涼風文庫堂の「文庫おでっせい」484 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<スタウト、

ミルン、

ベントリー>

 

1456「 毒 蛇 」

レックス・スタウト
長編   佐倉潤吾:訳  早川文庫
 
 
ウルフが、
見知らぬイタリア女の不意の来訪を受けたのは、
49の銘柄のビールを一本ずつ賞味しているときだった。
 
失踪した兄を探してほしいという彼女の依頼を、
ウルフは快諾した。
 
手がかりは、新聞の切り抜き記事ただひとつ。
 
しかし、その記事は、
事件を思いもよらぬ方向に導いていった。
 
金属細工師の失踪と大学総長の疑惑の死――
二つの謎を結ぶ糸はいったい何か?
 
ウルフの明晰な頭脳は活動を開始した。
 
発表当時、
大センセーションを巻き起こし、
現在も本格推理小説の古典的傑作と評される
レックス・スタウトの代表作!
 
                        <ウラスジ>
 
 
 
 
その実、1934年の本作は、
スタウトが著わした初めての推理小説であり、
ネロ・ウルフ(ワトソン役のアーチー・グッドウィンも)の
初登場作品でもあります。
 
原題は、”FER-DE-LANCE" 。
 
作中、「フェル・ド・ランス」として紹介される、
中南米に棲息する大型で猛毒のクサリヘビ。
 
その毒を使って――
 
バーストウはゴルフ・クラブのグリップから発射された
毒針で殺されたんです。
 
このことは比較的早い段階で明かされます。
 
で、犯人を罠に掛けるというか、
そのエンディングが古典的推理小説とは
一線を画しているようで、
大団円と言っていいのかどうか……。
 
も一つ。
 
ちゃんと検死解剖をやっときゃ
こんなことにはならないはず、
っていう意見も根強く残ってて――。
 
いやはや推理小説の古典とされるものには、
どこか瑕瑾が付きまとってきます。
 
 
 
 
 
 

1457「赤い館の秘密」

アラン・アレキサンダー・
ミルン
長編   大西尹明:訳  中島河太郎:解説
創元推理文庫
 
 
 
「熊のプーさん」
で有名な英国の劇作家ミルンが書いた
唯一の推理小説。
 
しかし、この一作によって、
ミルンの名が推理小説史上に残るほどの名作が
誕生することになった。
 
暑い夏の昼さがり、
赤い館を15年ぶりに訪れた
オーストラリア帰りの兄が殺され、
しかも、
その家の主人公は姿を消してしまった。
 
二人のしろうと探偵のかもし出す軽妙な風格と、
専門家はだしの巧妙なトリックは、
通人の珍重するキャビアの味と評されるゆえんである。
 
英国本格派の伝統をふまえた重厚な作品で、
作中にちりばめられたユーモアは無類である。
 
                        <ウラスジ>
 
 
<ウラスジ>にもあるように、
『クマのプーさん』
『プー横丁にたった家』
で有名な作者のA・A・ミルン。
 
そのミルンが著した唯一の長編推理小説が
この『赤い館の秘密』。
 
この作品は、およそ二つのことで、
ミステリー好きにはお馴染みになっています。
 
<その1>
『簡単な殺人法』 
 
かの名高いレイモンド・チャンドラーのエッセイ(評論)、
その中で、この『赤い館の秘密』が
ネガティヴなものの代表格として槍玉にあげられています。
 
小説はどんな形のものにせよ、
つねにリアリスティックであることをめざしてきた。
 
で始まるこの論文めいたものは、
コナン・ドイルでさえ酷評に引っ掛かりそうで、
 
ほんとうに私を辟易させるのは、
ハワード・ヘイクラフト氏が
(その著書『娯楽としての殺人』のなかで)、
探偵小説の黄金期とよんでいる時代の
紳士淑女の面々である。
 
このあとで
 
つぎに述べるのは
いかにも手厳しい言葉と響くかもしれないが、
驚いてはいけない。
 
と、ここから具体例として
『赤い館の秘密』を俎上に載せていきます。
 
あらすじ、ディテール、トリック、登場人物、
……まるで紹介文のごとき詳細さで、
作品を繙いていきます。
 
で、批判の雨あられ。
次の獲物とあわせて――
 
納得性に乏しい作品。
 
と結論づけています。
 
この後もクロフツ、セイヤーズ、クリスチィ、
と英国系作家の名が挙がりますが、
30ページたらずのエッセイで、
およそ6ページ(五分の一)も割かれて取り上げられた
『赤い館の秘密』。
 
その凄まじく印象に残ること。
 
 
『事件屋稼業 チャンドラー短編全集2』 創元推理文庫
をご一読あれ。
 
<その2>
わが国においては、やっぱりこれ。
 
金田一耕助。
 
よれよれの羽織袴にもじゃもじゃの雀の巣頭、
吃りで、風采の上がらない小男だが、
それがかえって名探偵らしくない
親しみと印象深さを与え成功している。
ミルンの『赤い家の秘密』の素人探偵
アンソニー・ギリンガムにヒントを得たという。
 
<大坪直行:「本陣殺人事件」角川文庫/解説より>
 
かなり早い段階で聞き及んでいたこの話。
 
はて、どこで知ったのやら?
と思っていたら ”灯台もと暗し” 、
『本陣殺人事件』そのものの中に
ちゃんと書いてありました。
 
 
……この青年は飄々乎たるその風貌から、
どこかアントニー・ギリンガム君に似ていはしまいかと思う。
 
アントニー・ギリンガム君――
だしぬけに片仮名の名前がとびだしたので、
諸君は面食らわれたろうが、
これは私のもっとも愛読するイギリスの作家、
A・A・ミルンと言う人の書いた探偵小説
「赤屋敷の殺人」に出て来る主人公、
即ち素人探偵である。
 
<『本陣殺人事件』角川文庫 79~80P>
 
失念。
 
 
最後に 
”捨てる神あれば拾う神あり” 。
 
 
ミルンは――
顕微鏡をのぞくような無味乾燥な科学捜査を排斥し、
読者も一緒に推理を楽しめるよう、
探偵はあくまで素人で、
しかも探偵が考えていることはその都度
読者にも知らせるべきだという、
彼がつね日ごろ考え且つまた本書で実践してみせた
推理小説観を述べている。
 
チャンドラーは、
その有名な評論「簡単な殺人芸術」において本篇をとりあげ、
主として警察の捜査上の欠陥を
七箇条にわたって列挙して悪罵しているが、
読者が小説の進行とともに
自らも推理を楽しむという観点から見れば、
その評言は全くの的はずれというわけではないにしても、
本書の価値を下落せしめるほどの説得力はもたない。
 
<谷口俊彦:『世界の推理小説・総解説』より>
 
そうだそうだ、と言っておきましょうか。
 
<超余談>
某国のトップが、
<クマのプーさん>という渾名にかなり怒っていて、
その表現を肯んじえないと伝わってきました。
 
これは恐らく、
ディズニー・アニメではなく、
原作に登場した表現、
 
「ばっかなクマのやつ!」
「プーは頭がわるいから」
「ぼくは、とっても頭のわるいクマなんだ」
 
再三再四出て来る、この手の言葉。
 
クリストファー・ロビンに言われたり、
自分で嘆いてみたり――。
 
とにかく、プーさんの 
”頭の悪さ” で成立しているような童話なんで、
”似ている” と言われて、
素直に喜べないところがありありです。
 
”プーは真性のバカですから”
(確かこんな表現もあったような……。)
 
 
”真性のバカ” なんて表現は、
他に京極夏彦さんの
『豆腐小僧 双六道中』
で見たぐらいです。
 
それはともかく、
その方、読書家なんですねえ……。
 
 
 
 

1458「トレント最後の事件」

エドマンド・クレリヒュー・
ベントリー
長編   大久保康雄:訳  中島河太郎:解説
創元推理文庫
 
 
 
アメリカ財界の大立者、
巨人マンダースンが別邸で頭を撃たれて即死した。
 
その結果、
ウォール街の投機市場は
旋風のような経済恐慌にみまわれ
大混乱をきたした。
 
重要な容疑者は美貌の未亡人であった。
 
敏腕な新聞記者ですぐれた画家トレントは
怪死事件の解決に出馬する……。
 
盟友G・K・チェスタトンの要請にこたえて
作者ベントリーが書きおろしたこの一作は、
果然、前世紀の推理小説から大きく前進して、
現代推理小説の黎明を告げる記念碑的な名作となった。
 
その独創的な大トリックの妙と、
従来タブーとされていた探偵と恋愛の有機的結合は、
実に心にくいほどの成功をおさめている。
 
                        <ウラスジ>
 
 
前回の『赤い館の秘密』で、
チャンドラーの ”次の獲物” 
と匂わせたのがこの作品。
 
 
『トレント最後の事件』においては、
ちょっと眉をしかめただけで
ウォール街をチワワ犬のようにおびえさせる、
国際金融界の巨頭が、
自分の秘書を絞首台にのぼらせるために
自分自身の死を企図し、
また秘書は秘書で、
たぶん由緒あるイートン学舎の気風をのこしているのであろう、
逮捕されてもなお貴族的な沈黙を保ちつづける、
というような前提を受け入れなくてはならない。
 
私自身、国際財界人に知己の多いほうではないが、
この小説の作者は(たとえ知己があるにせよ)、
私よりももっと少数なのではないかと思われるふしがある。
 
<チャンドラー:『簡単な殺人法』より>
 
なんとまあ、
悪意に満ち満ちた書き方だこと。
 
<余波>
今回、
久々にチャンドラーの『簡単な殺人法』を読み返してみて、
『赤い館の秘密』と『トレント最後の事件』の二作品――
 
この二作品に対するチャンドラーの追究の凄まじさに
なかば驚き、なかば呆れてしまいました。
 
とりわけ『赤い館の秘密』では、
”この作品は、ほれ、こういう欠陥品だから読む必要はないよ”
と言わんばかりに、
内容、筋立てやトリックについても言及しています。
 
下手な案内書よりも余程くわしい……。
 
……総じて英国の作家を、
その風土や歴史的な佇まいをあげつらって
シニカルに論じているので、
「英国(の推理小説作家)が気に入らない」
ってことはビンビンと伝わってきます。
 
とりわけ、ミルンに対しては
何か含むところがあるのでしょうか?
 
ファンタジー作家に敵意でもあるのか。
素人が一作だけ長編推理小説を書いて、
それが世界的評価を受けているのが気に入らないのか。
(これはベントリーと『トレント最後の事件』についても同じ)
 
<もとい>
ベントリーが『トレント最後の事件』を著したのは、
学生時代からの友人であるチェスタトンの関係性から、
という逸話はミステリー好きにはそこそこ知られた話。
 
実際、
この『トレント最後の事件』の最初には、
”ギルバート・キース・チェスタトンに捧ぐ”
という一文が寄せられています。
 
最初から、推理小説はこの一作だけ、
のつもりだったから、
最初なのに ”最後の” と銘打ったようですが、
そこはそれ、続編の要望も高く、
再び筆を執ったようです。
 
しかし、日本には影響ない、
つまり訳されることはないだろう、
と思っていたら、2000年のこと、
『トレント乗り出す』(短編集) 国書刊行会
が突如刊行。
 
 
いやあ、読んでみたいけど、
なんせ、あの<国書刊行会>だからなあ……。
 
高額だろうし、文庫には降りてきそうもないし、
”幻の作品” で終わりそう。
 
<余談>
なぜか知らねど、
世紀が変わってからかどうかの頃に、
ちくま文庫や創元推理文庫から、
フリーマン(ソーンダイクもの)
アリンガム(キャンピオンもの)
の作品が
次々に文庫化され、これは何の(歓迎すべき)予兆か、と
思ってしまいました。
 
ハヤカワ文庫あたりも ”古典回帰” って風潮に乗らないかな。