愛は4年で終わる⑧-オルレアンの乙女 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

オルレアンの乙女

 

 ドンレミ村

 

「百年戦争」が続く1412年1月6日ごろ、フランスの北東部、ロレーヌ地方の農家にひとりの女の子が生まれました。

 父親の名前はジャック・ダルク。母親はイザベル・ロメ。女の子は「ジャネット」と呼ばれ、とても愛されて育ちました。

 ジャネットが生まれたときには、すでに3人の男の子がいました。長兄のジャックマン、次男ジャン、三男ピエール。ジャネットの1年後には妹のカトリーヌが誕生しています。

 

 東側に神聖ローマ帝国領を望む小さなコミューン・ドンレミは、周囲を敵方であるイングランドの支配地域とブルゴーニュ公領に囲まれる場所にありました。王党派に属したドンレミ村は何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともありました。

 

 

「ムーズ川沿いのドンレミ村」

 

 父親は租税徴収係と村の自警団団長を兼ねていました。ジャネットは父親の持ち物から、貧しい人によく施し物をしました。クリスチャンにとっての愛の表われである「施し」に忠実な少女でした。

 

 糸紡ぎを手伝い、時には犂(すき)を引いたり刈り入れをしたり、自分の順番になれば家畜の番もしました。少女はよく働きました。

 犂(すき)=田畑を耕す農具。

 

 

 

「ジャンヌの生家」

 

 ミカエルの声

 

 少女は神を畏れる篤い信仰心を持っていました。洗礼を受けた「サンレミ教会」の夕べの鐘が鳴ると、ひざまずきました。

 

 ミサを知らせる鐘が鳴れば、畑にいるときでも村の教会に帰ってミサに参加しました。

 

 特に母親は敬虔なカトリック信者で、毎週日曜日には家族そろって教会に行き、祈りを捧げていました。

(当時のキリスト教はカトリックのみ)

 

 少女は、サンレミ教会が時を告げる鐘の音が大好きでした。

 

 

「サン・レミ教会」

 

 少女が初めてミカエルの「声」を聞いたのは、13歳のころ。教会の近くに建つ、生家の中庭でのことでした。このときも、サンレミ教会がお昼の鐘を鳴らしていたといわれます。

 

  大天使「ミカエル」と「聖女カトリーヌ」「聖女マルグリット」による「姿と声」は、存亡の危機にあるフランスを救うよう彼女に呼びかけたのでした。

 

 その後、少女はたびたび声を聞くようになります。

 

 

『大天使ミカエルがジャンヌ・ダルクに登場 』

  モーリス・ブーテ・ド・モンヴェル

 

 百年戦争

 

 百年戦争は英仏間の長い戦争、と捉えられがちですが、その当時はまだ「国家」という概念がない時代でした。


 そもそも「イングランド王家」の発祥地は、「フランス」の北西部に位置するロワール地方です。「イングランド王」は、フランス出身であり、フランス国王の「臣下」だったのです。

 

 遡ること1066年、「ノルマン・コンクエスト」(ノルマン人のイングランド征服)が起こりました。

 

 それにより、「ノルマンディー公ギヨーム2世」(後のイングランド王ウィリアム1世)が「イングランド」を征服して王となり、ノルマン朝を創始しました。

 

 

『ノルマン・コンクエスト』

 

 当然と言いますか、「イングランド王」となった「ノルマンディー公ウィリアム」や家臣達は「フランス王」とほぼ変わらぬ言葉(ノルマン訛りのフランス語)を話していました。

 

 彼らが、英語を話す「ブリテン島」の人々を征服し、治めていたのです。

 

 1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じて、「イングランド王国」が「フランス王国」の「王位継承権」に介入しようとしたことが発端になりました。

 

 なぜ、イングランドはフランスの「王位継承権」に手を出そうとしたのでしょうか。

 

 この「イングランド王国」は縁組みによりフランスの全土の半分近くの封建領主となっていました。

 

 しかも、フランス王家とも縁組みをしたので、フランス王家で男系が途絶えそうになった時「王位継承権」を要求したのです。

 

 

 

 

「ノルマンディー公家」は、バイキングの一派であるノルマン人の首領が「フランス王」から領地をもらって家臣になったもので、ルーツはノルウェーです。

 

 乱暴な言い方をすれば、フランスが「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」状態に陥ったのです。

 

 このように、1453年までのおよそ1世紀の間、「イギリス王家」と「フランス王家」の対立を軸に、ヨーロッパ諸侯で展開された抗争状態を「百年戦争」といいます。

 

 

 プリンス・オブ・ウェールズ

 

 1282年「イングランド」はウェールズ全土を征服し、1536年、併合法によりウェールズは国の形を失いました。

 

 1301年「エドワード1世」はウェールズ人の反乱を抑えるため、王子エドワードに「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を授けて、ウェールズの名目上の君主としました。

 

 

 

 それ以降、イングランドの次期国王が「プリンス・オブ・ウェールズ」となる慣例が定着し、現在に至るまで続いています。

 

 ウェールズを統治した、真の「プリンス・オブ・ウェールズ」は「イングランド」の侵略のため3代で終わりました。

 

 ちなみに、それまで使われていた「フランス語」を「英語」に変えたのが、イングランド王「ヘンリー5世」です。1415年のことでした。支配地の民族が使う英語が国王の公式言語となり、現在に至ります。

 

 イギリスとフランスはこの百年戦争を闘い抜くことで、「国家」「国境」「愛国心」「固有の言語」を備えていきます。

 

 

 信長にとっての天下

 

「国家」の概念がない時代を日本に置き換えると、15世紀末から16世紀末にかけて、後継争いの「応仁の乱」を始まりとする「戦国時代」がそうでした。

 

 織田信長が足利義昭を後押しして15代将軍に就任させたころまでの「天下」は「日本」ではありませんでした。

 

「畿内((きない)」いわゆる天皇と将軍がいた京都を中心とする、非常に狭い範囲を指しました。

 

 山城(京都府)・大和(奈良県)・摂津(大阪府と兵庫県の一部)・河内(大阪府)・和泉(大阪府)です。

 

 将軍の勢力がおよぶ範囲はこの狭いエリアだけでした。

 

 

 

 その後、将軍・足利義昭が信長と敵対して室町幕府が滅び、信長が畿内の外にいる敵対勢力を制圧していく中で、彼の目は全国制覇に向けられていきます。

 

 いわゆる「天下布武」から「天下統一」への変化です。そこで初めて「天下」は「日本」を意味するようになっていきました。

 

 ロングボウ

 

 つまり、百年戦争は「イギリス」と「フランス」という主権国家間の戦争ではなく、フランスの領主たちが二派に分かれた争いでした。

 

 戦闘はフランス内部だけで行われ、イングランド軍の攻撃によりフランス経済は壊滅的な打撃を受けていました。

 

 黒死病(ペスト)や、フランス国内の分裂、王の摂政の座を巡るアルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦もあり、戦況はイングランドが優勢でした。


 

「ウェールズのロングボウマンを大量に使ったイングランド軍

 

「イングランド軍」は長さが120-180cmほどもある長大なロングボウ(長弓)を使い、速射において劣るクロスボウを使っていた「フランス軍」を相手に、目覚しい効果をあげました。

 

 ロングボウはウェールズ軍が使った弓で、イングランド軍もしばしば撃破される武器でした。イングランド軍はこのウェールズのロングボウマンたちを雇い百年戦争に活用しました。

 

 バネの力により発射するクロスボウの威力は、ロングボウに劣らないものの、弓を射るまでの所要時間が長く射程も短いため、遠くから射るロングボウが有利に働きました。

 

 

 

 ただ、誰でも使えたクロスボウに比べ、ロングボウは熟練の腕と筋力が必要なため、ロングボウマンの不足が戦況に影響を及ぼしていくことになります。

 

 のちのことですが、フランスも新兵器「大砲」を投入することにより、形成が変わり始めます。

 

 

 トロワ条約

 

  百年戦争の末期1420年5月21日、フランスのトロワで「トロワ条約」が結ばれます。

 

  条約の中で、フランス王「シャルル6世」の死後に、イングランド王「ヘンリー5世」が後継者になることが決められました。

 

 これにより、フランス王太子(シャルル7世)は王位継承権を失うことになります。

 

「トロワ条約」は、フランス王「シャルル6世」が狂気に陥り、国内統治が不可能な状態であったため、王妃「イザボー・ド・バヴィエール」が代理を務めました。

 

 

『シャルル6世の狂気と悪魔祓い』フランソワ=オーギュスト・ ビアール

 

 フランス王妃「イザボー・ド・バヴィエール」と、ブルゴーニュ公「フィリップ3世」、イングランド王「ヘンリー5世」の間で調印されたのが「トロワ条約」です。これにより「イングランド」が優位に立ちました。

 

「イザボー・ド・バヴィエール」はさまざまな姦計をめぐらせ、フランス史上随一の悪女・淫妃とされます。

 

「シャルル6世」の弟「オルレアン公ルイ」と肉体関係を持ち、アルマニャック伯「ベルナール7世」、シャルル6世の叔父にあたる「フィリップ3世」とも不貞関係を噂されました。

 

 そのため、反対派からは「淫乱王妃」と呼ばれ、ブルゴーニュ派とアルマニャック派が対立する一因となりました。

 

 

「イザボー・ド・バヴィエール」

 

 やがて、息子である「シャルル7世」と対立することになる彼女の無軌道な振る舞いが、結果的にフランスを危機のどん底に引きずり込んでしまうことになるのです。

 

 

 王妃イザボー

 

 彼女はエリザベートではなく、「イザボー」と呼ばれ、今も忌み嫌われています。

 

 のちに「フランスは女(イザボー)によって破滅し、娘(ジャンヌ・ダルク)によって救われた」との言葉が流布されました。

 

 条約締結後の1420年6月2日、イングランド王「ヘンリー5世」とフランス王妃「イザボー」の娘、王女カトリーヌとの結婚式が行われて「トロワ条約」体制が確立します。

 

 

 

 

 1422年、飛ぶ鳥を落とす勢いで征服地を広げるイングランド王「ヘンリー5世」が急死し、続いてフランス王「シャルル6世」が亡くなると、生後9ヶ月の「ヘンリー6世」がイングランド王位とフランス王位を継承することになります。

 

 フランス摂政に就任したヘンリー5世の弟「ベッドフォード公ジョン」が事実上の総帥となり、対する王太子「シャルル」もフランス王「シャルル7世」を称して、王座に一縷(いちる)の望みを託します。

 

 

 

  フランス摂政となったヘンリー5世の弟「ベッドフォード公ジョン」がやがて、ロワール川以北で「シャルル7世」に忠誠を尽くす最後の街「オルレアン」を攻囲することになります。

 

  少女が歴史に登場するのは「イングランド」が「フランス」をほぼ掌中に収めかけていたこの時期でした。

 

「フランスを救いなさい」という「ミカエル」の声は、13歳の少女には重すぎるものでした。しかし、敬虔な少女は3年後の1428年、その啓示を信じ行動を起こしました。

 

 「ジャネット」はのちにこう呼ばれました。

 

 Jeanne d'Arc「ジャンヌ・ダルク」

 la Pucelle d'Orléans「オルレアンの乙女」

 

 

 続きます。

 

 

─To be continued.─