猫と彼女がいた部屋「8」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」
翌日、淡い期待を抱いて自転車を走らせたけれど、やはり状況は変らなかった。

ふぅーっと長い息を吐き、緊張のせいか乾く唇をなめながら、隣に建つ大家さんの玄関前に立った。

昨夜は、ベッドの中で幾度も寝返りを打ちながら悶々とした。この説明しがたい状況を、どんな問いかけに変換すればいいのだろうと。

けれどどの道、不審な男に見えるのは間違いない。だから、そんなことはどうでもいいことだと腹をくくった。

知らなければならないのは、僕の身だけに起こったはずのマンションの異変と、彼女の行方だから。

僕は必ず辿り着く。心に決めたのはそれだけだった。

ドア横の表札には木之元とあった。それがKMハイツの名前の由来だということに初めて気がついた。

インターフォンを押して耳をそばだてた。吸っては吐き出す自分の鼻息だけが、気ぜわしく耳に届いた。

やがて、「はい」と返ってきた声に、僕は背筋を伸ばした。

「あ、あの、すみません。105号室を訪ねてきたんですけど──チャイムが壊れてますか? えっと、あの──鳴ってないような気がするんですけど」

しどろもどろになったが、なんとか言葉にできた。

「え?」と言ったきり、インターフォンが無音になった。
風の音だけが僕の周りを支配する。こらえきれず、もう一度口を開いた。

「すみません、105号室を訪ねてきたんです」

「どちら様ですか」
僕が映っているであろうインターフォンに、腰を折るように顔を近づけた。
「105号室に住んでいる人の友人です」
ふたたび、えっ? と声がした。今度はつぶやきに近かった。

もちろん、それが僕に聞かせようとしたものではないことは分かる。それが一層不安をあおった。

しばらくして、ドアがゆっくりと開いた。
年の頃は70代ぐらいだろうか、怪訝そうな顔をしたおばあちゃんが顔をのぞかせた。

「105号ですか」訪問者など予期していなかったであろうおばあちゃんは、白いものが目立つ髪を左手で撫でつけた。

「はい。一番奥の105です」
「間違えてますよ」眉根を寄せて僕を見る。

「はい?」
「105号室に、人は住んでいません」
玄関わきのハナミズキが風で音を立てた。



彼女が、すでにあの部屋にいないことはわかっている。知りたいのはその消息を辿る手がかりだった。

「いつから空き部屋なんですか」
「いえ──ですから、訪ねる場所を間違えています」

おばあちゃんはつかんだままのドアノブを、そのまま引いてしまいそうだった。これが閉じられたら手がかりは失われる。

「いつから空き部屋なのか教えてもらえませんか」僕は心から、懇願の表情を浮かべた。

「もうずっと人は住んでいませんよ。かれこれ──」おばあちゃんは首を傾げて少し考え込んだ。「20年以上は経つでしょう」

20年以上──やはり僕は、異なる時間のあの部屋に来ていたということだろうか。あのマンションがまだ真新しかったころの。

ということは、彼女がいる世界へ僕が迷い込んだのだろうか。いや──僕たちはあの部屋だけで過ごしたわけではない。

もしも彼女がそうとは知らずに、時空を超えて足を踏み入れていたとしたら……。

いや、それもない。買い物をしても、食事をしても、彼女が戸惑うことはなかった。20年以上の歳月の隔たりがあれば、それに気がつかないはずがない。

彼女は僕の過ごす時間の中で、笑ったりはしゃいだり、時々むくれたりしたのだ。

短い間だったけれど、僕たちは間違いなく、この町とお互いの心に足跡を残してきたはずだ。

それとも彼女は、自分の意志でここに来たのだろうか──

未来に。


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