涼風文庫堂の「文庫おでっせい」351 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<プラトーン、

アベル・ボナール>

 

1065「ソークラテスの弁明・

クリトーン・パイドーン」
プラトーン
短編集   田中美知太郎/池田美恵:訳
新潮文庫
収録作品
 
1.ソークラテスの弁明
2.クリトーン
3.パイドーン
 
その否定的対話によって、
既存の社会体制、道徳、宗教を盲信する
保守的な人々から糾弾され
不当な死刑に処せられたソークラテスが、
法廷で自己の所信を力強く表明する
『ソークラテスの弁明』、
 
脱獄のすすめを退け、
国法を守って平常心のまま死を迎える彼が、
法と正義について弟子と対話する
『クリトーン』、
 
毒薬をあおって刑死する彼の最期を語る
『パイドーン』
 
を収録する。
 
                        <ウラスジ>
 
 
しつこいようですが、
私にとって不案内な、”哲学” を背負う ”哲学者” ゆえ、
周辺事情からウダウダ断片的に語っていきますので、
よろしくお付き合い下さい。
 
* 『西洋哲学の祖』とされているが、
そもそも西洋哲学は『論理の追究』みたいに言われ、
神話や宗教に組み込まれなかった。
この辺が東洋哲学と違うところ。
 
* かつて耳にしたことを端的に言うと、
西洋哲学は学究で、
東洋哲学は教示であると。
 
* すなわち、
西洋哲学はキリスト教に抱合されず、
東洋哲学は釈迦の仏教や孔子の儒教に内包されていく、
とか何とか。
 
* 無知の自覚。
 
<無駄話>

名前は有名だが、

何をした人なのかはよく分からない――
こんな偉人は結構います。
 
ましてや著作もなく、
弟子たちが、『話を盛って綴ったエピソード』が
現在に至って形となっているものも少なくありません。
 
『新約聖書』や『論語』もその類。
 
ただ、弟子や取り巻きが著わすことで、
対象となる人物が生き生きと描かれる場合もあります。
そこが一つの読ませどころ・聞かせどころでしょう。
 
 
佐藤愛子さんの作品に『ソクラテスの妻』というのがあります。
 
初期のもので芥川賞候補にもなった短編です。
で、これは評伝などではなく、御自分を
”ソクラテスの妻” 、すなわち、”悪妻”  として
捉えて描かれたものと聞きます。
(未読)
 
ここで言いたかったのは、
”ソクラテスの妻” と言っただけで、
打てば響くように、”悪妻” の二文字が
降臨してくるということなのです。
 
山内一豊の妻、華岡青洲の妻とは真逆。
 
ソクラテスそのものの知識さえ、
あやふやなところに持ってきて、
その妻となると、もっとあやふやになるはず――。
 
しかし、”悪妻” という言葉だけは自然に出て来る。
(クサンティッペを、『臭い屁』で覚えた奴もいる)
 
世界三大悪妻>
 
クサンティッペ (ソクラテスの妻)
コンスタンツェ (モーツァルトの妻)
ソフィア (トルストイの妻)
 
このうち、トルストイの妻のことは、
つい最近まで知りませんでした。
 
コンスタンツェは映画『アマデウス』を観たきっかけで。
 
モーツァルトの死後、楽譜やらなんやらを売りさばいて、
財産を喰いつくした、とか。
(ケッヘル番号の成立と関係ありそう)
 
まあ、だいたい学校の音楽の授業で、
作曲家の妻帯状況にまでは言及しないので、
これも、あとあと知ったことでした。
 
知っていたのは、
シューマンとクララぐらいかな。
 
中学に入りたての一時期、
クララ・シューマンの肖像画に魅かれていました。
 
 
もとい。
 
この文庫の表紙はプラトンなんですね。
 
ソクラテスはオーソン・ウエルズに似てるんで。
(ドヴォルザークにもちょっと……)
 
 
それにしてもプラトンは存在感ありますね。
著作も多いし(偽作もあるらしい)、
文庫でも読める。
 
あと、勝手に入って来た情報としては――
 
プラトニック・ラブの語源であるとか、
アレクサンダー大王の家庭教師だったとか、
(これはプラトンではなく、アリストテレス)
アトランティス大陸の提唱者だったとか
――。
 
続く。
 
 
 
 
 

1066「 饗 宴 」

プラトーン
長編   森進一:訳  新潮文庫
 
 
なぜ、男は女を求め、女は男を求めるのか? 
 
愛とは、いったい何なのか?
 
悲劇詩人アガトーンの第一位入賞を祝う酒席で、
五人の仲間たちが愛の神エロースを讃美する即席演説を試みた。
 
男女の肉体的な愛に始まり、
最後は真打ち格のソークラテースによる
美のイデアとしての愛に終る本書は、
およそ考えうる限りの愛の姿を論じて
プラトニック・ラヴの出典ともなった永遠の名著である。
 
「太古の人間は、
男性、女性、両性と三種族いた」
え、そうなの? 
愛について、エロスについて
縦横に語られる名著。
 
                  <新潮社:書誌情報>
 
 
こんばんは、森進一です。
 
前作の翻訳者、
田中美知太郎教授の弟子筋にあたる、
ギリシア哲学研究者。
 
ただ、
この同姓同名はインパクトがありすぎて、
ロシア文学者の『江川卓(たく)』氏とともに、
テレビに取り上げられたりもしてたような。
(11PMかEXテレビ)
 
これも対話集なんですが、
最初に<登場人物>の紹介の扉があって、
一見、”戯曲” かと思ってしまいます。
 
で、
その喜劇(戯曲)作家アリストパネースが登場。
 
師のソクラテスを作品『雲』で揶揄した、
その意趣返しをして溜飲を下げたとか。
 
しかし、
何にでも食いつくオッサンですな、
アリストパネースは。
 
ここで基本的な人物表記について。
 
なぜ、
ソクラテス/プラトンでなくて、
ソークラテス/プラトーンなのか。
 
ギリシアの古典ものにはやたら多い、
訳者の人物表記へのこだわり。
 
ホメロス➡ホメーロス
ソポクレス➡ソポクレース
エウリピデス➡エウリーピデース
 
あと歴史の教科書で習ったのは、
アリストファネス➡アリストパネース
 
多分、発音なんかで言うと、
翻訳されておられる方のほうが正しいんでしょうが。
 
<結論>
 
出でよ、イデア。
 
 
 

1067「 友 情 論 」

アベル・ボナール
長編   安東次男:訳  角川文庫
目次
 
第一部 友情とはなにか
第二部 友情に関する三十八章
第三部 恋愛と友情
第四部 友情に関する十六章
第五部 男と女の友情
第六部 友情の饗宴
 
 
フランス・モラリストの雄、
ボナールが、彼一流の洞察力をもって、
友情の奧にひそむ人間の欲望を鋭く追求する。
 
「人は恋愛を夢みるが、友情を夢みはしない」
と、その心理をつきながらも、
「いまも存続している最後の騎士道、それは友情だ」
と断言する。
 
人間への限りない愛にみちた、
その清新な筆は、真の友情を説いてやまない。
 
                        <ウラスジ>
 
 
個々の青春時代を渡り歩く、
究極のロング・セラー。
 
”男女の友情は存在しうるか”
 
第五部を読みたさに、手に取った輩もいます。
私もその一人。
 
が、
 
男女間の友情という、
わたしの題目のもっとも微妙な部分の一つを
取りあげるに当たって、
わたしは味もそっけもなくなることを恐れた。
そこで、この危険を避けるために、
ひとりの友人の助けをかりることにした。
 
本当に友人なのか、内なる人格なのか?
 
いずれにせよ、この説明は文字通り、この命題を
”避けた” ことになるでしょう。
もしくは、
”逃げた”
 
厭味ったらしいことを言うと、
ナチの協力者として、人生の後半を逃げまくっていたことが
被さってくる、みたいな。
 
<本編>
開始早々、突き離しにかかります。
 
ふつう、友情と呼ばれているものは、
習慣あるいは同盟にすぎない。
たいていの人間は、
愛することなしでも十分すましてゆく。
 
あと、<ウラスジ>にもある、
「人は恋愛を夢みるが、友情を夢みはしない」
には続きがあります。
 
「人は恋愛を夢みるが、友情を夢みはしない。
夢みるのは肉体だからだ」
 
 
 
<波線模様>
 
無教養な人間はまったく現在に従属していて、
いつも何から何まで環境によって引きずり回されている。
 
偶然の機会が偽りの恋人をつくるように、
習慣は偽りの友をつくる。
 
なれなれしい言葉つきは、友情のにせ金だ。
 
恋人同士というものは、
たがいに永久に仲がいいとほのめかしあっているものだが、
それというのも、相手を熟知しているので、
自分については何を言い出されるかわからないと思って、
たがいに警戒しているのだ。
 
何を基準に波線を引いたのか分からない……。
 
<追伸>
チラッと述べたボナールとナチスとの関係を、
翻訳の安東次男さんがこんな風に言っておられます。
 
かれ個人の行為の問題としては、
かれのいう<友情の饗宴>に
余人ならぬヒトラーを招かざるを得なかった経緯も、
これらのことばのなかから読みとることができるのである。
 
                 <安東次男:解説より>
 
”力の秩序”
モラリストの変貌の最後――。