―ノーコンテストの時代―
誰々が大きなミスを犯したらしい。誰それが左遷された。どこどこの業績が振るわないようだ。どこそこに勝ったぞ。
やった! ついに撤退に追いやった。
それは、甘い甘い蜜の味。
僕たちはなに疑うことなく、こんな競争社会の中で生きてきた。
この本「競争社会をこえて」を読んだのは、かれこれ20年も前になる。

著者アルフィ・コーンは訴える。私たちは生まれて以来、競争社会の中に浸って生きてきたせいで、魚が水の存在について考えたり疑問をもったりしないように、競争することに疑問を持たずに生きているのだと。
「競争が避けられないものであり、競争がより生産的なものであり、競争がより楽しいものであり、競争が人格を形成してくれるものである、という四つの神話は基本的に誤っている」
「競争は協力ほど成果を生まず、かえって悪影響が出る。他者の敗北なしに自らの喜びが得られぬ競争より、ともに達成感を味わえる協力・協同の方が力強い」
「競争社会をこえて」には複数の人たちの言葉が紹介されている。
「自分のチームが負けたあと泣き出してしまうリトル・リーグの野球選手、フットボールのスタジアムで勝利をたたえ合う大学生、算数の試験でよい成績をおさめたことを鼻にかける小学生など、勝利に対する強迫観念があらわになっているケースがよく見られる。これらは文化的な強迫観念と言える」
―社会心理学者エリオット・アロンソン―
「競争は、学習された現象である。人々は、勝とうとか、競争しようという動機をもって生まれてくるわけではない。勝利を目指す生き方は、訓練を通じて、また環境の影響によってもたらされる。君は、念には念を入れて、教え込まれてきたのだ」
―スポーツ心理学者トーマス・トッコ―
アルフィ・コーンも、「生存していくためには、対抗しあうよりも、協働することが必要」と語っている。
けれど、こんな考え方もある。
〝競争のないところにサービスは生まれない〟
言葉通り、競争があったからこそ技術は進歩し、よりよいサービスが生まれてきたのもまた確かなことだ。
僕は若い頃から口にしていた。「税金で飯を食う人間をもっと減らすべきだ」って。そう、競争の中に身を置け、ということだ。
たとえばスーパーがイオン一社だったとしたら。あるいは西友一社だったとしたなら。
たとえばコンビニがセブン・イレブン一社だったら。あるいはローソン一社だったなら。
僕たちが受けるサービスも価格も現在のようではなかったろう。
公共料金の支払いは相変わらず郵便局や銀行に行き、番号札を取って長々と待つことになっただろうし、宅急便は遠くの営業所まで行くことになっていただろう。
競争といえば、今年の4月から電力の自由化が始まる。
原発再稼働を相次ぎ始める電力各社も寝惚けているが、最たる寝ぼけ老人であり無責任体質の東電の尻にも火が点き、サービスの強化に走るだろう。
役所を始め公共機関のサービスも、競争に晒されている民間が入ればもっといいものになるに違いない。
けれど、サービスを向上させ料金を下げようとすれば必ずどこかにしわ寄せが来る。一番削減しやすいのが人件費だろう。労働時間や内容も含めて、働く人たちの負荷が必ず増す。
少ない人件費で過分な利益を上げようとすれば、どこぞのブラック企業になる。それを回避するのは経営者の資質にかかってくるのだろうが、それは夢のまた夢。
セブン・イレブンができたとき、朝の7時から夜の11時まで営業していることに世間は驚いた。どこも店開きしていない時間にオープンして、どこもかしこも閉店した以降も営業している。
それが今は、コンビニ各社24時間営業になっている。マツキヨも一部の店舗は24時間営業をしている。これらはお客様のためという大義名分を振りかざし、実際のところは勝負に勝とうとしている。
便利になった。信じられないくらいに便利になった。
それでもなお、この競争社会をこえていかなければならないと僕は思う。他人の不幸、不利益が我が身の幸福であってはならいと思う。足を引っ張り合うのはそろそろやめにしよう。
仕事の都合上箱根駅伝を見ることはないのだけれど、あのワンチームを地球、人類と考えてみたならば、僕のジレンマも消えるのかもしれない。
年末年始はどこのお店も開いていなかったあの頃へ、お醤油がなくなれば隣に借りに行ったといわれるあの時代へ、僕たちは帰ってもいいのではないだろうか。それで誰かが不幸になったなんて、僕は聞いたことがない。
昭和な男のひとり言。
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