愛は4年で終わる⑤-いつも何度でも | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」
 先にも書きましたが、僕はキリスト教徒ではありません。それがなぜ、難解とも思われる聖書の世界に足を踏み入れたのか。

 それは、とても単純なクエスチョンでした。神とはなんだろう。それは存在するのだろうか

 まだ頭が柔らかくて、知識欲が旺盛で、なぜ、なに、が夏空の入道雲のようにわき上がる十代のころでした。



 仏陀(ゴータマ・シッダールタ)とキリストは実在したんだろうか。彼らはどんなことをして、どんな言葉を残したのだろう。

 さらには、人は死んだらどうなるのだろう。「死後の世界」はあるのだろうか。

 あるとすれば、どんなところなんだろう。たくさんの「なぜ」は泡のようにぷくぷくと生まれていきました。

 はたして、生まれ変わりはあるのか──。この疑問を探り始めたのは、二十代も半ばだったと記憶しています。



 ちなみに、輪廻転生(りんねてんせい・てんしょう)の思想は仏教にはありますが、キリスト教にはありません。

 輪廻の考え方は釈迦以前から存在していたもので、初期キリスト教には、それがあったとする説もあります。

 輪廻の状態を脱することを、解脱(げだつ)=涅槃(ねはん)と呼びます。煩悩から脱して自由になることを指します。悟りの境地と言えばわかりやすいかもしれません。解脱は仏教の究極の目標とされます。



 仏陀はこう言いました。
有情(うじょう=人間のこと)、輪廻して六道に生まるること、なお、車輪の始終なきがごとし
『心地観経』(しんじかんぎょう)

 六道(ろくどう・りくどう)とは、「天」「人間」「阿修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」という六つの領域を指します。その世界で輪廻を繰り返す、とするのが「六道輪廻」です。

「畜生道」があるのですから、動物も生まれ変わります。輪廻を「苦」とし、解脱を目指すのです。

「千と千尋の神隠し」では、食べ物を貪り食う千尋の両親が豚になってしまいました。「人間道」から「畜生道」に落ちてしまったのです。

 お釈迦様の話をする予定ではありませんので、これ以上の詳細は省きます。



 疑問は続きます。苦難はなぜ起こるのだろう。ひとはなぜ痛みに苦しみ、なぜ病み、なぜ突然、愛する人たちを残して斃(たお)れるのだろう。

 祝福の中オギャーと生まれ、この世に思いを残しながら死んでいく。「死にたくない」と思いながら死んでいく。そこにいったい、どんな意味を見出せばいいのだろう。

 短い命をつなぎながら、人類はどこへ向かっているのだろう。

 死が不可避な壁であることを知りながら生きている人間。それらを背負ってしまった理由が知りたい。



 マイクロソフトのOS「ウィンドウズ95」が発売された1995年が「日本のインターネット元年」とされます。

 覚えているでしょうか。オウム真理教が、凶悪なサリン事件を起こした年です。まだ30年も経ちません。ネットが一般化する以前に、頼りになるのは書籍だけでした。

 そんな模索の中、おぼろげながらも見えたことは、苦難や災難、それぞれに「原因」はあっても、思い悩むことには、あまり意味がないだろうこと。大切なのは、どう受け取るかに違いない、ということ。

 怒や悲しみ、あらゆるものに、支配されてはいけないということ。言うは易く行うは難しですが。



 そして理解したのは、死後の世界は存在するということ。要求したり、拘束するものは神ではないこと。

 その結果として、あらゆる宗教を否定する立ち位置にいます。お金が絡む宗教は疑ってください。入信させようと躍起になるものも同じです。

 神は聖書の中にも、あらゆる宗教の中にも存在しません。ただ、イエスや仏陀が遺した言葉のエッセンスは、生きていくうえで糧になるだろう思っています。

 ならば、神は存在しないと結論づけたのか。



 いえ、果てしのない宇宙(宇宙年齢は137億年。膨張を続ける宇宙は、それよりはるかに大きいと推測されている)を創り出した「意思」は存在するはずです。

 現在定説とされている「ビッグバン」と呼ばれるものが、人知を超えた「存在」抜きで、たまさか起こった現象とは、とても思えないのです。

 宇宙の外にも宇宙がある。あるいは、生成の可能性がある、とされますが、天文学者や物理学者たちの研究は推測の域を出ず、その実体は、僕たちの想像の域をはるかに超えているものと思われます。



 日本人は無宗教といわれますが、その指摘は的を外しています。そもそも、聖書の「God」を「」と訳したことが間違いのもとでした。唯一絶対神の「God」と日本人の「神」とは異なるものだからです。

「God」の概念を持たないだけで、山や川、吹く風、昇る朝日。自然のあらゆるものに宿る「神」を感じながら暮らしてきたのが日本人です。



 日本各地にある「お祭り」は、祈りと感謝です。神輿に乗せた御霊の力で災害を鎮める願いもあります。お祭りは「祀り」に由来しています。

 その敬虔な生きざまを理解していないキリスト教圏、あるいは唯一神を信仰する人たちに、日本人はGod(信仰)を持たない、と思われても仕方のないことだといえます。

 古来、さまざまな神様を受け入れてきたからこそ、赤ちゃんを連れて神社で「お宮参り」をし、「お神輿」を繰り出し、命を終えたら、お寺で「戒名」をもらわないと収まりがつきません。

 そして、ツリーを光らせて、チキンとケーキでクリスマスを過ごします。

 そのことに、なんらの不都合も感じませんし、心が咎めることもありません。

 たとえば「七福神」。その中で日本由来の神様は、海の神「恵比寿天」一柱(ひとはしら)のみです。

 よくペアにされる、打ち出の小槌を持った大黒天は、インドのヒンドゥー教の主神のひとつです。破壊神シヴァが姿を変えたマハーカーラが大黒天であるとされます。



 飲んで美味しい
「YEBISU」さま。もちろん、釣竿と鯛を持った恵比寿天が描かれています。


 話は逸れますが、「恵比寿駅」は元々、ヱビスビールの出荷用貨物駅として1901年に開設された駅です。

 ご存知のように、「ゑ」と、ヱビスビールの「ヱ」は漢字の「恵」が変形してできたものです。

「ゑ」は、その昔(鎌倉時代の前)の発音は、今にも吐きそうな「we」だったそうです。

 話を戻します。

 それほどしなやかな日本人が、唯一神を信仰するのは無理があるのでは、と思うのです。

トイレの神様」という歌が流行りましたが、あれこそが日本人の感性だったのです。(2010年・植村花菜)

 そんな僕が手にしたもののひとつが「聖書」です。ここで「メメント・モリ」的なことを書くつもりはありません。

 日本古来の神道における観念「八百万の神」を否定するものでもありません。というより、大切にするべきだと思っています。



「井上あずみ - いつも何度でも」

 ジブリ作品はいろんな方が歌っていますが、「千と千尋の神隠し」“いつも何度でも”は木村 弓さんが歌いました。

 かなしみの数を言い尽くすより
     同じ唇でそっとうたおう♬

 貼ったYouTubeは、宮崎駿監督作品
『天空の城ラピュタ』・「君をのせて」
『となりのトトロ』・「さんぽ」「となりのトトロ」「おかあさん」「まいご」を歌った井上あずみさんの歌声です。


 さて、「愛」とはなんだろう。
 イエス・キリスト編をふたたび始めます。

 と言いたいところですが、今日はここまでにします。

 では、また。

─To be continued.─