涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  125. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<ラシーヌ、光瀬龍、

倉田百三>

 
 

394.「フェードル」

ジャン・ラシーヌ
長編   内藤濯:訳  岩波文庫
 
情欲の虜となり、義理の子に恋慕の炎をもやす王妃フェードルは、
最後毒を仰いでみずから命を絶つ、フランス古典悲劇中の最高傑作。
                                 <オビスジ>
 
アテネ王妃フェードルは、義理の子イポリートに
道ならぬ想いをかける。
イポリートには別に愛人がいて誘いに乗らない。
邪心が露われそうになった彼女は、王にイポリートを讒訴する。
王の憎しみを受け非業の死をとげるイポリート、
毒を飲んで死を招くフェードル。
情慾の虜となった主人公の性格描写は
古典悲劇として完璧の美を持つ。
                   <岩波文庫解説目録:1982 Ⅱ>
 
 
ヴォルテールの『カンディ―ド』のところでも触れましたが、
この文庫も<カバー付き復活>は叶わないようです。
現在、新たな合本文庫として、このような形で出版されています。
 
 
 

 

当然、新訳です。

『星の王子さま』の内藤濯さんの訳は、いまいずこ。
 
ラシーヌはギリシア語とギリシア文学に造詣が深かったようで、
かつてのギリシア悲劇を元にした戯曲をいくつか上梓しています。
この『フェードル』もそうです。
オリジナルは次の回に出て来ます。
 
で、同時代のモリエールとの関係は結構有名で、
ライバルというよりも敵対関係にあったといいます。
 
先に世に出ていたモリエールのライバル劇団に作品を持ち込んだのを手始めに、モリエール一座の花形女優を引き抜いたりもして、
最悪の間柄だったということです。
 
なんか今の芸能界事情に通ずるところがありますね。
 
 
 
 

395.「カナン5100年」

光瀬龍
短編集   早川文庫
収録作品
 
1.オホーツク二〇一七年
2.流砂二二一〇年
3.シンシア遊水池二四五〇年
4.流星二五〇五年
5.レイ子、クレオパトラね
6.星の人びと
7.星と砂
8.ひき潮
9.カナン五一〇〇年
あとがき
 
 
光瀬龍さんの三冊目の短編集。
<宇宙年代記>の一環。
 
 
『オホーツク二〇一七年』
網走の宇宙空港でのテロ事件。
 
『流砂二二一〇年』
光瀬ファンにはお馴染みの『東キャナル市』(火星)が舞台。
サイボーグのの奮闘と悲哀。
 
『シンシア遊水池二四五〇年』
これも『東キャナル市』から始まる。
冥王星でのサイボーグ射殺事件。
 
『流星二五〇五年』
これもそう。
火星に落ちて来た巨大な隕石はタイムマシンだった。
 
『レイ子、クレオパトラね』
これは明かな、”歴史改変” モノ。
 
『星の人びと』
小惑星カサンドラの生き残り。
そうまでして生き残りたかったのか?
 
『星と砂』
植物人間<パート.1>。
 
『ひき潮』
宇宙船団大混雑。
 
『カナン五一〇〇年』
植物人間<パート.2>.
彼らが思う、『青の入江・21・3』 とは?
 
 
全編を通じて、<サイボーグの在り方>が目立った短編集でした。
 
 
ふと、なんで光瀬作品の一冊目として、例の三部作を差し置いて
この作品を選んだのか、という思いがありました。
それも今回確認出来ました。
 
やはり、『SF教室』でした。
日本の作品はあんまりよく憶えていなかったのですが……。
 
日本のSFの担当は筒井康隆さん。
ちょっと珍しいので、そのまま書き写してみます。
 
『カナン5100年』  
        光瀬龍 一九六八年  (早川書房)
 
この短編集を読むときは、きみの、視覚的な想像力――つまり、
幻想的な絵をかくときに、はたらかせる想像力――といったものを、
思いきり、だしきらなければならない。
ただ、字を目で追っていったり、ストーリーについていったりする
だけでは、この作品のよさは、わからない。
想像力のゆたかな人――それも、絵画的な想像力のゆたかな人ほど、
この作品から、ショックをうけるだろう。
文章を、声にだして読んでもいい。
ここにあるのは、宇宙にひろがる千億の星くずだ。
何万年も前にさかえた、文明の廃墟だ。
何千年かのちの未来の都市だ、
それらの幻想的な情景が、しだいに、きみたちの心の中に
できあがっていく。
光瀬龍の作品には、はっきりとした、歴史の見かたがある。
また、哲学がある。
それが、絵画的なムードといっしょになり、特別な感激をあたえる、
すばらしい物語になっているのだ。
いつかきみは、大きな目で、宇宙を見、歴史を考えるように
なっているだろう。
それは宇宙の中のちっぽけな人類というもの、また、
自分自身のことを、大きな目で見なおすことにもなるのだ。
 
 
……作品紹介というよりも、ちょっとした<光瀬龍論>に
なっています。
 
 
 
 
 

396.「出家とその弟子」

倉田百三
長編   阿部次郎/倉田艶子:解説
序文&手紙:ロマン・ロラン  角川文庫
 
 

ロマン・ロランは

「現代アジアの宗教芸術作品のうちでも、

これ以上純粋なものを私は知らない」

と絶賛している。

 

人生の限りなき淋しさを感じつつも、悪を憎み、

他の運命を傷つけることを恐れ、

善悪の対立を超えて絶対の世界に生きんとする心、

平和と宥恕と愛によってこの世を美化する心がこの作品を貫く。

                                 <ウラスジ>

 

 

個人的な思い出話になります。

高校時代、行きつけだった喫茶店の ”おばちゃん” が

倉田百三の大ファンでした。

その ”おばちゃん” が薦めてくれたのが、この作品だったのです。

もっとも、”おばちゃん” 本人は、エッセイの『愛と認識の出発』が

お気に入りということでしたが。

 

 

 

最近(?)だと、五木寛之さんの著書でブームとなった、”親鸞”。

その ”親鸞” ブームを大正時代に巻き起こしたのがこの作品です。

 

 

全六幕による戯曲で、主人公は親鸞。

そして、『歎異抄』の著者とされる弟子の唯円と息子の善鸞。

慈円、良寛といった他の弟子たち。

 

放蕩息子の善鸞を訪ねた唯円が、その店の遊女と恋仲になる

第三幕以降が、この作品の読ませ所でしょう。

 

親鸞が唯円に言います。

――三界の中にかつ起こり、かつ滅びるいっさいのできごとは皆

仏様の知ろしめしたもうのだ。

恋でもそのとおりじゃ。

多くの男女の恋のうちで、

ただ許された恋のみが成就するのじゃ。

そのほかの人々はみな失恋の苦い杯を飲むのじゃ。

 

唯円は仏に祈ります。

――縁あらば二人を結びたまえ。

 

親鸞はその祈りを引き受けます。

――おお。そのように祈ってくれ。

そして心を尽くしてその祈りを践み行なおうと心がけよ。

できるだけ――あとは仏様が助けて下さるだろう。

 

十五年後の第六幕では、

二人は夫婦となっています。

恋は成就したようです。

 

ラスト。

親鸞の臨終間際、断絶状態だった息子・善鸞とのやりとり――。

ここでは、いくばくかの信心が問われ、

その鷹揚さと寛容さに胸を打たれます。

 

……それでよいのじゃ。

みな助かっているのじゃ……

 

 

史実とはかなり異なっているようですが、

『親鸞』に興味のある方はぜひお読み下さい。