<ブラッドベリとオーウェル>
<柳田国男と小林秀雄>
215.「こども風土記」
柳田国男
長編 丸山久子:解説 角川文庫
目次
鹿・鹿・角・何本/あてもの遊び/かごめ・かごめ/中の中の小仏/地蔵遊び/鉤占いの話/ベロベロの神/おもちゃの起こり/木の枝の力/念木・ねんがら/燈台もと暗し/ねぎごと/弓太郎と念者/おとなからこどもへ/こどもの役目/鳥小屋の生活/祝い棒の力/力ある言葉/ゆの木の祝言/千艘や万艘/猿ちご問答/公認のいたずら/左義長と正月小屋/こども組/女児のままごと/精霊飯/盆と成女式/こどもの新語/くばりごと/おきゃく遊び/ゴコトンボ/鬼事言葉/狐遊び/子買お問答/国語とこども/鹿遊び/遊戯の進化/児童文芸/ネンガラの鉤/鹿遊びの分布
<昭和十六年出版>
初めての<柳田・民俗学>とのご対面になります。
【――今でもそちこちに見る『◯◯風土記』という名称は、はるか昔の文献からの影響はさておき、流行の源はここにあったと私は考えております。】
216.「10月はたそがれの国」
短編集 宇野利泰:訳 創元推理文庫
収録作品
1.こびと
2.つぎの番
3.マチスのポーカー・チップの日
4.骨
5.壜
6.みずうみ
7.使者
8.熱気のうちで
9.小さな殺人者
10.群集
11.びっくり箱
12.大鎌
13.アンクル・コナー
14.風
15.二階の下宿人
16.ある老母の話
17.下水道
18.集会
19.ダッドリー・ストーンのふしぎな死
ジョー・マグナイニのイラストとともに、ブラッドベリ、初見参です。
【――後期のSFファンタジーを中心とした短編とは異なり、ここには怪異と幻想の夢魔の世界が息づいている。】
<ウラスジ>より
今回、パラパラとめくってみて、思い出したものが7編、あとはうっすらとしか思い出せないもの、イラストは覚えているのに肝心の小説のほうを丸っきり忘れているものもありました。
『こびと』
マジック・ミラー奇譚。
背が高く見える鏡の前に陣取る『こびと』を観察していたレイフに訪れた運命は――。
『骨』
骨の痛み・違和感に苛まれていたハリス氏が最後に行き着いたとこらは――。
『みずうみ』
ぼくが十二歳の時『みずうみ』で溺れて亡くなったタり―は、今、ぼくに妻のマーガレットを忘れさせてしまった。
『小さな殺人者』
両親を殺害した赤ん坊、あれを止めるのは、あれを世に送り出したおれの役目だ。
ジェファーズ医師は手術刀を手に、赤ん坊に挑みます。
『群集』
事故で死にかけているおれの周りに蠢いているお前たちは一体……。
死ぬ間際に男は悟ります。「そういう事か……」
『大鎌』
ドルーが大鎌を振るうたびに何かが起こります。
何かが、息絶えます。
『風』
風に殺されるという友人のアリン。風の正体はたくさんの死人だと言い残し、彼もまた風に飲み込まれてしまったような――。
この7つをそれとなく憶えていたのは、これまでに彷彿とさせるものや連想させるものを読んできたからでしょう。
*『こびと』、『骨』は、ロバート・ブロックやジョン・コリアの作品。
*『みずうみ』は、何となく。
でも映画「わが青春のマリアンヌ」かな。
*『小さな殺人者』は、当時流行っていた、子どもに悪魔が乗り移るたぐいの映画。
ダミアンで有名な「オーメン」、
珍しいスペイン映画で子どもたちが大人を皆殺しにするという「ザ・チャイルド」
*『群集』は、日本の何か。
でもイメージ的には映画「ゴースト/ニューヨークの幻」
のあの世に連れ去られるシーン。
*『大鎌』は、キングの「トウモロコシ畑の子供たち」。
*『風』は、バラードの「狂風世界」。
記憶を増幅させる装置が怪しげだ。
217.「動物農場」
中・短編集 高畠文夫:訳 開高健:寄稿 角川文庫
収録作品
1.動物農場
2.象を射つ
3.絞首刑
4.貧しいものの最期
もともとは英文解釈リーダーに「象を射つ」が載っていて、その虎の巻として購入したものでした。
今となっては、「象を射つ」含め、オマケ(?)の三編は全く憶えていませんが……。
「動物農場」について。
これは寓話でもあるので、基本的な所を押えておきます。
【これは、一般に、オーウェルが「はっきりとした自覚をもって政治的目的と芸術的目的とを融合させようとした最初の作品」である。】
【スペイン市民戦争に、アナーキスト系の P・O・U・M 市民軍の一員として従軍中、共産主義者たちの陰険な謀略や、真実をことさら歪曲し、隠蔽し、しまいには抹殺すらしようとする悪辣なデマ宣伝や、卑劣な弾圧やテロ行為などを身にしみて痛感し、共産主義者、ことにスターリン独裁体制下のソビエト連邦のやり口に対して、深い疑惑と根強い反感を抱き、共産主義はけっして社会主義ではなく、むしろ、社会主義という仮面こそかぶっているが、その実体はまさしくファシズムにほかならない、とまで確信するようになったのだった。】
【このソビエト的ファシズムの実態をさらに広く世界に訴え、警告を与えたいという意図のもとに書いたのが『動物農場』である。】
<高畠文夫:解説>より
ここに挙げた文章は何度か引用させてもらいましたが、かなり激烈な物言いですね。
オーウェルがどこかで言ったのか、高畠文夫さん御自身の意見なのか。
高畠さんは「カタロニア讃歌」も訳しておられますし、デストピア小説の嚆矢、「すばらしい新世界」も訳しておられます。
故にオーウェルの真情を汲み取り、また為政者によるおためごかしの理想社会にも鋭いメスを入れておられるような気がします。
ただ、ここから窺い知れるのは、決して<反共>姿勢などではなく、その上層部によるごまかしや末端のシンパによるマキャヴェリズム的な行動を批判されている、と言う事です。
「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、これを真似て恐ろしく乱暴な言い方をすれば、
「人を憎んで、主義を憎まず」
といったところでしょうか。
また寄稿された開高さんによれば、「これは寓話である」と前置きし、
「寓話とは諸性格の最大公約数を抽出してきて異種の典型に発展させる作業である」
とした上で、ナポレオンをヒトラーとするナチズムの勃興にも当てはめることが出来る、と仰っています。
私が何か当てはめるとしたら、さしずめキューバ革命あたりでしょうか。
カストロがナポレオン、亡命したわけじゃありませんが、いずれ両雄並び立たずになると見て立ち去ったチェ・ゲバラがスノーボール――。
この他にも探せば出て来るのではないでしょうか。
共産主義国家や軍事主義(?)国家を見渡せば。
最後に、よくある質問。
……って、いつから<Q&A>になったんだ?
この物語の、<人物(豚を含めた動物たち)>と<出来事>の、正しい<当てはめ方>を、またまた高畠文夫さんの解説から拝借させていただいて、この項を終わりにしたいと思います。
【物語の人物や事件を、実在の人物や国々や具体的事件に対応させてみると次のようになる。】
P.S. 高畠文夫さん、「トウモロコシ畑の子供たち」とかキングの短編集をけっこう訳出されてたんですね。
218.「無常という事」
短編集 佐古純一郎:解説 角川文庫
目次
1.文学と自分
文学と自分
歴史と文学
2.無常という事
当麻
無常という事
平家物語
徒然草
西行
実朝
3.偶像崇拝
梅原龍三郎
光悦と宗達
鉄斎 Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ.Ⅳ.
雪舟
偶像崇拝
4.誤解されっぱなしの美 (対談) 小林秀雄/江藤淳
これはモロ、現国の教科書のっかりで買った本ですね。
また高校時分、「受験によく出る小林秀雄」とか何かしら揶揄されるような調子で取り沙汰されていた評論家でしたね。
他に、和辻哲郎、亀井勝一郎、古いところだと内村鑑三とか。
この辺りのひとは当時の受験生たちには馴染みのあるものだと思います。
ただこれが良かったのか悪かったのか、受験対策で読まれる事はあっても、それ以外で手に取られる事はほとんどなかったような――。
また小林秀雄に関して言うと、同じころ中原中也の「一つのメルヘン」を授業でやっていて、
芸能通(?)の女子たちが休憩時間に話し込んでいました。
「なあ、小林秀雄って、中原中也と恋人を取り合いしてんて」
「(ほん)まにぃ?」
「うそやろ?」
「ほんまやて。お兄ちゃんが言うてたし、本も見せて貰うたんやから」
「せやかて、あんなお爺ちゃんやのに」
「あほ。若い時や」
とか何とか。
私たちが使っていた現代国語の教科書には、掲載した作品のあとに、その著者の小さな顔写真が添えられていました。
中也は例の”牧師(?)”スタイル、小林秀雄は昭和30年代後半のもので、御髪はほぼ白髪でした。
作家や文学者って、長生きすると晩年の写真しか使って貰えないからなあ。
そんな事はともかく。
私個人としては、小林秀雄・流の文章の書き連ね方に、ものの見事にハマってしまいました。
(あとから考えるとこれはちょっとした勘違いなんですけど……。)
まず初っぱなの「文学と自分」から、その冒頭。
「なるほど、政治家が思想とはすなわち政策だと言ってもいちおうもっともなことである。
なぜかと言うと、政治家にとって、思想の価値は、何で定まるかと言えば、それを実生活の上に実施して、成功するかしないかというところで定まるほかはないからであります。」
これはもともと講演で話されたものを文章にしたものですが、ここから見えて来るのは、
「だ・である」調と「です・ます」調の混合体です。
私たちは国語の授業で「だ・である」文と「です・ます」文は明確に使い分けなければならない、と教わりました。
そうしなければ減点もされました。
しかし講演や話し言葉をそのまま文章に起こす場合はその限りではない。
いや状況によっては、音声のあるなしに拘わらず混合体を用いてもかまわない。
と気付かせてくれたのが、講演をもとにした「文学と自分」と次の「歴史と文学」だったのです。
たとえば基本は「です・ます」で書いていて、ある事象を羅列するとき、またはひとつの終着点に向かって短文を畳みかけるように連ねるとき、私は「だ・である」を差し込みます。
これは学生時代からそうしているようで、先にチラと紹介した”レジュメ” の文章にも表れていると思います。
これが邪道というのなら、それでも一向に構いません。
笑わば笑え。
それが私の文章スタイルですので。
ただ講演の文章なら、フロイトでもユングでも良かったのかも知れませんが、たまたま巡り合わせで小林秀雄と先にぶつかってしまいましたから。
それに講演だと気付いたのは、ぶっちゃけかなり後だったので……。
もう一つ『実朝』で、太宰の『右大臣実朝』で知った歌の、感想の書き換えをして頂いたこともありますし――。
なんだかんだ言って、この後も四、五冊、読んじゃうんだよなあ……。