─走れメロス─
団地の玄関をくぐり通路に入ると、急に薄暗くなる。それはまるで、夏の夕暮れに降る通り雨の空を思わせた。エレベーターのあった右方向へ通路を進む。
108の表示がふと目にとまる。強く心惹かれて立ち止まり、そのドアノブに触れた。ああ、うんと大きいイメージだったけど、こんなだったっけ。
視線を上げ、クリーム色に塗られた鉄製の古びたドアを撫でた。家族四人で暮らした家。母がおかえりと出迎えた家。そして、妹がやってきて僕の王座が奪われた家。
開けてみたい衝動に駆られたけれど、父が鍵をかけるところをこの目で見たのだ。施錠されていないわけはない。
家族が向かったのは、おそらく駅の近くにあったはずのスーパーだろう。だとするなら、まだまだ戻らない。
試しに回してみた。ちょっと引っかかりを感じる丸っこいそのドアノブに、僕の記憶は引き戻される。回す力を少し強めると、ゴンッとドアを震わす音がした。それは、開いた証拠。
呆気にとられた僕は、少し考えてから、引いてみようと決めた。これでは空き巣だとドキドキしながらも誘惑に負けたのだ。鼻先の空気が動き、やはりドアはすんなりと開いた。
「お帰り!」
女性の声に飛び上がりそうになった。とっさにドアを閉めて走り去ろうとした僕は、とんでもない事態に陥った。あろうことか母が顔を覗かせたのだ。血の気が失せた。部屋を間違えました、のいいわけですむだろうか。
「どうだった?」顔を出した母は不思議そうな顔ひとつせず尋ねてきた。
ここは、つい今しがたの公園の延長とは違う場所だ。いや、異なる時間と言うべきだろうか。前であるのか後ろであるかの推測はできないけれど、確実に季節が違っている。こぢんまりとしたダイニングには、ガスストーブが燃えているからだ。
「なに不思議そうな顔してるのよ、タカヒロ」
母の顔に、自分がその時代の中に子供として存在しているのに違いないと考えた。そうだ、確かに視線が低い。目の前の母は公園で見たときのように、まだ若い。
「お父……さんは?」自分の発した声は、明らかに子供のものだった。
「今日は土曜で半ドンだけど、なんだか寄り合いの集まりがあるって、帰りは夕方になるらしいわ」
母がエプロンで手をぬぐいながら玄関のスイッチを入れた。ベランダ以外に採光部はないから確かに暗い。
「で、どうだったのよ」母は意味ありげな顔で重ねて尋ねるが、どうだったのと訊かれても意味が分からない。
「何の話だっけ」僕は忘れたようにも、空とぼけているようにも見える表情を作った。
靴を脱ぐとき初めて自分がランドセルを背負っていることに気がついた。
「ははーその感じじゃダメだったのね、チョコ」
「おにいちゃん、おかえりー!」
片手にキティのぬいぐるみを抱えた妹が奥から顔を出した。
「おにいちゃん、チョコのおみやげは」
チョコ? おみやげ?
僕の背筋をざわざわとするものが這い上がる。そして、ひとつの可能性に行き当たる。
今日はバレンタイン・デーじゃないのか。
母が尋ねたのは、きっとバレンタインのチョコの話だ。そしてそれは、必然的にもうひとつの出来事に行き着く。
今日が父の命日ではないかということに。
大好きだったアヤコちゃんにチョコをもらった小学1年生の2月14日、父は死んだ。僕の心は一気に乱れた。
「アヤコちゃんのチョコの話?」
「決まってるじゃない」
「それなら、もらえたよ」
そう、僕はあの日、アヤコちゃんにイチゴのチョコをもらったのだ。それは結局、僕の目を盗んだ妹が全部食べてしまったのだけれど。
「今、何時だっけ」
「1時半よ」
「学校に忘れ物をしちゃった。取ってくる」
「おにいちゃんの、あわてんぼう」妹が鼻の付け根をくしゃりとさせた。
団地の玄関を出た僕はすぐさま走った。父が死んだ場所は分かっている。お葬式のあと三人で、父の好物だった豆大福と日本茶をお供えに行ったから。
父は事故で死んだ。寄り合いの席で、酒の飲めない父のコーラに冗談半分に、こっそりとウィスキーを注いだ人がいたのだ。少量とはいえ、下戸だった父にはダメージになったはずだ。具合が悪くなったと、寄り合いの席を途中で退席した父は車を運転し、交差点を曲がりきれずに民家のブロック塀に激突して死んだ。
僕はそこを目指して必死に走った。角にクリーニング屋のある交差点。僕が思い出せるのはおおよその方向とそのクリーニング屋だけ。
細い通りを走り抜け大通りに出た。事故が起きたのはこの通り沿いではない。真っ直ぐに走る。公園の横を通り左へ曲がる。遠い、思ったよりも遠い。僕の小さな体は、なかなかスピードが出ない。
車の少ない信号は無視して走り渡った。いくつかの角を曲がり自転車を避け、歩行者を追い越しまっしぐらに走った。息が切れる。肺が苦しい。
それでも僕は交差点を目指して走り続けた。どこだ、どこだ、どの道が一番近いんだ。あやふやな記憶と焦りも相まって、僕の頭は混乱していった。
そして僕は凍り付いた。生い茂るドングリの木が見える。また公園の近くに戻っている。力を奪われるように僕は立ち止まった。肺が苦しい。足が萎えて震える。思い出せ、思い出せ。あの交差点はどこだ。名前は何だ。
再び走り出した僕は、たばこ屋の角を曲がり八百屋の横の細い路地に走り込む。前にはおばあちゃんが犬を連れてゆっくりと歩いている。追い越せる幅はない。
おばあちゃん通して! おばあちゃんには聞こえない。僕はたたらを踏んだ。その横で民家の犬が吠える。その気配でおばあちゃんは横に避けた。
「あ、おばあちゃん、クリーニング屋さん、近くに、ない?」肩で息をしながら僕は訊いてみた。
「あ?」おばあちゃんは手のひらを耳に当てる。
「この近くに、クリーニング屋やさんは、ありませんか?」僕は声を大きくした。話すだけで息が上がる。
「ああ、ああ、どこだったっけねえ」と、首をかしげたおばあちゃんは人差し指をウロウロさせる。一瞬待ってみたが、らちが明かなかった。
「ありがとう、おばあちゃん」
「クリーニング屋さんでしょう?」
「大丈夫だから、おばあちゃん」
子犬を飛び越え僕は路地を走り抜ける。
右を見た。左を見た。
あった!
見えた。遙か先に緩いカーブを描く交差点の信号が見えた。その角にクリーニング屋の赤いテント。あれだ。間違いない。記憶の景色と合致する。
直線道路、三つ先の信号だ。距離はおよそ200メートル。僕は拳を握り、腕を強く振り、狭い歩道を避けて車道を走った。頬の肉がブルブルと上下左右に揺れる。足に残った最後の力を振り絞った。
父さん、父さん、車を止めろ! 体にアルコールが入ったことに早く気づけ! 呪いを解くように唸り続ける口の端からよだれが飛んだ。
父さん、父さん!
肺が苦しい。アゴが上がる。足がいうことをきかない。腿を上げろ、腕を振れ。あと100メートル。
長いじゃないか! 100メートルも走れない! 限界だ!
ダメだダメだ! 弱音を吐くな! 走れ、走れ、黒い風になれ!
もう少しだ。あと50メートル。空気が吸えない。息が苦しい。あとちょっと。間に合う、間に合う、間に合え!
そのときだった。右折をしてきた軽乗用車がスローモーションで民家のブロック塀に突き進んでいった。見開いた目に車の行く末が見えた気がした。周りから音が消えた。
あれだ。あれに父が乗っているのは間違いない。車は止まらない。なおも突き進む。そして、あえなく、ぐしゃりと激突した。ヘッドライトの破片が飛び散る様が見えた。
耳に音が戻ってくる。
車の急ブレーキ音と何台ものクラクションが鳴り響く。父の車はそこに当たってから、錐揉み状に回転した。
遅かった。間に合わなかった。僕は両手を膝に付き、肩で息をしながら交差点を見つめた。やがて力尽きて膝から崩れ落ちた。後ろからクラクションが鳴った。
轢きたきゃ轢け。僕は力なく、すてばちに呟き、頬にたまった唾を絞り出すように吐いた。それは長い糸を引いた。
救急車のサイレンの音がした。立ち上がった僕はその光景をボンヤリと眺めた。
父の無残な死に顔を見る勇気はない。
ごめんよ父さん。
事故の現場に背中を向けて、僕はうつむいて歩き出した。ぼやけた先に左右に踏み出される靴だけが、蜃気楼のように見えた。
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