要なことを経験しているのだから。

夜空はロマンティックでもあり、漆黒の闇でもある。その向こうに、何が見えたかな。
もしも何も見えなくても心配はいらない。

だって君の笑顔は世界一安らぐから。

さあ、今を生きよう。
雨が降ったら、ちょっと素敵な傘を探そうよ。



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スガシカオ「夜空ノムコウ」




夜空

─奇跡を望むなら─

「二人で散歩に出かけるなんて、ずいぶんと久しぶりだな」
ドアに鍵をかけ、オートロックの自動ドアを抜けてエントランスに出ようとしたとき、こちらに向かってくる磯崎さんが見えた。左手にコンビニの袋をぶら下げている。頭のてっぺんにはバレッタ。夢の中の姿そのままだった。

妻は頭を下げた。磯崎さんも下げた。私もつられて下げた。おはようございます、と、こんにちは、がすれ違う微妙な時間帯だった。

「あの人でしょ」通りを歩き出してから、妻が重大な秘密でも聞き出すみたいに肩口に顔を寄せた。
「そうそう。でもさ、いったいどんな趣味の集まりなんだろうね」
「やめておいた方が賢明よね」
「宗教とかかな」
「それは分からないけど。でもさ、趣味なんてそもそも、複数じゃなければできないものならいざ知らず、人に勧めるものじゃないし」
「だよね」
磯崎さんは私に全く気を留めなかった。それはそうだ。夢の中の出来事だから。あれでもし、お題目はあげていますか、などと口にされたら、心臓に悪い。

「でもさ、そろそろひそひそ声はやめてもいいんじゃないか」
「そんなあなたもひそひそ声だわ」
二人はクックと笑いあった。幼い子供が、布団の中でくすぐりあって笑うみたいに。

商店街を抜けて、駅に向かう。通勤で通るいつもの道も、普段とは違ってきらめいて見える。
妻は私のダウンジャケットの二の腕あたりをつかんだ。それも腕ではなくジャケットを。妻は昔からどこか奥ゆかしかった。私はポケットに突っ込んだ腕を少し広げた。妻は滑り込ませるように、その手を腕に回した。

「二人でお出かけなんて何年ぶりでしょう。お天気にも恵まれたし、楽しみましょう」日差しを浴びるように、妻は天を仰いだ。澄み切った空には羊雲が浮かんでいる。吹く風は少し冷たかったが、日差しの中は暖かだった。
今日から私は新しく生き直そうと心に決めていた。今日を最後と思って、日々を大事に生きようと。

目をやった妻の向こう側を、バギーを押す母子が追い越した。子供は頭を前に傾げ眠っているように見えた。何とも微笑ましい光景だ。絵里がまだ小さい頃は三人でよく出かけたものだ。それも遠くではなく、近くの公園を巡ったり、夏場は区民プールに行ったりした。

絵里は当然のことながら遊具のある公園が大好きだった。妻と私は、芝生やシロツメクサに覆われた広場のある公園が好きだった。そこにビニールシートを敷いてお弁当を食べたり寝そべったりした。
耳元で鳴るビニールシートをふるわせる風の音を聞きながら、いっときウトウトとするのが大好きだった。妻や子といる時間が、一週間を忙しく過ごした私にとっての、何よりの栄養剤だった。記憶としてはそんなに遠い昔のことではない。

え?!
心臓がトクンと跳ねた。

今、見えた。確かに、見えた。

通り過ぎるバギーの母子の姿が、妻の向こう側を途切れることなく通り過ぎるのが。

見つめた妻の姿はガラスに描いた薄い絵のように、その存在をクリアにしつつあった。
それは廃墟に立つ教会の、儚げなステンドグラスのようにも見えた。

夢ではなかった。幻ではなかった。あれは、妻の死は、現実だったのだ。
上腕から二の腕、肩から首筋、脇腹から背中、撫でるように立つ鳥肌が上半身を這い回った。

ミシュア、ミシュア、約束が違う!

妻の二の腕をつかんだ。
「いなくなるのか? またいなくなるのか!? なあ、なあ、優子」
「いますよ」妻は優しく私の手の甲を叩いた。
「もう、いないじゃないか!」指の間から乾いた砂が零れ落ちるように、つかんだ腕は無残にも無に収束されてゆく。
「います。いつもいます」

「もう、つかめない! 見えない! 行くな! 行っちゃダメだ!」
「ちょっとお別れが早かったけど」妻の涙声が聞こえた。
「復活が許されるのはイエス様だけですよ。あ、そうだわ、手袋とマフラーは天袋のクリアボックスの中にあります。くれぐれも風邪をひかないでください。さ、行きましょう。黄色く色づいた銀杏を見に」

「行くな! な! 頼むから行くな! 俺を一人にしないでくれ」
「大丈夫よあなた、わたしはどこにも行きません。あなたが呼べばわたしはいつも、そばにいます。それに来年は孫も生まれますよ」
「そんなものいらない!」
「そんなこと言ったら絵里が悲しみますよ。さあ、行きましょうよ。まだ若かったあなたが、しどろもどろになりながらプロポーズをしてくれたあの場所に」
「ダメだダメだダメだ、行くな……優子。何でもするから、行かないでくれ……」

私の指先にも、視線の先にも、もう何も、存在しなかった。
ぼやけた視界が映し出すものは、涙の水面に揺れる、妻のいない空虚な場所だった。

「ありがとう。そしてあなた、時々は二人で過ごした時間を思い出してください。私はあなたを忘れません。あなたの今の涙も」
妻の、穏やかな声だけが耳朶(じだ)に残った。

「一部はきっと叶うでしょう」
ミシュアは言った。
そう、一部は叶った。私は妻にお詫びがしたかったのだ。いつまでも愛していると、伝えたかったのだ。
今となればそれが、すべてだったのかもしれない。

ひとり立つ駅前の広場を、ダウンジャケットの襟を殴るように一陣の風が吹き過ぎた。

そして、凪いだ空間を、柔らかな風がそっと吹いた。

それはあたかも、妻がその細い指で、乱れた私の髪を梳(す)いてくれたようにも思えた。

若かりし頃のように。

─FIN─


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JUJU「奇跡を望むなら」



銀杏並木

─そしてクミンの香り─

耳元で音がした。パイプ枕に顔を埋めていることに気づいた私は、寒さを覚えて布団を肩まで引き上げた。
カレー特有のクミンの香りは、やはり漂っている。

昨夜は何を食べたっけ……一人で、何を、食べたっけか。ダイニングの風景を思い浮かべる。キッチンを思い浮かべる。
何を、食べたんだっけ。

キッチンでパタパタとスリッパの音がした。

それはとても懐かしい音。そしてそれは、我が家の音。失くした音が確かにする。

「もう、起きますか?」

明日の朝は残り物のカレーでいいかしら。休日だし。確かに妻はそう言った。
そうか、そうだった。私はすべてを思い出していた。もう、一人ではないのだ。夢だか現実だか分からない世界のミシュアが、きっと約束を守って、妻を戻してくれたのだ。
あるいは、若かった頃には感じていた妻のありがたみを、いつしか当然のこととして忘れ去った私に、いっときの辛い夢を見せたのに違いない。

妻の問いかけに答えなかったせいで、パタパタとスリッパの音が遠ざかっていった。

毛布を両手と足で巻き込み、ごろりと右に寝返りを打って、幸せな微睡(まどろみ)に身を任せた。

「あ、らっきょうと福神漬けが少ないわ!」妻の声が聞こえてくる。
冷蔵庫の前にしゃがみ込み、そんな声を上げることがたびたびあった。牛乳がないとか、バターが足りないとか。
その配慮の足りなさを苦々しく思っていた自分が確かにいた。でもそれは、昨日までの私。

「よし! 俺が買ってこよう!」
睡魔を引きはがし、掛布団を蹴り上げた私は、勢いよく起き上った。

「な、なんですか!?」再びパタパタとスリッパの音をさせて妻が顔をのぞかせた。
「らっきょうと福神漬けは俺が買ってくる! 西友か? ダイエーか? どこに行けば売ってるんだ?」
妻の手が私の額に伸びてきた。

「熱はない」私は妻の手のひらに額をこすりつけるように、首を小刻みに振った。
「ダイエーのほうが近いけど」
そんなことは、言われなくても分かっているが……。

「よし、じゃあ、ダイエーに行ってこよう。近いしな」
「初めてのお使いね」
「こ、子供じゃない!」

「あ、雪が」額を離れた妻の手が、ベランダを指さす。
「も、もう騙されん」
「本当ですってば」
起き上がり、ふらつく足下でベランダに寄った。
「嘘です」

あなたがすがろうとした宗教が神の声を代弁し、そしてあなたを救い、癒すなどとはゆめゆめ思わないことです。
あなた方がもう少し進化すれば、地上から宗教は消え去るでしょう。

愛なら、今、何をしますか。それを念頭に置いて行動することは、けっして難しいことではありません。わたしたちはそもそも、ひとつなのですから。しかし人類はそれを忘れたかのように見えます。

他に道はたくさんあったとしても、たったそれだけを追いかければ、きっと真実が見えてきます。揺るぎのないものが姿を現します。愛を放射すれば、愛が返ってきます。なぜなら神は愛。
愛を映す鏡だからです。

原初から終わりまで、アルファからオメガまで、たったひとつのものしか存在しません。それが神、大いなる存在です。それ以外は存在しないのです。だからあなたもわたくしも神の一部なのです。

厳密に言えば、始まりも終わりもありません。時間というものも存在しません。あなた方の偉大なる教師仏陀は、それを無始無終と説きました。

余計なことは考えない方が賢明です。心を無にする時間を作ってください。
思考は悲観論者です。やがてそれは否応なく不安を呼びます。思考は不安の水先案内人ですから。

あなたが迷うのは自然のことです。しかしそれが、迷い苦しむ状況であるのなら、迷わないことです。我欲を捨てて即座に決断することです。
あなたの行く道は、迷っても迷わなくても同じです。しかし、我欲を捨てれば、少しだけ違った、素晴らしい世界へ移行できます。

あなた方の偉大なる教師仏陀は、その境地をなんと呼んだかご存じですか。
そうです、無念無想です。
過去でもなく、未来でもなく、今という一瞬を生きてください。

あなた方の地上での命には限りがあります。生まれいずる前はその期限を知っていたのに、人類は、あえて忘れるようにできています。今日を最後と思って、日々を大事に生きてください。地上での最後の日は、予期せぬ時に必ず訪れるのですから。

最後にひとつ。わたくしは十字架の上で磔になどなってはいません。妻や子とともに、創造主に呼び戻されるまでの命を全うしました。

ミシュアの声が蘇った。



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最後の晩餐