つれないつり堀つり天国 (栃木県)
「つれないつり堀」の秋元さん
「つれないつり堀つり天国」経営者 秋元正次
「つれない釣り掘 釣り天国」。実に大胆というか、ユニークというべきか、見る側に強烈な印象を与えるネーミングの釣り場が、栃木県にある。
「釣れないだなんて、そんなハッキリ言われちゃ行かないよ」。
まずこの釣り場の名前を聞いた時の、私の素直な感想。管理釣り場なのだから、釣れて当然。釣れないとなれば、わざわざそこへ行く意味がない。そのはずだったのに、「絶対に行かない」から、「行ってみてもいいかな」と気持ちが変わるまでには、そう時間がかからなかった。一度聞いたら忘れられない、強烈な印象のネーミングが頭から離れなかったからだ。次第に「何故が気になる…」、ヘソ曲がりな私の中で徐々に、変わった名前の釣り場はそういう存在になっていたのである。
「釣れない」だなんて、釣り場にとっては不利益ともいうべき名前を、あえて自分の釣り場の名前にしちゃうんだもの。さぞかし、天邪鬼で偏屈な管理人さんなのだろう。という私の予想は、到着直後に180度覆されることになる。釣り場に着くなり、愛想よく出迎えて下さった、物腰の穏やかな人がおられた。この釣り場の管理人、秋元正次さんがその人だ。性格のおおらかさが全身から滲んでいる秋元さんに、何だか出鼻をくじかれたような思いがする。
私が面食らったこのギャップは、釣り場全体にも及んで、決してキレイとはいえない場内であるのに、それでいてなんだか温かな空気と雰囲気とが取り巻いている環境も何だか不思議。まるで我が家に帰ってきたみたいな心もちというのだろうか、ほっと気分が和む釣り場なのだ。これは一体なんなのだろう?
最初に感じた私の疑問は、管理人さんからお話を伺っているうちに、秋元さんの心が温まるほどの経営理念で氷解することになる。
こちらのホームページには、秋元さんのちょっとしたプロフィールが掲載されている。その中で、まず気になるのが経歴。それは、元国鉄の職員だったということ。そんなエリートの方が、なぜ、鉄道の世界とは全く無縁の「管理釣り場」という世界に飛び込んだのだろう。
20~30代にかけて、国鉄の職員としてバリバリ働いていた当時のお住まいは八王子。ヤマメの餌釣りが好きだった秋元さんは、同じ職場の先輩に釣りを教えてもらっていたという。でもその先輩が転勤して、唯一の釣り仲間とは離ればなれに。
東京の川を知らなかった秋元さんは、釣りがしたい、巧くなりたい、という気持ちがあっても、どの川に行ったら良いのか分からない。そこで一大決心をしたのが、山も川も草木をも知り尽くしている、自分の故郷へ帰ることだった。
「田舎の黒磯に帰ってきて、友人からオートバイやら軽トラを借りて、那珂川本流に一人で出掛けたんですね。そしたら、3月か4月頃だったかな。ヤマメの稚魚を見つけたんです。パーマークの付いた、小っちゃいのね。あれには感動しましたよ。
彼等を見ていてふと思ったのは、台風のときどうするんだろうな、とか、大雨のときはどうなっちゃうのかな、と。そしたらもう釣りにならない。そそくさと竿をたたんで、ジックリと魚たちを観察したんです。すると彼等は、川のたるみの端っこで、ちゃんと浮いてる餌を食べてるのね。いやぁ、ツン、ツンって餌を食べてる姿が、もう可愛くてね」。
目を細めて語る秋元さん。その後、間もなくして、仕事は忙しくなり、釣りにも行けなくなってしまう。その頃、国鉄が民営化されるという動きが出始めた。当時、中曽根内閣が実施した政治改革の大きな目玉である。民営化に伴い、大幅な人員削減をすることになったわけだが、その時に、国鉄は割増退職金を支給する希望退職者を募った。そんな中、秋元さんは思ったそうだ。
「田舎に帰り、ヤマメの稚魚を隔離してあげて、生活の分だけは売る。で、残りは川に放流してね、釣り人が来るのを見ていたいなぁ、っていう思いが膨らんじゃって。はぁ、もう後戻りできなくなっちゃったんですよね」。
若いころに川で見たヤマメの稚魚の姿と、その時に思った気持ちが強烈に甦ってきたのだ。そして、希望退職者の一人として、手を挙げた。40歳の時である。
不思議と、怖いものは何も感じなかった。でも、家族の大黒柱として、奥さんや子供たちに苦労させることだけはできない。家族のためなら、人の嫌がることでも何でもやる。ただただ、養魚場をやりたいという一心で、一生懸命に働いた。そんな秋元さんのお話から、安定した生活と収入を捨ててまでの男の決心、そして、魚に対するとてつもなく大きな愛情を感じ、胸を衝かれる思いがひしめいた。
養殖の技術を学ぶため、養魚場に勤務したものの、間もなくして体を壊した。後ろ髪をひかれながらも、退職してからは生活のために、兄が経営する土建会社で働くことになる。 この、土建業のノウハウは後に、釣り場作りに絶大な威力を発揮して…。
そう、この釣り場は全てが秋元さんの手作りだという。受付からゲストハウス、もちろんポンドも。なるほど、釣り場に漂っている、心が落ち着くようなこの温かな雰囲気は、秋元さんの思いが込められたご自身のぬくもりだったのだ。
ところで、当初は養魚場を経営したいと思っていた秋元さんだが、それが何故、管理釣り場になったのか。
兄の土建会社で約2年ほど働いた後、「焼き魚あきもと」という食堂を始める。
時は経ち、平成10年。懇意にしていた地主さんの土地だった田んぼが、大雨で全壊してしまったとこを知った秋元さん。そこで一計を案じる。水があって、土地がある。これなら夢であった養魚場ができるのではないか、と。地主さんに頼み、遂に土地を借りられるとこになった。夢に大きく近づいた瞬間だ。
けれど、養魚にはとてつもない量の水が要る。残念ながら、秋元さんの借りた土地には、養魚場を開くのに必要となる十分な量の水が入ってこなかった。懇意にしていた養魚場の社長に相談してみたが、やはりダメ。ただ、養魚には足らないまでも、釣り場経営なら問題のない水量は確保できる。そこで、周囲のアドバイスを受けてたどり着いた結論が、釣り場を作ることであった。
平成12年。食堂は息子さんに任せて、工事に着手する。必要な重機は、土建業を営む兄が借してくれた。「失敗があって今がある」と語る秋元さんだが、完成までには甚大なご苦労があったようだ。下のポンドを作るには、6ヶ月もの時間を要したという。やっとポンドが完成したら、今度は水が溜まらない。釣り場にとって、一番の苦痛が水漏れ。ポンドの中を、何時間も重機を操作し、あらゆる手を尽くした甲斐あって、水漏れもクリア。試行錯誤の末、ポンド、事務所、そして、トイレが完成した段階で、めでたくオープンに漕ぎつけることができた。平成13年1月1日のことである。
今や、管理釣り場にはレギュレーションが設定されているところがほとんど。こちらの釣り場でも、6月から新しくルールを作ることになったという。それには、秋元さんのこんなメッセージが込められているのである。
あれじゃない、これじゃないと、お客さんに押し付けるのではなく、自由に釣って、楽しんでもらえればそれで良かった。しかし、時間の経過とともに、これでもかとばかりに乱獲してゆく人や、魚の傷み具合いなど、状況は思いのほかにどんどん変わって、悶々としたものが出てきたという。
オープン当時よりも来客数は減り、放流量が少なくなった。更に、魚のサイズが大きくなったことで、尾数が減ったことにより、乱獲するお客さんが来なくなったのだ。そこで、「やるなら今だ!」と、魚を大切にする気持ちを持ってもらいたいという願いを込めて、尾数制限に踏み切ったのである。
「僕流にいえば、魚を大切に思うっていうか、僕等の食材なんだけど、その前にちょっと遊ばせてね、っていう思いかな。そういうものがね、お仕着せじゃないルールとして、少しずつお客さんの心に浸透してくれるといいなって思うのね。『釣りの教え』っていうんですかね、そういうことを釣り堀側が伝えていかなきゃなんねぇのかなと思うのね。魚を大切にする気持ちを伝えながら、感動してもらいたいな、っていうのがありますよね。あとは、マナーの方で、シングル、バーブレスにしてくれると、オジさんは有難いんだぁっていうのを、一つずつね、ゆっくり伝えてききたいなぁ、って思って。うん、自分自身の宿題だね」。
秋元さんのこんなお話に、忘れかけていた『釣り』というものの本来の意味を、改めて実感させられたような気がした。
更に、秋元さんは続ける。だた単に尾数制限するだけじゃ、釣り場側だけが有利。それではお客さんに申し訳ないと、キャッチアンドリリースで遊ぶ方に対しては、料金を減額する。リリース券で5回来てくれた方には、1日券をプレゼントと、何とも太っ腹! という以前に、お客様を一番に思う気持ちに脱帽だよね。
国鉄を退き、管理釣り場という世界に飛び込んで約6年。今や、コンディションの良い、大型の魚が釣れるとして人気の釣り場となった「つれない釣り堀 釣り天国」。それには、何よりも、汚れのない純白の心を持った秋元さんのお人柄と、努力があってこそなのだろう。つくづくそのように感じる私であったが、秋元さんはどこまでも謙虚だった。「決して僕の力じゃない。お客さんから、日々学んでいる」と。お客さんから教えてもらったことを、良いことも悪いことも「ありがとう!」と、素直に聞き入れ、それを自分のできる範囲でやっているだけなのだとおっしゃる。秋元さんの謙虚さはしかし、これだけでは終わらない。
「帰り際に『ありがとうございました』とか、『さようなら』って声を掛けてくれたり、手を挙げてくれる方が多いんです。それは、決して僕の力じゃなくて、その方が声を出したり、手を挙げてくれるような気持ちで帰られるっていうことが、このエリアがその人には合ってくれたのかな、満足の『ま』くらいでもしていただけたのかな、って思うと、やっと帽子が取れますよね。ありがとうございました!って。最敬礼になりますよ」。
秋元さんが優しく微笑んだ。
最後に、これからどんな釣り場を目指し、どんな夢をお持ちなのかをお聞きした。
「ゆっくり遊んでもらえる釣り場にしたいね。一人2kg見当放流はやめないし、マナーの話もずっと伝え続けていきたいなぁ。あとは、外から見たときに、周りもちゃんとキレイにしてあるし、のんびりゆったりしているところだな、何となく良い魚が入ってんな、っていうね。夢は、小っちゃくてもいいから、養殖場をやりたいな、っていうのはあるね!61歳、未だに!まだまだ!ハハハッ!」。
いつか、秋元さんが手塩に掛けて育てた魚を、どこかの釣り場で私たちが釣ることができる日が、やって来るかもしれない。その日が訪れる時を、楽しみにしていよう。
※上記の文章は、2007年5月に発売された「Fishing Area News vol.25」
に掲載されたものに、加筆したものです。
写真=加藤康一・Freewheel Inc.
次回は、埼玉県にある老舗エリア『朝霞ガーデン』の木村俊彦社長のインタビュー記事を掲載する予定です。
どうぞお楽しみに。