模擬試験前日。
父の手作りの本棚が傾いて来てるように見える。これが崩壊すればパソコンと僕の手は潰れてしまうから看過できない事態である。残念なことにここに収まりきらない本がまだダンボール六箱分残っている。実は一年前からこのままだ。いつまでこのままなのだろうか。
明日は自動車学校の卒検前に受けなければならない学科の模擬試験がある。卒業検定は問題数が九十五問もあるので練習問題を通してやるだけで体力と時間をずいぶん使ってしまう。ついでにやる気も大きく削がれる。このまま何もせずに行けば恐らく合格点にあと一歩というところで落ちるのではないだろうか。
あーあ。
明日は自動車学校の卒検前に受けなければならない学科の模擬試験がある。卒業検定は問題数が九十五問もあるので練習問題を通してやるだけで体力と時間をずいぶん使ってしまう。ついでにやる気も大きく削がれる。このまま何もせずに行けば恐らく合格点にあと一歩というところで落ちるのではないだろうか。
あーあ。
僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです。
いつものように目が覚めて起き上がる前に携帯電話でツイッターを見た。するとなにやらツイッターが騒がしい。地震についてしきりに皆がツイートをしている。ニュースもそれでもちきりのようであった。大きな地震があったことよりも皆が午前五時に目が覚めたことに驚いたのだが、スマートフォンだと緊急地震速報が鳴るらしい。これは大きな誤算であった。早くスマホにしなければ。
起き抜けでしばらくぼうっと過ごしたが退屈で仕方が無かったので河原町まで出かけることにした。途中の電車の中で読みかけだった夏目漱石の『それから』を二二〇頁から読み始めた。途中で同い年ほどの女の子が隣に座り僕と同じように本を開いた。やはり電車の中の暇つぶしは読書に限るなと思ったあたりで本に集中し、気づいた頃にはその女の子はいなくなっていた。
二条駅を過ぎた頃には集中が溶けてしまったので窓の外を眺めて京都駅まで過ごした。
まだ少し肌寒い日もあれば暑い日もあるので薄手のカーディガンを探しに京都駅のイオンモールに入っている無印良品を覗いてみたが少し手持ちが足らず諦めた。やはりチャオパニックなどより無印良品のデザインのほうが惹かれる物が多い。無印良品なのに最近はブランド化されて値段が高くなって来たと言われているがあまりそういう実感は湧かない。
京都タワー前の喫煙所で煙草を吸っていると一緒に居合わせた女性がいた。この女性の煙草の灰の落とし方があまりに乱暴だった。指を叩きつけるようにして灰を落とす。まるで美しさを感じない動作だった。
友達にも煙草を吸うのが下手なやつがいた。慣れていないのか本来なら指だけでとんと灰皿の縁に当てれば灰は落ちるのに、まるでドラムを叩くかのようにして手を動かして煙草を叩きつける。余計な力が入るため灰皿の周りに細かい灰が散乱する。そういう人物を見ていると他人に憧れることはないのだろうかと不思議に思う。
他にもこんなやつがいた。僕とよく一緒にビリヤードに行く友達が一向に経験者らしいフォームにならない。全国大会優勝レベルの上級者にフォーム“は”良いといわれた僕が隣にいるのに、回りにフォームの良い人たちがいるのにそれの真似をしようとは思わないのだろうか。他人に憧れることは自らのステップアップに繋がると僕は考える。
そうそう、煙草の話だった。僕はアラン・ドロンの『サムライ』と言うフランス映画を見て煙草を吸い始めた。と、言えば格好つくのだろうが正直なところアニメを見てすい始めた。それも萌え系である。タイトルは伏せる。入りはどうであれ、煙草を吸うシーンなどはいくらでもある。そのどれかに憧れればそれの真似をしようとする。いくつもの真似をして僕ができあがる。煙草の話がめんどくさくなってきたからそろそろ四条へ向かって歩き出そうと思う。
寒いと思いいつものパーカーを着て歩いていると少し汗ばむほどに暑かった。服のチョイスに後悔したが日陰に入ると少し肌寒い。おそらくパーカーを脱げば寒いくらいだろうから我慢することにした。次第に喉が渇いてくる。歩いている途中に炭酸ジュースのMet'sの置いてある自販機に出くわすがどうせ二三口飲めば満足していらなくなるのでぐっと堪える。結局三条まで歩いて喫茶店に入った。
喫茶店に着いたのは十八時十二分だった。京都駅を出たのが十七時三〇分だったから約四十五分もかかっていた。テーブルの上にメニューを並べてくれる店員さんに「ホットコーヒー」と告げるとたった今並べたばかりのメニューを持って奥へ戻った。その間に上着を脱いでほっとする。コーヒーを飲む前に冷たい水を飲みたかったのだが水が出てくることなくコーヒーが出てきた。電車の中の続きで『それから』を二六〇頁まで読んだところで十八時半だった。
ブックオフに向かう途中でゴロワーズを二つ買った。ブックオフでは高浜虚子や三好達治、野上弥生子などの全集が一〇五円でワゴンセールにかけられていた。思わず惹かれそうになったがこれらを持って帰るのはなかなかに骨が折れる。それにいつも本は電車の中でしか読まない僕が買ったところで歩いて読むには全集は不都合であるから泣くなく諦めた。
家に帰るころには『それから』は読み終わってしまった。
現在トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』が上映中である。二度ほど挑戦したがあまりの長さに一度も読破することなく本棚に納められていたが、とりあえず手元に次に読むべき漱石の『門』がないので繋ぎとして読むことにした。繋ぎとして読む本は読みきることなく次の本に引き継がれるというジンクスが僕の中であるが何とかスピード勝負で生きたいと思う。
そうそう、この記事に誤字だと思われる箇所がいくつかあると思うそれは漱石の真似をした遊びであるからその意味も受け取って楽しんでもらえると幸いである。これからもそういった「誤字」を入れながら楽しもうと思う。
起き抜けでしばらくぼうっと過ごしたが退屈で仕方が無かったので河原町まで出かけることにした。途中の電車の中で読みかけだった夏目漱石の『それから』を二二〇頁から読み始めた。途中で同い年ほどの女の子が隣に座り僕と同じように本を開いた。やはり電車の中の暇つぶしは読書に限るなと思ったあたりで本に集中し、気づいた頃にはその女の子はいなくなっていた。
二条駅を過ぎた頃には集中が溶けてしまったので窓の外を眺めて京都駅まで過ごした。
まだ少し肌寒い日もあれば暑い日もあるので薄手のカーディガンを探しに京都駅のイオンモールに入っている無印良品を覗いてみたが少し手持ちが足らず諦めた。やはりチャオパニックなどより無印良品のデザインのほうが惹かれる物が多い。無印良品なのに最近はブランド化されて値段が高くなって来たと言われているがあまりそういう実感は湧かない。
京都タワー前の喫煙所で煙草を吸っていると一緒に居合わせた女性がいた。この女性の煙草の灰の落とし方があまりに乱暴だった。指を叩きつけるようにして灰を落とす。まるで美しさを感じない動作だった。
友達にも煙草を吸うのが下手なやつがいた。慣れていないのか本来なら指だけでとんと灰皿の縁に当てれば灰は落ちるのに、まるでドラムを叩くかのようにして手を動かして煙草を叩きつける。余計な力が入るため灰皿の周りに細かい灰が散乱する。そういう人物を見ていると他人に憧れることはないのだろうかと不思議に思う。
他にもこんなやつがいた。僕とよく一緒にビリヤードに行く友達が一向に経験者らしいフォームにならない。全国大会優勝レベルの上級者にフォーム“は”良いといわれた僕が隣にいるのに、回りにフォームの良い人たちがいるのにそれの真似をしようとは思わないのだろうか。他人に憧れることは自らのステップアップに繋がると僕は考える。
そうそう、煙草の話だった。僕はアラン・ドロンの『サムライ』と言うフランス映画を見て煙草を吸い始めた。と、言えば格好つくのだろうが正直なところアニメを見てすい始めた。それも萌え系である。タイトルは伏せる。入りはどうであれ、煙草を吸うシーンなどはいくらでもある。そのどれかに憧れればそれの真似をしようとする。いくつもの真似をして僕ができあがる。煙草の話がめんどくさくなってきたからそろそろ四条へ向かって歩き出そうと思う。
寒いと思いいつものパーカーを着て歩いていると少し汗ばむほどに暑かった。服のチョイスに後悔したが日陰に入ると少し肌寒い。おそらくパーカーを脱げば寒いくらいだろうから我慢することにした。次第に喉が渇いてくる。歩いている途中に炭酸ジュースのMet'sの置いてある自販機に出くわすがどうせ二三口飲めば満足していらなくなるのでぐっと堪える。結局三条まで歩いて喫茶店に入った。
喫茶店に着いたのは十八時十二分だった。京都駅を出たのが十七時三〇分だったから約四十五分もかかっていた。テーブルの上にメニューを並べてくれる店員さんに「ホットコーヒー」と告げるとたった今並べたばかりのメニューを持って奥へ戻った。その間に上着を脱いでほっとする。コーヒーを飲む前に冷たい水を飲みたかったのだが水が出てくることなくコーヒーが出てきた。電車の中の続きで『それから』を二六〇頁まで読んだところで十八時半だった。
ブックオフに向かう途中でゴロワーズを二つ買った。ブックオフでは高浜虚子や三好達治、野上弥生子などの全集が一〇五円でワゴンセールにかけられていた。思わず惹かれそうになったがこれらを持って帰るのはなかなかに骨が折れる。それにいつも本は電車の中でしか読まない僕が買ったところで歩いて読むには全集は不都合であるから泣くなく諦めた。
家に帰るころには『それから』は読み終わってしまった。
現在トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』が上映中である。二度ほど挑戦したがあまりの長さに一度も読破することなく本棚に納められていたが、とりあえず手元に次に読むべき漱石の『門』がないので繋ぎとして読むことにした。繋ぎとして読む本は読みきることなく次の本に引き継がれるというジンクスが僕の中であるが何とかスピード勝負で生きたいと思う。
そうそう、この記事に誤字だと思われる箇所がいくつかあると思うそれは漱石の真似をした遊びであるからその意味も受け取って楽しんでもらえると幸いである。これからもそういった「誤字」を入れながら楽しもうと思う。
覚え切れない円周率。
今日は学科教習が一時間の予定であったが、技能のキャンセルが出たらしく技能教習を二時間も受けられた。教習の後に出かけようと思っていたから少し迷ったがどうせ河原町あたりをふらつくだけのつもりだったから受けておいた。これで技能教習が残り四時間と学科教習が残り三時間だけとなった。来週には卒業検定が受けられるのではないだろうか。
今日の学科教習を受けている時のことだが、教官が体の不自由な人のことを指す「かたわ」をさらりと使ったことにどきりとした。ご存知のように「かたわ」や「びっこ」「めくら」といった言葉は差別用語として使うことが憚られている。その用語を堂々と、さらりと言ってしまう教官に違和感を感じてしまった。しかしここで言いたいのはその教官への非難の言葉ではなく、違和感を感じてしまった僕自身に対してである。
元々、差別用語を用いることに僕はそこまで神経質ではない。もちろんあえて積極的に差別用語を使うようなことはしない。どちらを使っていようとそれは使っている人物によってまったく異なった意味を持つからである。僕の身の回りに限ったことかもしれないが、そういった言葉に神経質になって人の多くが身体障害者の人たちを可哀相だと決め付けるような人だった。その人がその現実の上でもたくさんの幸福を感じているのに、そんな幸福はまったく見えない人だった。
「可哀相」などという言葉は初めから自分とその「可哀相」な人を切り離して考えてしまっているではないか。「可哀相」という言葉が出るには「自分はこの人よりも恵まれている」という意識がなければ出て来ないのである。困っている誰かのために何かをしてあげる時にこの感情は決して必要ではないのだ。
相変わらず結論のない馬鹿な文章になってしまった。いろんなイメージが頭に浮かぶのだがどう文章にすればうまくまとまるのかがわからない。少しは文章をまとめられるように努力しているつもりだがなかなかうまくはいかないものだ。
今日の学科教習を受けている時のことだが、教官が体の不自由な人のことを指す「かたわ」をさらりと使ったことにどきりとした。ご存知のように「かたわ」や「びっこ」「めくら」といった言葉は差別用語として使うことが憚られている。その用語を堂々と、さらりと言ってしまう教官に違和感を感じてしまった。しかしここで言いたいのはその教官への非難の言葉ではなく、違和感を感じてしまった僕自身に対してである。
元々、差別用語を用いることに僕はそこまで神経質ではない。もちろんあえて積極的に差別用語を使うようなことはしない。どちらを使っていようとそれは使っている人物によってまったく異なった意味を持つからである。僕の身の回りに限ったことかもしれないが、そういった言葉に神経質になって人の多くが身体障害者の人たちを可哀相だと決め付けるような人だった。その人がその現実の上でもたくさんの幸福を感じているのに、そんな幸福はまったく見えない人だった。
「可哀相」などという言葉は初めから自分とその「可哀相」な人を切り離して考えてしまっているではないか。「可哀相」という言葉が出るには「自分はこの人よりも恵まれている」という意識がなければ出て来ないのである。困っている誰かのために何かをしてあげる時にこの感情は決して必要ではないのだ。
相変わらず結論のない馬鹿な文章になってしまった。いろんなイメージが頭に浮かぶのだがどう文章にすればうまくまとまるのかがわからない。少しは文章をまとめられるように努力しているつもりだがなかなかうまくはいかないものだ。