390冊終了。
<ミュッセ、
豊田有恒、
ラファイエット夫人>
391「二人の愛人」
アルフレッド・ド・ミュッセ
長編 新庄嘉章:訳 新潮文庫
はたして人間は、
二人の異性を、同時に愛する事ができるのだろうか?
きらきら輝いては、
たちまち消える火花のようなパルヌ侯爵夫人、
時として凝集された炎のように燃えるドゥロネイ未亡人。
二人の歳上の愛人の間をゆらめく
多感な青年ヴァランタンの心情を、
≪女性のバイロン≫≪フランスのハイネ≫
と謳われた浪漫詩人ミュッセが、
豊かな幻想と機知に富んだ作風で綴る
珠玉の作品。
<ウラスジ>
題名からして、どこか<コント>風な感じが
漂う一品です。
端から見れば、能天気な青年が、
さほど重大でもないことを深刻ぶってあれこれ悩んでいるみたいな喜劇にも捕えられます。
最後のモノローグなんて、
舞台での台詞みたいでした。
――では、どうしようというのだ?
二人のうちどちらかを選ぼうとすると、
どうしてこんなに心が定まらないのだろう?
そのくせ、二人を同時に、おなじように愛そうとなると、
どうしてまた、自分のほうから、
どちらかを捨てるようなことになってしまうのだろう?
ばかなのかしら?
理性があるのかしら?
実のない人間なのかしら、それともまじめな人間なのかしら?
あまりにも勇気がないのかしら。
それとも愛情がたりないのかしら?
客席から忍び笑いが聞えてきそうです。
”そう、君は<ばか>なんだよ”
この作品も、
『戯れに恋はすまじ』とか
『マリアンヌの気紛れ』みたいに
戯曲にすればよかったのに、と思ってしまいます。
作品冒頭の命題。
”奥さま、同時に二人の人間を愛するなんてことが、
はたしてできるものでありましょうか?”
これに対する、この一編を読んだ後に導かれる答え。
”ヴァランタン、あなたには無理です”
392「パチャカマに落ちる陽」
豊田有恒
短編集 高斎正:解説 早川文庫
収録作品
1.パチャカマに落ちる陽
2.チキン・ラン
3.マヤに咆える象
4.アステカに吹く嵐
<ウラスジ>なし。
こんな言い方は失礼かも知れませんが……。
和製ポール・アンダースン、
豊田有恒さんのタイムパトロール隊員の活躍を
描いた連作短編集です。
タイムマシンが出来て時間旅行が可能になった時代に、
必然的に起こってしまう ”歴史改変” のトラブル。
それを取り締まって、なおかつ歴史を元に戻すのが、
タイムパトロールの任務です。
ああ、アニメの『スーパージェッター』が
もともとそうだったよな。
豊田さんはじめ、筒井さん、眉村さんとか、
名だたるSF作家たちが制作に携わっていたんだ。
<反重力ベルト><タイムストッパー><パラライザー>
ガジェットがとにかく ”オシャレ” だった。
戻ります。
インカ、ベトナム、マヤ、アステカ、さまざまな時空を巡って、
物語は展開します。
最後に登場するケツアルコアトル、
これ姿かたちといい、
『幼年期の終わり』の ”上主” ですよね。
彼に教えられ、隊員たちが自分たちの<仕事>を顧みる場面、
ここはそれぞれの隊員が、
ムアコックの『この人を見よ』状態に陥っていることに
気付きます。
ええと。
判ったような判らないような表現ですみません。
要は、自分が当事者になってしまっていた、
と言う事です。
時間旅行で、単なる観察者で終わる事は、ほぼ不可能です。
このタイム・パラドックスと
並行世界(平行だったっけ?)ついては、
それこそアンダースンの回にでも
私見を述べたいと思っています。
……忘れちゃうかも。
393「クレーヴの奥方」
マリ・ラファイエット
長編 青柳瑞穂:訳 新潮文庫
本当の恋を知らずに結婚したクレーヴ公の奥方は、
美貌の青年貴族から思われて心動き、
道ならぬ恋に悩んで夫に打明ける。
良人は表面はともかく、本心では妻を疑い悶々のうちに逝く。
彼女は自由になったが、
自分のために死んだ夫にそむくことができない……。
華やかだが暗いルイ王朝の宮廷風俗を描写し、
繊細な恋愛心理を解剖して
フランス心理小説の先駆となった女流文学。
<ウラスジ>
1678年出版。
ラファイエットの子供たち――。
アベ・プレヴォ―、コンスタン、スタンダール、フロマンタン、
そしてラディゲ。
不肖の息子(?)の一人であるスタンダールは、
自著『恋愛論』の中でこう述べています。
第二十九章 女の勇気について
(女の勇気を、”自尊心の喜び” から生じるものとした前提から)
――女の不幸の一つは、こういう勇気の証拠がつねに
秘められていて、ほとんど外部に洩れないということである。
さらに不幸なことは、
その勇気がいつも彼女たちの幸福にさからって
用いられることである。
クレーヴの奥方は夫には何もいわず、
ヌムール殿に身を任せるべきだったろう。
<中略>
クレーヴの奥方も年をとって、
自分の生涯を判断し、
いかに自尊心の喜びがみじめなものであるかが
わかる年齢に達したとき、
きっと後悔したに違いない。
ラファイエット夫人のように生きたらよかったと
思ったことだろう。
<スタンダール『恋愛論』:大岡昇平訳>
”ラファイエット夫人のように” とは、
彼女とラ・ロシュフコーのことを
言ってるんでしょう。
ともあれ、不倫や秘められた思いを内々に吐露する場合、
<心理描写>は欠くことができない要素です。
その需要は『クレーヴの奥方』以降、徐々に増えていって、
定番化してしまったようです。
こういうのをひっくるめて、
『不倫は文化である』
といったところでしょうか。
まあいいか。
ここで本筋からは離れますが、
『ラファイエット夫人』という表記から、
ふと思いついたことを少しばかり。
『○○夫人』という作家は、
ほかに『スタール夫人』とか『セヴィニエ夫人』、
童話でいうと、『ボーモン夫人』『セギュール夫人』
などがいます。
英国だと『シェリー夫人』、
アメリカだと『ストウ夫人』ですかね。
いや、何を思いついたのかと言えば、
主要(?)各国の、『○○夫人』に象徴される
<女流作家>の歴史についてのことです。
フランスでは、
ラファイエット夫人やセヴィニエ夫人を手始めに、
ジョルジュ・サンド、コレット、ボーヴォワール、
サガン、デュラス、
と途切れ途切れながらも登場し、
文庫にも作品が収まっています。
英国では以前ちょっと触れた
アフラ・ベイン、ジェーン・オースティン、
シャーロット、エミリー、アンのブロンテ姉妹、
ジョージ・エリオット、ヴァージニア・ウルフ、
戦後になってアイリス・マードック、エドナ・オブライエン、
英連邦でいうとマンスフィールドも。
アメリカは、ストウ夫人、オルコット、パール・バック、
マーガレット・ミッチェル、
オルコットを入れちゃったから
ウェブスターとかローリングスとか。
私的にはつい最近の
アリス・ウォーカー、アニー・プルーなどなど。
さて翻って、
ゲーテ、ヘッセ、カフカなどを擁する
ドイツ文学と、
ドストエフスキー、トルストイを擁する
ロシア文学。
この日本文学に大いなる影響を与えた
二大山脈から出て来る<女流作家>――。
手許にある岩波文庫の文学案内を繙いても、
殆んど全滅状態です。
かすかに、ドイツでは、19世紀のドロステ=ヒュルスホフ
(彼女はドイツ最大の女詩人と言われているそうです)。
20世紀に入ってからはアンナ・ゼーガース、ル・フォール、
という文字が窺えます。
過分にして、存知あげない方ばかりです。
私が読んだのは戦後の作品、
クリスタ・ヴォロフの『引裂かれた空』だけです。
ロシアに関しては――どなたかお教え下さい。
この二つの国にはそもそも女流作家や女流詩人が少ないのか
(まさか一人もいないということはないでしょうから)、
翻訳されていないだけのか、
その文学を専攻していれば出会えるのか、
文庫にまで降りて来てないだけなのか。
――よく判りません。
ゲルマン民族気質、スラブ民族気質から、
そんな歴史を持ってしまったのか。
(いえ、その気質が判っているわけではないんですが、
文章の成行上)
そう言えばこの両国、
ミステリーやSFでの女流作家も見当たりませんね。
と、あくまで<文庫>目線で。