涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  68. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<コクトー、エッセイ>

 
 

219.「怖るべき子供たち」

ジャン・コクトー

長編   東郷青児:訳  小佐井伸二:解説  角川文庫

 

記憶の欠落、混濁に関しては再三述べて来ましたが、この作品については比較的細部を覚えていましたから、それらを鑑みる必要はないだろうと思っていました。

 

その細部というのはこんな場面です。

 

何かしら追いつめられた姉が、弟の怒りや敵愾心をなだめるために取った行動――。

 

その場の状況とは全く関係のない小説の話なんかを思い出そうとする。

また上目使いをしながら頭の中で何かしらの数を数えてみる。

 

……言って見れば<現実逃避>の恣意的ともとれる行動ですが、これが彼女に神秘性を纏わせ、弟の心を掴む……。

 

これが合ってるかどうかは後で答え合わせをします。

 

 

他人を受け入れない、孤児の姉弟の異様で美しい物語。

 

これで<性>が絡んでくると、ナボコフの世界だな。

 

あと、少年少女の姉弟と言えば「ねじの回転」。

 

 

エリザベートとポール。

 

この姉弟以外に誰が出てたっけ。

 

<ダルジェロ>

ダルジェロって誰や?

雪合戦で雪玉の中に石を入れた奴。

 

アベル・ガンスの「ナポレオン」で観た光景だ。

サイレントでモノクロだったけど、額から流れる血が真っ黒だったな。

 

【美の特権はすばらしいものである。美は美を認めないものにさえも働きかけるのだ。】

 

美少年。息づいているのは最初だけ。

 

 

<ジェラール>

準主役。ほぼ姉弟の同居人。伯父の財産で金持の孤児。

 

<姉弟の母親>

開始当初は存命だったんだ。端役。

 

<マリエット>

お媼さんの料理人。端役。

 

<アガート>

準主役。完全な姉弟の同居人。ダルジェロに生き写しという設定。

姉弟の世界を破壊すべく送り込まれたヴァルキリー。

 

<ミカエル>

誰?

エリザベートに財産を残すためだけに結婚したユダヤ系アメリカ人。

突然ガバチョ!、の感が否めず。

首にまいたマフラーが車轂(タイヤの軸)に巻き込まれて死亡。端役。

 

これで思い出したのが、かつてあったゴーカートの事故。

 

昔のゴーカートは後部のエンジンがむき出しで、あるロングヘアの女性がそこに髪の毛を巻き込んで、どうにかなったって話。

 

ええと。

 

とにかく全てが、この姉弟の生活を維持できるような具合に運んでいたにも関わらず、破局が訪れます。

 

毒薬とピストル。

 

ここで最初に言った<細部>が出て来るんだ。

 

【――生きていなければならなかった。緊張は緩みそうもなかった。】

 

【それで、彼女は数えたり、計算したり、乗算したり割ったり、日付や家屋の番地やを思い出したり、それらを総計したり、間違えたり、やり直したりした。】

 

【ふと彼女は夢で見た小山が、「ポールとヴィルジニー」の中から来たものであることを思い出した。】

 

 

それまで姉を『穢わしい悪魔!』と問い詰めていたポールは、その平然とした姉の態度で驚いてしまいます。

そして、こう落ち着きます。

 

【その眼は、憎悪から神秘な好奇心に変わっていた。】

 

 

でも最後はエリザベートがピストルの銃口を自分の顳顬に押し当てて……。

 

 

結構、いろんなところが抜け落ちてるなあ。

見事なぐらい。

 

 

 

 

 

 

 

 

220、「現代の青春」

高橋和巳

桶谷秀昭:解説  小坂部元秀:解題  旺文社文庫

目次

Ⅰ.

世代について―若い未知の友への手紙/自立と挫折の青春像―わが青年論/隔絶の時代/

現代の青春/未来と願望/女性の自立

Ⅱ.

書物と驢馬/〈邪読〉について/読書のかたち/未だ形なき新しい読書/精神の網/イメージをはぐくむ/私の読書遍歴/私の語学

Ⅲ.

思想家としての岡倉天心/夏目漱石における近代/詩人との出会いと別れ・三好達治/私の

ドストエフスキー―『死の家の記録』

Ⅳ.

文学者にみる視野脱落/文学と友情/自然への讃歌と挽歌/孤独なる遊戯/私の文章修業/

文学の中の人間関係/〈志〉ある文学/文学の苦しみ/投稿について/妄想のたのしみ/心に降る雪、積る雪

Ⅴ.

苦痛について/愚昧への道/質問の力について/楽園喪失/我が宗教観/宗教学生への提言/

Ⅵ.

さわやかな朝がゆの味/少年期断片/我がふるさと/私の中学時代/無垢の日々―後輩への

手紙/春のうた

 

 

 

 

波線引いてあるところを抜き書きしまーす。

 

 

 

【いつの世にも青春論は数多くあっても、中年論や老人論と言う者は余りない。】

 

「老人力」なんて本はまだ先の話です。

 

 

 

【読書はまず即自有としての自己を一たん無にして、他者の精神に接するべきものであり、ありは確実な、あるいは体系的な知識を身につけるために読むべきであることは知っている。】

 

<即自有>か。

ここでヘーゲルを持ち出すのが高橋和巳っぽい。

ガサツな言い方をすれば、”俺は何があろうとも俺である事をやめない” みたいな。

向他有>もあったっけ。

これもガサツに、”お前にとっての俺”。

 

弁証法とかアウフヘーベンとか、言葉だけが独り歩きしていましたね。

そもそもヘーゲルの本って岩波文庫から一冊出ているぐらいで、殆んど手に入らない。

いきおい研究書のたぐいで読むしかなく、自分の判断が他人のそれに左右される事になる。

まさに<向他有>。

 

 

【また客観的精神と言う者は、そうした過程を経なければ形勢されず、また、そうでなければ、認識と実践の統一という美しい神話も成り立たない。】

 

今度は毛沢東。

 

 

【まこと読書は各自の精神の濾過機を経て、その大部分が少くとも顕在的な意識の上からは、一たん消失するということがなければ、精神に自立というものはなくなるかもしれない。】

 

これを私は、『勉学や読書で得た知識・情報が悉く失われたあとに残ったもの、それが[教養]である』と受け取っています。

 

 

【一冊の書物にほとんど救いを求めるようにして接する求道型の読書、具体的な生活上の知識や知恵を得るための読書、あるいは無目標な然し存在の奥底からの渇望から発する読書等々。各人がその人の個性にあった読書のかたちを造り出せばいいのであろう。】

 

まさにその通り。

でも、最初のやつはちょっと危険な香りがする。

 

 

 

 

で、波線は引いていませんでしたが、今回、新たに発見したもの――。

これは私の読書法にも深く関わってきそうなので、取り上げざるを得ませんでした。

 

【当時友人の一人に一冊の書物を読み切れば、その理解したところを見事に要約してみせねばやまない<要約魔>がいて、電車の中や街頭で彼の的確精密な要約を聞きながら、しばしば自分の読書の仕方に対するある後ろめたさの念におそわれたものである。】

 

 

後ろめたさなどは感じませんでした。

たとえば先の「怖るべき子供たち」

「よう覚えてるなあ。ワシは姉が弟をもう一辺、魅き付ける仕草んところしか覚えてへんわ」

 

 

【「あの本を読んだか」と聞かれ、嘘ではなく読んだ記憶があって、「ああ」と答えるのだが、想念を刺戟された部分や、小説ならば作中人物のある造形に共感を伴うイメージはあるのだが、どうしてもその友人がしてみせるようには、内容を整然と紹介したり説明したりできないのだった。】

 

この【内容を整然と紹介したり説明したり】すること、

 

これは、読書感想文においてはマイナスのポイントとなるものでした。

 

 

小学校の高学年(四年生から)になると、夏休みと冬休みの二回、読書感想文を書かなければならなくなりました。

 

私は最初にローリングスの「子鹿物語」を選びました。

 

子鹿のフラッグとの出会いから、畑を荒らすようになってジョディ自らがフラッグを撃ち殺し、その混乱から家を飛び出し、船に拾われ家に帰って来る――まで、まずはちゃんとした梗概を書き記しました。

そのあと、”うちにも庭があるので子鹿を飼ってみたい、などと愚にもつかない、心にもない事を付け加えて感想文を書き終えました。

 

そして――この感想文で担任の先生に呼び出されました。

 

小言を喰らった訳ではありません。

私の国語の成績が良かったので、少々アドバイスしたいとの事でした。

これを聞いて私は、大方、取って付けたような、”庭で子鹿を飼う” の部分を指摘されると思っていたのですが、違いました。


アラスジの方だったのです。

 

 

先生曰く、

 

読書感想文は個人の感じたものを書くのである。

 

アラスジなんかは皆、似たり寄ったりであるからさして重要ではない。

 

自分が興味を持ったところ、面白いと感じたところを掘り下げたり、拡げて言ったりしてごらん、との事でした。

 

たまたま私は、ジョディが行き倒れたあとの、

 

”飢えた人間に、いきなり固形物を与えてはいけない。最初はスープから” 

 

の部分にちょっと行を割いていましたので、そこからでも良いので何か考えてみてはどうかとも言われました。

 

それから、参考にするようにと、過去の優秀作を貸してくれました。

 

それは友人が書いた「ヘレン・ケラー自伝」の感想文でした。

 

幼少時代のヘレンとサリヴァン先生との話はもちろん紹介してありましたが、そのほかの大部分が、聾唖者の実態や、その努力のさま、あきらかにその本だけからの情報でない関連本の知識などが網羅されていました。

 

そして、今でも覚えている結びの文章――。

 

「努力、努力が必要なのだ」

 

これを書いた<M>くん、元気かな。

 

 

 

以降、私の読書は高橋和巳の言う<邪読>の部類に入ります。

 

『――想念を刺戟された部分や、小説ならば作中人物のある造形に共感を伴うイメージ』を追っかけて本を読んでいます。

 

粗筋に関しては、ウゴウゴルーガの『あさのぶんがく』や、

ピタゴラスイッチの『5秒でわかる』、

もしくは出典は判りませんが、以下に載せた紹介文などの程度で済ますのを原則としています。

 

 

「車輪の下」

貧しい少年が勉強のしすぎでノイローゼになり、酩酊して溺死する。

 

「狭き門」

信心深い少女が結婚を断念し、ひとり寂しく肺病で死ぬ。

 

「若きヴェルテルの悩み」

婚約者のいる女に恋した青年が悩んだ末、ピストル自殺する。

 

「ボヴァリー夫人」

不倫に走った人妻が身を滅ぼし、砒素を飲んで自殺する。

 

「罪と罰」

男が女を殺し、不快な気分になる。

 

 

あとはおぼろ。

恍惚のブルースよ。

 

 

最後にもう一つ、最近になって身につまされるようになってきた現象を共通項として、引用して終わります。

 

【かつて慌しく書物を読み棄てていた時、自分でもやや不思議なほど一度読んだものの事を忘れなかった。だが、いつでも読みかえせるように本を数多く身辺にそなえるようになったいま、年齢のせいもあってか、妙に読んだもののことを度忘れするのである。】

 

だから本をためこんじゃう。

もともと、ビブリオフィリア(マニアではない)っぽいところがあったし。

 

 

 

なんかやたらと引用だらけになっちまったなあ。

 

 

 

P.S.

そのついでに『文学界新人賞』に応募した時の話を最後に――。

 

高橋和巳の作品は落選し、栄誉に輝いたのは石原慎太郎さんの「太陽の季節」でした。

 

【――私はその作品を読み、そして衝撃を受けた。】

【その衝撃は直叙形では言いにくいが、たとえて言えば、埴谷雄高の『死霊』の主人公・三輪与志のような陰鬱な青年がわけのわからぬことを考えながら散策している道を、颯爽たる新時代の青年が轟音をたてる単車で駆けすぎるのを呆然と見送る、といった情景にちかい。】

【この人の登場と、それを支持する世代や階層の隆起は、必然的に他の部分の陥没をもたらすだろうことを、私は直感した。】

 

 

自分はどっちかって言うと、高橋和巳の同類です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

221.「狼なんかこわくない」

庄司薫

長編   萩原延壽:解説  中公文庫

目次

 

Ⅰ.三つの序文

     ぼくが「序説」の好きなわけ

     十年間何をしていたか

     一つの戦闘報告として

 

Ⅱ.若さと言う名の狼について

     春休み

     蝶をちぎった男の話

     若者の「やさしさ」に気をつけろ

     古典的青春論への疑問

     「天賦人間らしさ説」に反対して

     若者はなぜ自分を被害者と考えたがるか

     二つの『喪失』

     「最高を狙う」困難

     乗りかかった船

     小説を書くというのは怖ろしいことだ

     「見る人」と「傍観者」

     「文学青年の総退却

     犬死仕掛けた若者のひそかな退場

     封印は花やかに

     おおクリトンよ

     「他者への愛」を封じこめる己否定衝動の客体化

     「若さ」のまっただ中における自己否定の困難

     「自己否定」から「他者否定」へ

     「ミソッカス」の運命について

     戦争体験と平和体験

     情報洪水と価値の相対化

     平和体験の自己表現

     出発

 

Ⅲ.十年ののち

     再び「春休み」に

     ゲリラの兵士めざして

     赤頭巾ちゃん気をつけて

     運命論者として

     芥川賞

     「狼なんかこわくない」と言いきるために

 

 

元々、特徴のある長い文章を使って小説を書く作家のエッセイって、どんな文体で書かれてるんだろうと言う好奇心がありました。

 

ここで取り上げる庄司薫さんとか野坂昭如さんとか。

 

エッセイという代物はおおむね、自分の経歴だったり、身辺風景を題材にしたりしていますから、その書き方に多少なりとも違いが出て来るんじゃないかと思っていました。

 

でなければ、虚構を描くか、真実を描くかだけの相違になってしまって、わざわざ<エッセイ>と銘打つこともなかろうと考えてもいたからです。

 

志賀直哉の「城の崎にて」なんて、まるっきりのエッセイ(随筆)ですから。

 

 

で、このエッセイ集はかなりの部分が、小説(赤頭巾ちゃん以降)通りの文体で書かれていました。

 

これに結構、ハマってしまいました。

 

目次にあった『福田章二』時代の文体は<封印>されていました。

しかも少々苦手だった福田章二時代のことをあらためて<薫くん>文体で解析されていたのでなかなかにに興味深く読むことが出来ました。

 

 

 

【この「傷つきやすい青春」というとらえ方が、確かに青春の構造の一面をよくつかまえているのは事実にちがいない。】

 

詩、小説、演劇、ドラマ、映画。

 

【そしてまた、この現実の社会の中で生きるというそのことが、若者を傷つけたりその人間らしさを失わせるようなメカニズムを持つという結論部分では、ぼくのとらえ方となんとなく一致するかに見える。】

 

一般論として。

 

【しかし、それはあくまでも見せかけの一致であり、いわば「尻尾だけの類似」に他ならないは明らかだった。】

 

よくよく考えれば。

 

【つまり、この「傷つきやすい青春」というとらえ方は、人間の成長について、次のような、いわば基本的固定観念のようなもので支えられているとぼくは思った。】

 

確かにスタート地点は同じ場所。

 

【すなわち、人間というのは若ければ若いほど無垢で純粋で誠実であり、成長しておとなになるに従って不純になり不誠実になり汚れていく、といった考え方がそこには抜きがたい固定観念としてあるのだ。】

 

そうとばかりは言えないだろう、というところから、庄司薫さんやサリンジャーは出発している。

 

【そしてこのように考えるからこそ、オトナへの過渡期である青春がすなわち

純粋と不純との闘い

誠実と不誠実との争い

正義と不正との衝突

の時期としてとらえられ、そこで傷つく若者は、

純粋であるが故に、

誠実であるが故に、

正しいが故に

敗れ傷ついたということになって、いわば悲劇の主人公になるのだ。】

 

 

 

こう言った捉え方に異を唱えるところから始まっているのが、このエッセイ集のキモといえるでしょう。

 

 

「純粋」と「誠実」は必要なものだが、それを維持するには<力>を獲得しなければならない

とも述べられています。

 

 

多くの『青春論』の類が、学者や教授といった比較的年配の方々が自分の回想を含めて書いておられます。

これに対して、三十路をちょっと越えたばかり、つい先日まで青年であった庄司さんがこの『青春論』に挑んでおられるところにこのエッセイの意義(?)があると思えます。

 

さして年齢の違わない先輩からの助言には、反発より先に共通項が見出しやすくなっているのではないでしょうか。

 

私のような老齢の者にも首肯ける部分がたくさんありました。

 

ただ今の時代にはどうでしょうか。

 

情報化時代の鬼っ子として、多くの<スレッカラシ>の若者が誕生している中、『青春論』そのもののあり方が問われるようになっているのかもしれません。

 

 
 
 
 
 
 

222.「共産党宣言  共産主義の原理」

カール・マルクス  
フリードリヒ・エンゲルス

マルクス=レーニン主義研究所:訳  国民文庫編集委員会:解説

国民文庫

 

目次
 
共産党宣言
 
一八七二年のドイツ語序文
一八八三年のドイツ語序文
一八九〇年のドイツ語序文
一八九二年のポーランド語序文
一八九三年のイタリア語序文
 
共産党宣言
一、ブルジョアとプロレタリア
二、プロレタリアと共産主義者
三、社会主義的および共産主義的文献
    1.反動的社会主義
        a   封建的社会主義
        b   小ブルジョア社会主義
        c   ドイツ社会主義またはブルジョア社会主義
    2.保守的社会主義またはブルジョア社会主義
    3.批判的=空想的社会主義および共産主義
四、種々の反政府党にたいする共産主義者の立場
 
共産主義の原理
 
共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ
 
 
 

またまた厄介な代物が……。

 

 

これも授業のレポート提出の関係から買ったものです。

 

「風土と歴史」や「十七度線の北」と同じく、<地理>の先生が出した課題図書の一つでした。

 

ほかに、スノーの「中国の赤い星」なんかもありましたが、この本が一番薄かったので……。

 

 

【一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義の妖怪が。】

 

 

 

この有名な文章で始まる『共産党宣言』ですが、実はマルクスが関わっているのはこれと『一八七二年のドイツ語序文』だけで、あとは全部エンゲルスの手によるものです。

マルクスは一八八三年に亡くなっていますから。

 

ともすれば観念的な遊戯に陥りがちな哲学書と違って、比較的読みやすい書物でした。

 

『共産党宣言』の最後の一文は、私の高校時代にはまだ<死語>ではありませんでした。

 

 

【万国のプロレタリア団結せよ!】

 

 

 

レポートの書きどころ。

 

主要な方策

 

1.累進税、高度の相続税、傍系(兄弟、甥などの)相続の廃止、強制公債等による私的所有の制限。

     いきなり『私的所有』への言及。

 

2.地主、工場主、鉄道所有者、船主の財産を一部は国有産業の競争により、一部は直接に政府紙幣での補償により、徐々に収用すること。

     私有財産の放棄に向けて。

 

3.大多数の国民に敵対したすべての亡命者と反逆者との領地没収。

     貴族、地主、アナスタシア。

 

4.国有農場、国有工場、国有作業場において、労働を組織し、あるいはそこにプロレタリアを雇用すること。

それによって労働者間の競争をなくし、また工場主がまだのこっているあいだは、その工場主に、国家が支払うのと同じ高さに引き上げられた報酬(賃金)を強制して支払わせる。

     どっかの国が徐々にやろうとしてる。

 

5.私的所有が完全に廃止されるまで社会の全員にたいする平等の労働義務、産業軍の編成、とくに農業のために編成すること。

     最初はみんな軍事から。

 

6.国家資本をもった国立銀行を通じて、信用制度と貨幣取引とを国家の手に集中し、すべての民間銀行や金融業者を禁止すること。

     レートが下がりそう。

 

7.国有の工場、作業場、鉄道、船舶の増加、あらゆる土地の開墾、および、すでに開墾された土地を、国民の自由に処理できる資本と労働者とが増加するにしたがって改良してゆくこと。

     環境破壊の最たるもの。

 

8.すべての子供を、母親の養育なしでやっていけるようになるときからただちに、国家の施設で、国家の費用で教育すること。

教育と生産との結合。

     洗脳、もとい、教育は子供の時分から。

 

9.国民の共同団体のために共同住宅として、国有地に大住宅をつくる。

そしてこの共同団体は、農業と工業とをいとなみ、田園生活と都市生活との長所を結合し、その両生活様式の一面性と不便とをまぬかれる。

     だから、申し訳程度の木々なら、環境破壊と

     変わりないって。

 

10.そまつにつくられた不健康な住宅と市区とをすべて破壊すること。

     破壊。

 

11.私生児に嫡出子と平等な相続権をあたえる。

     1.と矛盾しそうな。チャウシェスク。

 

12.国民の手にいっさいの運輸機関を集積すること。

       はい。

 

 

 

 

かなり具体的な方策です。

 

これが世の資本家たちを震え上がらせた<共産主義の目指すもの>だったわけです。

 

この前段で、これらの方策がただちに遂行されなければ、

民主主義は無益であるとも述べています。

 

 

いや、かなりラディカルですねえ。

武力闘争も辞さずという覚悟が漲っています。

 

 

でも、『人間らしさを取り戻すために、人間らしさを捨て去る』みたいな二律背反から出発しているこのやり方って、当初から大いなる矛盾を孕んでいたような気がします。

 

無論、『良い暮らしをするんだから、それぐらいは我慢しろ』というぐらいの事は判ります。

 

しかし、『我慢し続けること』って、良い生活を送ってるってことになるんでしょうか。

 

 

 

 

で私が書いたレポートの最後はこんな問いかけだったと思います。

 

『誰がリーダーになるんですか?』

それぞれの国が拡大解釈により、それぞれのリーダーを打ち立てています。

ちゃんとした選挙もせずに。

 

 

ああ、もう一冊あるんだ。この手の本。