涼風文庫堂の「文庫おでっせい」366 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<武者小路実篤、

安部公房、

水上勉>

 

1106「愛慾・その妹」

武者小路実篤
中編   進藤純孝:解説  新潮文庫
収録作品
 
1.愛慾
2.その妹
 
 
「その妹」は大正四年作、
作者初期の代表的な脚本で、
盲目の兄を立派な小説家にしようと欲して
世間と戦う美しい妹の至純なその情熱、
 
また大正十五年作の「愛慾」の、
せむしの画家とその妻と、彼の兄との
三角関係にあって恐ろしいまでに高調した愛欲のその葛藤は、
ともに人間生活の截断面を見事に描き出したもので、
近代日本文学における
最もユニークな存在たる二大戯曲であろう。
 
 
三角関係での愛欲の葛藤や
(「愛慾」)、
盲目の兄のために世間と戦う妹の姿
(「その妹」)
を通して、人間生活の截断面を描く。
 
                  <新潮社:書誌情報>
 
 
 
白樺派の面々は、
それぞれが大なり小なり、戯曲に手を染めています。
 
『ドモ又の死』 有島武郎
(映画化もされてる)
 
『秋風』 志賀直哉
(戯曲と銘打っていなけりゃそれと分からない)
 
あと、里見弴や長与善郎にもあるようです。
 
代表格は何と言っても、倉田百三。
『出家とその弟子』。
でも、倉田百三をすんなり 
”白樺派” に入れていいんだろうか?
 
 
『その妹』の主人公、野村広次は、画家だったのだけれども、
戦争で盲目になり、今は作家として立とうとしている。
『愛慾』の主人公、野中英次も画家である。
両方とも、まだ芽の出ない、
へぼ作家、へぼ画かきといわれても仕方のないところだが、
作品をかくことを、何よりも大切な仕事としていることでは、
否みようもなく芸術家である。
 
もう一つ、両方の主人公に共通しているのは、
広次が盲目、英次がせむしと、
どちらも肉体的に満足でないということだ。
<中略>
広次は盲目であるが故に、
英次はせむしであるが故に、のびのびとしていない。
ひねくれており、つむじを曲げ、
広次の場合は妹に、英次の場合は妻に、迷惑をかける。
 
迷惑――そういえば、
兄の広次に身をしばられている静子の立場も、
夫の英次に束縛されている千代子の立場も、
に通っている。
そして、そういう立場に妹、
あるいは妻を追い込んでいることに苦しんでいることでも、
広次と英次は共通している。
 
それから、そのように気の毒な女性の傍に、
静子の場合は、西島、
千代子の場合は、義兄の信一という、
同情者が配され、その同情が恋を息づくということでも、
両作品の仕組みは非常によく似ている。
 
                 <進藤純孝:解説より>
 
身も蓋もない分析。
 
も一つおまけに言うと、
有島武郎の『ドモ又の死』も画家の卵が主役。
 
……白樺派には画家も含まれていたけど、
多くは大家にまで登りつめてるから――。
岸田劉生とか梅原龍三郎とか。
 
”売れない画家” という設定に、
悲壮感を感じなかった故に配役したのかも。
 
 
ハンデを背負った男とその傍にいる女性。

歪な男女の交換図を地で行くような、

ステレオタイプの役柄配置。

 

白樺派だから、

ヒューマニズム探求の枠からは外れないでしょうが、

危ういバランスの上に成り立っているお芝居です。

 

一挙に乱歩の『芋虫』風に――

なんてことを期待しちゃ、いけません。

 
 
 
 
 
 

1107「終りし道の標べに」

安部公房
長編   磯田光一:解説  新潮文庫
 
 
戦時中、
多感な青春のドラマの上に
徐々に迫りくる巨大な支配力――
徴兵という国家の強制を拒否し、
故郷日本を捨て、
遠く満州の地を一人、
自己の占有をめざして歩きつづける「私」。
 
何故に人間はかく在らねばならぬのか?
 
狭義の ”故郷” と実存としての ”故郷” の
二重性を意識しつつ、
人間の存在の条件を問いただした、
著者の作家としての出発をなす記念碑的な長編小説。
 
                        <ウラスジ>
 
 
第一のノート  終りし道の標べに
第二のノート  書かれざる言葉
第三のノート  知られざる神
十三枚の紙に書かれた追録
 
『終りし道の標べに』の基底にあるのは、
「第一のノート」の書き出しの部分にあるように、
「何故に人間はかく在らねばならぬのか?」
という、いわば ”人間の存在の条件” 
についての問いである。
 
そしてこの ”存在の条件” は、
この作品にあっては ”故郷” の問題と
分かちがたく結びついている。
 
 
……という感じで、
時代的に ”実存主義” を地で行く物語。
 
戦時中の中国を舞台にした作品はそこそこ読んでいますが、
印象に残っているのは、
 
『赤い雪』 榛葉英治
 
『夕陽と拳銃』 檀一雄
『時間』 堀田善衛
 
みなさん戦時中は大陸におられたようです。
 
で、戦後引揚派というと、
五木寛之さんの<デラシネ(根無し草)>に代表される、
世界観の喪失と不安からの出発、
すなわち実存主義とアイデンティティの確保――。
 
サルトルか、エリクソンか。
 
この二人を同列に並べるなんて、
<哲学オンチ>のなせる、楽しいマッチアップ。
 
<余談>
戦時中の中国を舞台にした話には、
当然のように<中国人>が出て来ます。
そして、主人公の日本人と会話します。
 
その会話の表記と言うと――
大半が日本語ですんなり、そのまま書かれています。
 
中国人の日本語が流暢なのか、
日本人の中国語が流暢なのか。
 
中国人の会話が、
SF小説に出て来る異星人の会話のように、
”カタカナ表記” される事はありません。
 
”ワレワレハ、中国人ダ”
 
また、『てにおは』や『濁点』を省いた中国人っぽい喋り――
 
”わたし、ちゅうこく(中国)は、
広島生まれ、北京(ペキン)です”
      
そんなゼンジー北京師匠の喋りのようなものが、
文章に現れる事もありません。
 
いわゆる、
”協和語” や ”ピジン言語” が使われていたとしても、
それを文字におこすのは難しいようです。
 
いったい、どんなコミュニケーションが採られていたのか?
 
ポコペン。
 
 
 
 
 

1108「雁の寺・越前竹人形」

直木賞受賞
水上勉
中編   磯田光一:解説  新潮文庫
収録作品
 
1.雁の寺  (直木賞受賞作品)
2.越前竹人形
 
 
”軍艦頭” と罵倒され、
乞食女の捨て子として惨めな日々を送ってきた少年僧 慈念の、
殺人にいたる鬱積した孤独な怨念の凝集を見詰める、
直木賞受賞作の『雁の寺』。
 
竹の精のように美しい妻 玉枝と、
彼女の上に亡き母の面影を見出し、
母親としての愛情を求める竹細工師 喜助との、
余りにもはかない愛の姿を
越前の竹林を背景に描く『越前竹人形』。
 
水上文学の代表的名作2編を収める。
 
                        <ウラスジ>
 
 
”赤貧洗うがごとし”
を地で行くような幼少期を過ごし、
殆んど口減らしのために寺に預けられ、
その厳しさにたえられず、その寺を逃げ出した――。
 
こんな略歴を目にしたのは何でだったか。
 
とにかく、
寺を逃げ出した、
というところを指摘されて、
”『一休』を書く資格がない――”
みたいなことを今東光和尚に言われてた記憶があります。
(例の『極道辻説法』で、と思う)
 
それ以降、この先入観からなかなか抜け出せませんでした。
 
それはともかく。
 
<量産作家四天王>
松本清張、笹沢佐保、梶山俊之、
と並んで、推理界ではこう呼ばれていたらしい。
 
『飢餓海峡』『海の牙』『霧と影』――
いずれも名作ですが、
実はミステリーからは早々に卒業したようです。
 
<暗い・寒い・悲惨>
京都から北へ、若狭湾を臨んで、越中、越後――
この辺りの庶民を主人公に、
どこか報われない人生を描いている――
そんな印象があります。
 
これぞまさしく、裏日本代表。
 
本作品『雁の寺』『越前竹人形』
以外にも、
 
『五番町夕霧楼』 (既読)
『越後つついし親不知』 (既読)
『はなれ瞽女おりん』 (未読)
 
この辺ですね。
殆んど映像化されてる……。
 
<みなかみ・つとむ>
今回、ネットで調べれていたら、
水上勉(みずかみ・つとむ)
と読みが付いていました。
 
ん?、
と新潮文庫の奥付きを見ると、
”みなかみ・つとむ”
となっている。
 
なんでも戸籍通りの読みに戻したらしいが、
いつからそうなったんだろう?
 
なんか、
石森章太郎と石ノ森章太郎の関係性に似てる……。