ユダヤ教の異端児
改革者
ユダヤの宗教指導者、とりわけ「ファリサイ派」に迫害を受けたイエスと信徒たち。理由のひとつは、イエスが彼らに対して、ユダヤ教の「改革」を求めたことでした。
《それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」》
<マタイの福音書23章 2-3節>
さらに、自らを神の子と称したことで、ファリサイ派の怒りを買いました。正確には、神を「わたしの父」と呼ぶのですが、「父から聞いたこと」「父がわたしをお遣わしになった」など、そのくだりは随所に描かれています。
《そこで、イエスは彼らに答えられた、
「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。
それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである》
<ヨハネの福音書 5章 17-18節>
「イエスに挑むファリサイ派とサドカイ派の人びと」
ジェームズ・ティソ
安息日
サドカイ派とは、主として祭司で構成され、紀元前2世紀から紀元後1世紀に存在したユダヤ教党派のひとつです。
ローマ帝国と、ユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われたユダヤ戦争で消滅しました。このため、ライバル関係にあったファリサイ派がユダヤ教の主流となっていきます。
「律法」を厳格に守ろうとするファリサイ派(パリサイ派・パリサイ人びと)にとって、教義の根幹である戒律、とりわけ「安息日」(あんそくにち)を軽視するイエスは、容認できない存在だったのです。
「安息日」は働いてはいけない日です。あらゆる作業と捉えるとわかりやすいかもしれません。
現代でも、会社に行くことも禁止です。週に一回なので驚くことではありませんが。
火や電気、車などを使う行為も、すべて安息日には禁じられています。ということは料理も禁止です。もちろん、事前に用意したものを食べますが、携帯電話も禁止です。
テレビもON-OFFを避けるため、見たければ点けっぱなしです。お店もすべて閉まります。交通機関も止まります。ロウソクで過ごします。
熱心な信者、という注釈は必要かもしれません。気にしない人は普通に過ごします。飲み屋は開いてます。ちなみに、熱心な信者は25%ほどとされます。
「律法学者とファリサイ派の人たち、あなたがたはわざわいだ」
ジェームス・ティソ
わたしの父
話を戻します。加えて「わたしの父」発言です。自分が神に等しく、権威と権力を持つと主張するイエスを、ファリサイ派の学者たちが許すはずもありませんでした。
《律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。》
<マタイの福音書23章 25-26節>
イエスは「キリスト教」を立ち上げようとしたのではありませんでした。それはのちに使徒たちが行ったことです。
徒(いたずら)に厳しくした律法を民に押しつけ、先生と呼ばれることを喜び、外面を飾るばかりで内なる信仰のない彼らを、イエスは厳しく「糾弾」したのです。それは、ユダヤの民を正しい信仰に導こうとしたからです。
もしも、イエスが静かに一派を立ち上げていたら、十字架上の死もなかったのかもしれません。
いえ、イエスはむしろそれを望んだのです。
贖 罪
救い主であるイエス・キリストが、人類をその罪(原罪)から救うために、身代わりに磔になることこそ、イエスが来た理由だからです。
人類の罪に対する「贖罪」(しょくざい)としての磔刑があり、復活があり、それを受けた使徒たちの、命がけの布教があったからこそ、キリスト教は世界宗教になったといえるでしょう。
人間は生まれながらにして罪深い存在。いわゆる「原罪」を負っているとされるため、その「罪をあがなう」ため、イエスはゴルゴダの丘へと向かいました。
※教会(教派)により、「原罪」の扱いは微妙に異なります。ちなみにですが、プロテスタントは牧師で、神父はカトリックです。
《だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。》
<マルコ福音書8章34節>
原 罪 説
失楽園
「原罪」とは、ヘビにそそのかされたイブが、エデンの園にある「善悪を知る木」(善悪の知識の木)の実を食べ、アダムを誘惑して食べさせたことにより生じました。
その結果、神の怒りに触れて、ふたりはエデンの園から追放されます。創世記に描かれたこの神話が「原罪説」の源泉になっています。
天地創造
(アダムの誕生前です)
《これが天地創造の由来である。
主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。》
<創世記2章 4節>
(上から続く、アダム誕生のシーンです)
《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。》
<創世記2章 7節>
(おかしなことが起こりました。創世記1章に戻ります)
《「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。》
<創世記1章 11-13節>
アダムとイブが誕生したのは6日目、最終日です。天地創造の3日目に草と果樹などは完成していたので、2章と辻褄が合いません。が……寄せ集めた神話ですので、目くじらを立てないでください。
善悪を知る木
神は「命の木」はよいが「善悪を知る木」からは食べてはいけない、とアダムに厳命します。
《主なる神は言われた。 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」》
<創世記 2章 18節>
神は、深く眠らせたアダムの肋骨からイブを誕生させます。ちなみに、イブの名付け親はアダムです。
そしてふたりに、誘惑の手が伸びます。
誘惑に負けるイブ
《主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」》
<創世記3章2-3節>
「お前たちは追放ぢゃ」
イブはアダムから間接的にしか聞いていないようです。だからか、誘惑に負けます。
《蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。》
<創世記3章4-6節>
「食べなさいよアダム。神のようになるらしいわ♬」
堕 落
しかし、木の実を食べたことが神に知られてしまいます。
《神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」》
<創世記3章 11-13節>
お互い見事に責任転嫁を始めました。アダムにいたっては、あなたが共にいるようにしてくれた女、と暗に責任の一端を神に負わせようとしています。
「一番左が神です」
余談ですが、アダムは食べた林檎が喉仏に、イブは胸で止まって乳房になったと言われています。英語では「喉仏」のことを「Adam’s apple」と言います。
「王林です」
ふたりが食べた禁断の果実が「林檎」である、とは聖書には書かれていません。イチジクの実だ、という説もあります。
目が開けたふたりは裸を恥ずかしく思い、イチジクの葉をつづり合わせて腰を覆ったのはこのときです。
「向かって一番左がジョナゴールドです」
下された罰
神は最初にヘビに呪いを掛けます。
《お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」》
<創世記 3章15節>
次にイブです。
《神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」》
<創世記 3章16節>
このイブへの罰を、ヨハネはやさしくこう解説します。
《女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。》
<ヨハネの福音書16章21節>新約聖書
「ヘビよ」
アンナ・リー・メリット作『イヴ』1885年
イブがアダムの肋骨からできた、というのは誤訳と思われますが、詳細は省きます。
塵に帰る
善悪を知る木から食べたことにより、人間は「死」を免れなくなりました。
その割には、アダムは930歳まで生きたとされています。イブが何歳まで生きたか定かではありません。
《神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」》
<創世記 3章17・19節>
お前は一生働け、と言われました。
「善悪を知る木」は、アダムとイブが、神に忠実に歩むかどうかをテストするための木でした。
このようなテストは「アブラハム」に対しても行われました。彼の息子イサクを生贄にせよと神が命じるのです。
「アブラハム」って誰……続きます。
─To be continued.─
※文中の聖書は、基本的に1987年の出版の「新共同訳」を使用しています。
「日本基督教団」「日本聖公会」「ローマ・カトリック教会」が共同して翻訳に当たったものです。
最新の学問的成果をふまえて、読みやすい日本語で表現されています。個人的には、すべての翻訳に少しずつ不満があります。
では、また。
─To be continued.─