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朝霞ガーデン (埼玉県)

歴史と未来を見つめる老舗の社長。

埼玉県・朝霞ガーデン代表取締り役 木村俊彦



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新しいエリアが次から次へと誕生している昨今、遊びの場が広がり、私たち釣り人には嬉しい限りである。さてそこで、皆さんは管理釣り場の起源をご存知だろうか?

国内の管理釣り場というのは、戦後、アメリカ進駐軍のレクレーションの場として始まったのが起源といわれている。当時のアメリカ軍人たちは、ルアーでのニジマス釣りを通して、家族や仲間とのコミュニケーションを図っていたという。

 今回は長い歴史を持つ、老舗のエリアとして人気の高い、埼玉県は「朝霞ガーデン」の木村俊彦社長にお話を伺った。釣り場としては、約60年もの歴史を持つ釣り場だ。まずは、「朝霞ガーデン」がいかにして誕生したのかをお話しよう。
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今から、約50年ほど前のこと。折しも朝鮮戦争が起こり、立川や朝霞に米軍がやってくることになる。当然、駐屯のアメリカ兵士たちは過酷な軍事に明け暮れることになるのだが、疲れた彼らの気持ちを癒すための保養として用意されたものが釣り場であった。

そこで、鱒を好む彼らの趣向に応えて、ニジマスを放してのトラウトフィッシングをメインとしたのが、現「朝霞ガーデン」の起源である。

1ドルが360円の時代。我が国の経済復興に必要な外貨を得るのにも、ニジマスはアメリカへの重要な輸出品となってゆく。外貨獲得が最優先のニジマスは、日本人が口にするよりはまず駐屯兵の趣味に、そして輸出に向けられた歴史を経て現在に至っている。「国際」という名が付く釣り場のほとんどは、このような経歴を有する釣り場で、その名残りとも言われている。
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 「当時、ニジマスってのは輸出品だったから、普通の市場には出ないわけ。でも、うちと養沢と大丹波くらいは大丈夫だったんだ。その時に、ニジマスを池に入れて、外国人相手に釣り場をやったのよ。すると、日本人ってのは舶来好きだから、外国人のいるところへ集まってくる。ところが、日本人ってのは、餌釣りが上手なの。当時はルアーなんて日本に売ってないんだから。ルアーの道具もない時代だし、日本人にルアーをやらせても巧くいかなかった。そのうちに、餌釣り人口の方が多くなって、外国人も減ってきたところで、ニジマスの餌釣りを始めたの。それで、ガァーっと盛り上がっちゃたんだ」。

 やがて、ノルウェーからアメリカへと、急速な勢いでニジマスが入るようになると、日本の輸出量が落ち始めた。困った日本の生産者は、ニジマスを市場に放出し、市場から魚屋やスーパーへと回り始めたという。私たち日本人にとってはとても身近な魚で、釣りの対象魚としても、ニジマスはポピュラーな存在だ。が、木村社長のお話を伺うにつれて、ニジマスにも国際情勢に左右されてきた歴史があったのだと思うと、感慨もひとしおのものがあって、考えさせられる。
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 「それでね、ニジマスの餌釣りがだんだんと根付いて、20年ほど続いたのかなぁ。20年といえば、その当時に20歳だった人は、40歳になるわけでしょ。人間ってのは面白いもので、歳をとればそれなりに次の遊びを狙うわけよ。以前アメリカ兵たちがやっていた釣りのマネがそれで、ルアーとフライだった。何人か、ルアー・フライをやった人間がいるわけよ。それが、今じゃ先生になってたり、本書いてるのもいるかもしれないし。
 埼玉で、最初にニジマスを入れて釣り場をやったのはうち。時代の流れを見て、うち自身も餌釣りはもうそろそろいいんじゃないかな、ってのでルアー・フライをやったわけ。それから、うちが養老渓谷だのあちこちの魚を運んだんだ。そういうのが現状よ」。
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そう語る木村社長は、昭和17年生まれの65歳。「朝霞ガーデン」の3代目だ。幼い頃から、鯉釣り、ヘラ釣り、そして、ニジマス釣りとあらゆる釣りを経験してきた。学生時代に運転免許を取得。その当時、室内釣り掘りが流行しており、経営者の方からの勧めで、仲間3人と池袋に会社を設立し、鯉の販売を始めた。この商売が、想像を絶するほどの利益を生むことに。

「免許を取りたてで、運転するのが楽しくてね。鯉の販売で、都内をグルッと回ると、50万円くらいになったよ」。

当時、大卒者の初任給は2万4千円だったという。いかに儲かったかは、一目瞭然であろう。しかし、そんな良い時代も長くは続かなかった。時の推移と趣味の変遷とともに、室内釣り掘りも低迷し始める。

 見切りを付け、スパッと商売を辞め、元々釣り場経営をしていた実家の「朝霞ガーデン」で、アルバイトとして働くことになったのだ。
 
時は経ち、先代の社長さんが体を悪くしたことにより、後を継いで社長となった。木村社長、45歳の時である。
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 それまでは、餌釣りのみで経営していた「朝霞ガーデン」。しかし、木村社長は考えた。「ずっと同じことをやっていてもダメだ」、「新しいことを取り入れていかなきゃいけない」と。そこで目を付けたのが、ルアー・フライである。

しかし、当時の日本には、今のようにエリア用の道具は皆無に等しかった。更に、ルアー・フライフィッシングは、「広大なポンドを持つ、ロケーションの良い釣り場でやるもの」という固定観念があったのだとか。

「だいたいスプーンだって、3グラム前後のものしかなくて、糸も太い。豪快に、やみくもにぶっ飛ばすのがルアー釣りの醍醐味だ。ところが、自分自身でやってみるとこれが、加賀や鹿留に行ったって、池のこっちから向こうまで飛ばないんだよ。せいぜい飛んでも限度がある。それで、『あれ?待てよ?』と。うちの池でもできるんじゃねぇか、っていうんでやってみた。お客さんのいなくなった時間にね。そしたらうちの池でも、ちょっとした工夫を凝らしさえすれば、充分に楽しめるし面白い。それで始めたわけよ」。

 狭い池でやるものではないとされていた、ルアー・フライフィッシング。これまでの常識を覆した瞬間だ。それから、注目を浴びるまでには、そう時間はかからなかった。人気とともに、池を広げるための工事を行う。すると、各メディアにも取り上げられるようになり、「ルアー・フライは儲かる」「狭いところでもできる」と、全国的に広がっていったのだ。現在では、ルアー・フライフィッシングのできる釣り場は、全国で150を超えると言われている。その火付け役となったのが、まさに、木村社長といっても過言ではないのではなかろうか。
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木村社長の新しいものへの挑戦は、決してこれだけでは終わらなかった。木村社長なくしては、現在では常識となっているエリアの楽しみ方や釣り方は、存在しなかったかもしれない…。とは、一体どういうことなのか。以下に綴っていくとしよう。

 今では、たくさんのエリアが当たり前のようにナイター営業をしている。このナイター営業を最初に始めたのが、まさに木村社長その人なのだ。夏の暑い季節。強烈な陽光が燦々と降り注ぐ中で長時間の釣りは、お客さんに体力的な負担を強いる。そのダメージを軽減させようと考えたのが、野球のナイターをヒントした釣りのナイターだった。夏の暑さ対策のほかに、会社や学校帰りでも、気軽に釣りを楽しめるようになったのは言うまでもない。もちろん、経営者側の利益にもつながるが、仕事や学校などで休日しか釣りをするとこができなかった釣り人たちにとっても喜ばしい、一石二鳥の発案だ。

 続いて、タックル。釣り具屋さんに出向くと、どれを買おうかと迷ってしまうほどで、スプーンの膨大な商品数には驚かされる。ラインナップは実に様々で、種類も豊富だ。しかし、このようになったのも、最近のこと。木村社長が「朝霞ガーデン」を継いだ20年ほど前までは、軽くても3グラム前後のスプーンしか日本では売っていなかった。もちろん、トラウトロッドなんてものは皆無。

「重たいスプーンを投げたって、うちの池じゃ狭いから、対岸まで届いちゃうわけだよ。それでマイクロスプーンを考えたんだ」。

 ちょっとした工夫というのが、まさにこのことであった。
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 更に工夫を進めた木村社長には、こんな経緯がある。当時、人気はうなぎ昇りでお客さんの数は増えていった。しかし、いくらお客さんが来るといっても、加賀や東山湖、そして鹿留にはかなわなかったという。
 どうしたら、越えられるのか。木村社長は考えた。加賀には里見さん、そして、東山湖には鈴木さんという、インストラクター的存在の方がいるが、うちにはいない。

そこで社長にある閃きが走る。当時、お客さんとして通っていた鯉沼さんに、インストラクターをお願いしてみようと。肥沼さんは快諾。と同時に、マイクロスプーンの話を持ちかけ、ガーデンロッドを生み出すまでに至ったのだ。このマイクロスプーンと、マイクロスプーンに対応した柔らかいガーデンロッドの出現が、現在のトラウトフィッシングに革命を起こしたのではないだろうか。
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「うちみたいなやり方と釣り場で、みんなが練習するようになったから、なかり面白くなってきたんじゃない」。

そう自負するように、今で言うトラウトロッドも軽量スプーンも、そして、軽量スプーンを使った数々のメゾットも、木村社長と鯉沼さんなくしては誕生していなかっただろう。これまでの木村社長のご苦労話から、感銘にちかいものを覚えるのは、きっと私だけではないはずだ。

「朝霞ガーデン」が誕生してから、今日に至るまで約60年。ずっと人気を保ち続けているのには、木村社長の豊かな発想と、新しいものへ次々と挑戦してゆく底知れぬチャレンジ精神があるから。常に先を見据え、時代の流れを読み、新しいものを見出し開拓し続ける木村社長の、釣り場に対する熱い情熱には胸を衝かれる。だからこそ、人気が確立されたのだろうな。正直な感想を口にした私に、社長は続けた。
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「いや、まだまだだよ。確立なんてありゃしない。いかにお客さんを引っ張ってこられるか、ってことは常に、24時間考えてるよ。だから嫌な商売だよな。わずかな従業員でも、ちゃんと食わせていかなきゃいけないし。うちなんかの後ろには、生産者があって、その生産者も生活してるわけよ。彼らの生活も支えてやらなきゃいけない。

例え、儲かっていても、人間ってのは次を狙うじゃない。今年よりは来年、来年より再来年って。どういう魚を入れようかとか、放流量をどれくらいにしようかなんてさ。いかにお客さんが喜んでくれて、どうしたらお客さんを引っ張ってこられるか。寝てても飯食ってても、無意識のうちに考えてるんだろうよ。

それに、生き物相手だから、休むわけにもいかないしね。嫌な商売だよ。自分が遊びに行っちゃうと、他の連中に迷惑がかかるし、女房や子供が大変になっちゃうじゃない。やっぱり、女房や子供が一番大事だからさ」。
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こんなことを、サラッと言ってのけられる木村社長の懐の大きさ、家族はもちろん、つながりのある全ての生き物に対する底知れぬ愛情には、目をみはるものがある。大切な家族、そして、大事な会社の礎としての磐石な責任感に加え、想像を絶するほどの企業努力。その迫力に圧倒され、自然と鳥肌がたった。

冗談っぽく破顔して、「嫌な仕事」なんておっしゃっていたけれど、その表情は凄く柔らかくて温かかった。そんな木村社長の笑顔からは、この仕事をすこぶる愛しちゃってる様子がひしひしと伝わってくる。

さて。日本における『エリアフィッシング』の誕生から、今に至るまでを間近で見てきたであろう木村社長だからこそ、私には是非ともお聞きしたいことがあった。それは、『釣り』というジャンルの中でも『エリアフィッシング』というのは確立されたものになったが、絶頂期に比べたら、エリアフィッシングどころか、釣り自体の人気が落ち始めてきているような気がする。いまいち、盛り上がりに欠けているような気がするのである。このような状況は、いち釣りファンとしてとても悲しいこと。そのあたりを、木村社長はどうお考えなのだろうか? 疑問をぶつけてみた。

「釣りの人気は、落ちてるよ。それは、新しい釣り場ができすぎちゃったの」。

予想外の答えに、私は戸惑いを感じた。新しいエリアが誕生していることは、私たち釣りファンにとっては、嬉しい限りのはずなのに。何故?
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「真剣さと心が足らないんだよ。ただ穴を掘って、水と魚を入れりゃいいんだと、そういう釣り場があまりにも多すぎる。最初は、雑誌で宣伝して、魚もたくさん入れて、お客さんが入る。しかし、池を掘るっちゅうことは、見た目よりか莫大なお金がかかるわけ。そうすると、あれやこれやと、色んな代金を払わなきゃいけないっていうんで、そっちの方に金を持っていかれちゃうわけ。だから、次に魚を入れようとした時に、魚代がない。そのために、釣れなくなって、お客さんが離れてゆく。そういう釣り場が多すぎる。

そうじゃなくて、キチンとみんなが気持ちよく釣りができるように、一生懸命釣らせてやれば、釣り人は減らない。つまりが、真面目なところは残って、ただ金だけ取ればいいちゅうようなところは、消えてもらった方がいよ。金を取ったら、その分をキチンとお客さんに還元しないとダメなんだよ、と。当たり前のことなんだけど、必死になってできないところは、無くなるしかない。その方がお客さんのためになるし、釣り人も減らないと思うよ。芦ノ湖や河口湖もそうだけど、他の釣り場も、もっと釣れるように改善や対策をしていかないといけないなと思うよね。そういうところじゃないの」。

なるほど。気持ち良いくらいに、スパッと切った木村社長。これほどまでに、ハッキリと意見を言ってくれる潔さがあるのは、ご自身がやっている仕事に大きな自信と誇りがあり、それくらい必死で、一生懸命なのだ。

 最後に、モットーとしていること、そして、これからどんな釣り場を目指してゆこうとお考えなのかを木村社長にお聞きした。
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「欲を出さずに、現状を維持できればいいなって思うよ。自分が釣り場を始めた頃から、もう何十年と経ってる。その頃と同じ考えでやっていたって成功しないんだから、様子を見定めながら、時代の流れに合わせてやっていこうと思ってるよ。

 捨てる神あれば、拾う神がいる。ここに来たお客さんが、全員が全員、良い釣り場だって言ってくれることなんてありゃしないんだよ。そんなの、当たり前だよな。逆に減る人間の方が多いんだよ、ということを常に頭に入れてさ。どういうふうにして新しいお客さんを確保しようかな、っていつも考えている。そんな試行錯誤の中でも、この釣り場は良いって言ってくれるお客さんがいるしな。だから、捨てる人間もいれば、拾ってくれる人間もいるんだよ。いつも拾ってくれればいいんだけどな。ハハハッ。来てくれるお客さんに感謝して、これからも真剣に心ある仕事をやっていくだけだよ」。
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※上記の文章は、2007年9月に発売された「Fishing Area News vol.27」

 に掲載されたものに、加筆したものです。

 写真=亀田正人・Freewheel Inc.