愛は4年で終わる④-マグダラのマリア | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」
 ここで突然「聖書」のお話に移ります。当人はまじめに「愛は4年で終わる」を続けているつもりです。(;´∀`)

」というワードで早くから浮かんでいた、とある一文があったため、ちょっとシフトチェンジをしました。

新約聖書」に収められた手紙なんですけど、勘のいい人は、それだけで気がついたかもしれません。

 ただ、時系列に沿ってではなく、行儀悪くつまみ食いをしていくつもりなので、本題の「手紙」までたどり着くには時間がかかると思います。

 クリスチャンの方以外は親しむことがない聖書。読み通すことも難しい書物なので、この機会にちょっと触れてみてはいかがでしょう。

 あ、僕はクリスチャンではありませんので、苦情には対応しておりません。( *´艸`)





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『告白』竹内まりや/angels
 以前も取り上げたバンドです。いいですねぇ。沁みます。


【十二使徒】
 さて、イエスの主要な弟子たちを「十二使徒」と呼びます。彼らはイエスに選ばれました。

《そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
<ルカの福音書 6章12-13節>

 イエスはちょくちょく、ひとりで山に登ります。

 山といえば、ひと昔前「山ガール」というのが流行って、ユーキャン新語・流行語大賞の候補になったこともありました。……どうでもいい話でした。

 有名な言葉が連なる「山上の垂訓」は、弟子たちと群衆を引き連れて、ガリラヤ湖畔の山上で行ったとされる説教です。





 ちなみに、ガリラヤ湖と死海はヨルダン川で繋がっています。ヨルダン川といえば、イエスが「洗礼者ヨハネ」に洗礼を受けた川です。

「山上の垂訓」の場所は詳しくは分かっていませんが、イエスはガリラヤ地方から遠く離れることはなかったので、だいたいその周辺の小高い山です。



 左は地中海です。

 ガリラヤから離れるのはエルサレムに行く時ぐらいで、それぐらい非常に狭い範囲でしかイエスは伝道していません

 ガリラヤ湖からエルサレムまで、直線距離にして約170キロ。歩けば実質200キロほど。彼らが一日何キロ歩いたかは知りません (;´∀`)

 直線距離170キロはどうでしょう? 東京から静岡市ぐらいでしょうか。伊豆の下田の方が近いはずです。だからといって、歩きません。

 イスラエルの地図はこんな感じです。



 イスラエルは九州より小さい国です。70%ぐらいかな? もしもイスラエルがお餅だとしたら、福岡と長崎を切り離して、びょーんと伸ばした感じです。わ、わかりにくい……。


山上の垂訓」のようすは、新約聖書の巻頭に収められる「マタイによる福音書」(マタイ伝)第5章から第7章と「ルカによる福音書の」6章に記されています。

心の貧しい人たちは、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しんでいる人たちは、幸いである、彼らは慰められるであろう。
<マタイの福音書 5章3節>

「さいわい」が八回も続きます。

 ルカによる福音書6章は、誰もが耳にしたことのある、イエスの有名な言葉が並んでいます。

「安息日に麦の穂を摘む弟子たちの話」(後述の予定)
「手の萎えた人を癒す話」(後述の予定)
貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである──」
敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」



「マグダラのマリアとイエス」


【マグダラのマリア】
 さっそく、人気者の「マグダラのマリア」の登場です。

 マグダラというのは地名です。「ナザレのイエス」と同じです。名前の前に「〇〇の」、とついたら村で間違いありません。

 横浜流星は埼玉です。「の」がついていませんので。

 かつては、「ルカの福音書」に登場する「罪の女」と混同されたりした「マグダラのマリア」でしたが、現在はそのようなことはありません。「娼婦説」も後年の創作と考えられます。

 勝手に「娼婦」にさせられて、迷惑なマリアです。ちなみに「ア」ではなく「ヤ」と表記されることもあります。

 竹内まりやは「や」です。安西マリアは「あ」です。え? 安西マリアを知らない? ː̗̀(☉.☉)ː̖́

「ギーラギーラ♬」ですよ。
 違います。Adoじゃありません。谷まりあでもありません。あ・ん・ざ・い・です。「涙の太陽」です。


  2014年にお亡くなりになりました。(☍﹏⁰)。


また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ
<ルカによる福音書8章2節>

七つの悪霊」とは多すぎです。マグダラのマリアは、心がすこしデリケートな人だったのかもしれません。この出来事が、イエスに仕えるきっかけになったと思われます。





「ヨハネの福音書」では、十字架上で死を遂げ、「復活」したイエスに一番最初に出会います。マグダラのマリアが「先生」と呼び掛けているため、当時のユダヤ人社会では珍しく、女性の弟子だったのかもしれません。


【イエスの復活】
さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが(イエスの)墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、

※「イエスが愛しておられた弟子」と出てくるのは「使徒ヨハネ」を指します。異論もあるようですが……ちゃんと書きましょうね。

だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。

 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。

 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。(もうひとりの弟子ばっかり)

 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。

 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。》
(デリケートです)



「キリストの埋葬」

○十字架から降ろされたキリストの亡骸を、墓に埋葬する場面。「アリマタヤヨセフ」「ニコデモ」「聖母マリア」「マグダラのマリア」がイエスを囲んでいます。

 悲嘆にくれた聖母マリア、両腕を挙げで悲しみを露わにするマグダラのマリアも描かれています。

「アリマタヤのヨセフ」と「ニコデモ」が誰かは後述します。もっとわかりやすくて有名な絵画がありますので。


《そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。

 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。(何度でも同じことを言うマリアです)

 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。(とんだうっかりさんです)

 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園(墓)の番人だと思って言った、

「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。(健気です)

 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。》
<ヨハネの福音書20章1-18節>



「イエスの墓」

 十字架につけられたイエスを、最初から最後まで見守った婦人の中の一人としてのマリア。復活したイエスに、一番最初に会った人としてのマリア。

 ところが、マグダラのマリアは、聖書にはあまり登場しません。しかし、イエスの「布教」「死と復活」の重要な場面に描かれています。それも常に近くにいます。

 聖母マリアの面倒を看るため最後まで付き添い、没したイエスにもっとも忠実であった女性といわれ、キリスト教の主要教派ではいずれも「聖人」に列せられています。

 イエスとマリア「夫婦説」には、根拠がありません。謎が多いせいか、多くの芸術作品の題材となっている女性です。



「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」
『悔い改めるマグダラのマリア』

 それはさておき、イエスの死後に回心したため「十二使徒」に入らない人物がいます。


【使徒パウロ】
 新約聖書の著者の一人で「使徒言行録」(使徒行伝)などにも登場する「パウロ」です。キリスト教の成立と伝道に重要な役割を果たし、「キリスト教最大の伝道者」であるパウロは「使徒」とされています。



「パウロ」

 最初に書きましたが、ギリシアのコリント(コリントス)の教会の共同体に宛てた、パウロの有名な手紙があります。
「コリント人(びと)への手紙」「コリントの信徒への手紙」と呼ばれます。

※コリントス=多くのギリシャ神話の舞台となった、アテネの西南に位置する街。



「古代コリントスのアポロン神殿」

 ユダヤ教徒(ファリサイ派・パリサイ派)として、戒律の厳格な遵守者だった「パウロ」は、イエスの信徒を迫害していましたが、やがて回心し、イエスを信じる者となります。


 今日はここまでにします。

 では、また。

─To be continued.─