今日は言うよ その2
いやあ、ちょっと寒いのがちょっと緩んできたね。
もう3月だからね。
テレビでは何とかの一つ覚えみたいに「寒い」ってニュースをトップに持ってきたりするけど、
冬寒いのは当たり前だと思うのだが。
それにしてもなんでも高いねえ。
子供の頃に「物価高」とか「狂乱物価」なんて言葉をよく耳にしていたけど、
ここ最近トンと聞かなくなっていたところが、
数年前からまた聞くようになったよね。
近所のスーパーで5袋198円のラーメンを売っていたのがほんの数年前。
それがあれよ、あれよという間にいま250円超えたからね。
値上げはひと息ついた、なんてニュースでやっていたから、やっとか、と思っていたら、値上げ品目が300いくつだって。
どこが「ひと息」だよ!
ほんとに勘弁してほしいよね。
奇怪なのは、値上げするときに企業がお決まりで言うその理由。
「原材料費」と「人件費」の高騰だって。
ちょっと待て。
30年間賃金が上がってなくて、実質賃金が今もって下がり続けているっていうのに、
なんで「人件費」が高騰するんだよ?
なんか知らないけど、テレビは値上げする側のカタばかり持っているし。
やれ、ウクライナでの戦争が原因でなんとかが高くなっているとか。
商店主が悲鳴を上げているとか。
庶民はもっと悲鳴を上げているんだよ。
その「原材料費の高騰」とやらが落ち着いたら、値段、下げるんだろうな。
さて、なんとなく予告していた話。
いやあ、大変なことになったね。
史上2番目の議席数だって。
しかも1番目は戦前の大政翼賛会なんだってさ。
もう実質1党独裁だよね。
選挙前の予想で自民単独過半数の勢いなんて出たとき、
嫌な予感はしていたんだ。
「実際にふたを開けてみなければ、結果は予想通りになるとは限らない」
なんて言うけどさ、
そういう予想が大外れしたケースってあまりないんだよね。
小泉郵政選挙の時も、「自民大勝」という予測が出ていて、
筑紫哲也さんが「冷静になって」と多事争論で呼びかけていたけど、
結局ああ言うことになったもんね。
今回の選挙の翌日は、異様な嫌悪感にさいなまれた。
落ち込むのでもない、カッカと頭に血が上るのでもない。
ただ、ただ気持ち悪い、気味が悪い。
あんなのに入れたやつはどこのどいつだ!!
と正直思わずにはいられなかった。
でもまあ、めったなことを言うもんじゃないからね。
いろいろと結果の分析がなされているけど、個人的に「ああ、なるほど」と思えるものにはいまだ当たっていない。
中には構造的な原因を指摘する向きもあるが、もしそうなら前回の選挙でも自民が大勝しているはず。
現首相が就任以来、だれも思いつかなかったあっと驚く離れ業で庶民の暮らしが劇的に良くなった、
なんてことは起こっていない。
さっきの物価高も、裏金も、統〇教会の件も、何も解決していない。
過半数割れになった当時と状況は何も変わっていない。見方によってはむしろ悪化している。
ちなみに、小泉(父)の時も表向き似たような現象はあった。
ただ、あの時は彼が首相になる何年も前からホープとしてメディアが取り上げるようになっていたし、
「次期首相にしたい政治家」の上位ないしトップに常に名前が上がっていて、
もともと「小泉待望論」は少なくとも一部にはあったんだ。
対して彼女は、郵政民営化のような目玉政策もなく、彼女が国民に人気が高いという話も聞かなかった。
今回首相になるまで「高市待望論」などなかった。
それが首相になったとたんあの支持率でこの選挙結果。
まったく解せない。
まあ、テレビを中心としたメディアが、相も変わらずクズだった、というのはあると個人的には思っている。
就任早々、あの人を持ち上げ続けたでしょ。
やれ、深夜何時まで仕事をしていた、とか
あのぴょんぴょんはねて、トランプに抱き着いたあれを称して「初めての外交を成功させた」とか
流行語大賞が「働いて、働いて…(面倒なので以下略)」って、あんなの流行ったか?
所信表明演説でやじられたって、あんなヤジかわいいもんだよ。
野党時代の自民党のヤジなんてあんなものじゃなかった。
極めつけは台湾有事発言で反発した中国が悪いだって。
そう思う人がいてもいいよ。個人的にはそう思わないけど。
それをメディアが堂々と報じるのは別問題でしょ。
暫定税率がなくなってガソリンの値段が下がったのも高市の功績みたいに報じているし。
その一方でマイナスになることはほとんど報じない。本当はそっちの方が多いのにね。
その前の石破首相の時を思い出してみよ。
やれ座ったまま握手をしたとか、おにぎりの食べ方が汚いとか。
今のような持ち上げ方はされていなかった。
その差はあるよね。
まあこういう結果だからねえ、しようがない部分もあるけど
「野党が悪い」という人に声を大にして言いたい。
アホリベラルというな!
もちろん野党側にも問題はある。
今回の選挙だって、仮に中道に入れようと思ったって、候補者が立っていないんだもん。入れようがない。
責任をとって辞任した前代表のあの人、民主党時代と同じ間違いをやったわけだからね。
でも自民党なんかそれ以上に問題がある。
なんて書いていると、また言うのかね。「左翼」とか「リベラル」とか。
今のこの国に本当の「左翼」がどのくらいいると思っているの?
70年代までは確かに左翼運動が実在していたのかもしれないが、今の時代、そんなのはほぼ絶滅にちかい状態だ。
共産党でさえ「日本で最も穏健な民主主義を標榜する政党」とニューヨーク・タイムズに紹介されている。
朝日新聞が左だって?
そう思うなら今日の朝刊でも広げてみるといい。
中国のニュースをことさら優先的に取り上げているか?
労組関係のニュースがあふれているか?
TBSが「反日」?
笑える。
思い込み、偏見、それに不勉強で周辺諸国といらぬ摩擦を起こしたり、変な法律で人の自由な考えや言論を縛ったりする方がよほど「反日」だと思うけどね。
多くは政権与党のやり方に違和感や疑問を持ち、普通の感覚でおかしいものをおかしいと言っているだけ。
そういう人たちに「左翼」とか「リベラル」とかレッテルを張って排撃しているんでしょ。意にそぐわないという理由でね。
それって、こういう人たちが大好きなどこかの国と同じやり方ではないですか?
1党独裁で、だれも反対も批判もせず。それともああいう体制をお望みか?
よく野党を指して「批判ばかり」という向きがあるが、こんなワンパターンの批判を何十年も続けているのはどっちですかね?
あのさ、この国では、ただでさえ政権与党のやり方に反対できない雰囲気が醸成され続けているんだよ。
遅くとも80年代以降ゆっくりと、でも確実にね。
例えば日曜の朝にやっている「サンデーモーニング」という番組がある。
前任の司会者は、時おり一言二言感想を挟んでいただけなのに、その発言の端々をあげつらっては、ネチネチ攻撃され、結局降板した。
現首相が、女性でがんばっているって?
がんばっている女性議員なら野党にもたくさんいる。
その彼女たちが現首相のような賛美を受けているか?
標的にされた、あるいはされている人たちに共通しているのは、政権与党に批判的か同調的でない点だ。
そして今YouTubeを眺めれば、「高市首相を批判する国民の敵」なんて動画が上がっている。
そう言うのが一番危ないのにね。
90年代初頭にテレビの討論番組のパネリストで、野党攻撃の急先鋒だった人物が今や首相になっているんだ。
そんな中で「アホリベラル」とか言って、考えの似た相手を攻撃してどうするんだって話。
野党をいわば背後から攻撃してどうすんだって話。
権力をふるえない野党を攻撃したって、野党が弱体化あるいは分散化するだけじゃん。
孤立して「現実路線」という転換を図らざるを得なくなるんだよ。
それで得するのはどこかね?
喜ぶのはだれかね?
ふう、疲れた。少し休もう。
今日は言うよ―序章
いやあ、半年以上あいてしまいましたな。
なんとなく書きそびれてしまって。
まあ、だれも読んでいないし、待っている人もいないからいいのだが、やっぱりせっかくスペースがあるんだからね。
この半年いろいろありましたな。
万博とか、選挙とか。
ほんとに大変なことになってしまったね。
これついてはまだ考えがまとまっていないので後日に回すけれど、どうなってんだか…。
おそらくみんな思っていることなんだろうけど、
東京オリンピックやって、大阪で万博やって、中止になったけど、札幌オリンピックまでやろうとしていたんでしょ?
全部一度やっているじゃん。
しかも記録面でも、規模面でもどれ一つとして前回を上回ってない。
だれが言いだしたのかは知らないし、知りたくもないけど、何考えているんだか。
そんなイベントだけなぞってみても高度成長が再来したりはしないんだよ。
しかも今回の万博はカジノの隠れ蓑で、そこには大物政治家の利権が絡んでいるとか。
ああ、いやだいやだ。
某政党べったりで、提灯ニュース以外何も報じないどころか、「万博すごい」「万博楽しい」と叫び続けた関西の放送局もひどかったしね。
いろいろな意味でここまで落ちるか、と実感せざるを得ない半年だったかもしれない。
さて本題。
子供の頃は巨人ファンだった、なんてことを以前口走ったが、本命というか、本当に好きだったのは野球じゃない。
アメリカのプロフットボール。NFLだ。たまたまテレビでNFLフィルムズのゲームハイライトを見て以来、とりこになった。
美しいスタジアム、カラフルかつ勇壮なユニフォーム姿。RBがタックルをはねのけて走るかっこよさ。
QBの投げたボールがきれいなスパイラルで糸を引くようにスーッとレシーバーの手に収まるあの様には、ほかのスポーツにない独特な魅力を感じたのだ。
だがそんな魅力を感じる人はあまりいない、いやほとんどいない、いや全然いない。
今もってそうだが、周囲からは「何が面白いのかわからない」と言われ続けている。
ちょっとゲームを見ていると「またアメフトか」などと言われたりする。
「プレイオフがかかった大事なゲームなんだぞ」と言っても通じない。
まあ、しょうがないけどね。
だいぶ前だが日本におけるアメリカン・フットボールの競技人口は、ラクロスより少ない、という記事を見たことがある。
加えて例の「悪質タックル事件」もあったからね。
あれはモノを知らない当時のメディアのせいで、変な方向へ行ってしまったと個人的には思っている。
それに輪をかけて日本のアメリカン・フットボール協会がまったくの無策だったから、「アメフトは危ない」というステレオタイプが固定されてしまった感がある。
おかげで30年にわたって放送してくれていたNHK-BSが放送をやめてしまうし、唯一残っているG+だって週2試合しか放送がなくなった。
長年のNFLファンとしては迷惑この上ない。それでもまあ、何とか見ているけどね。
ちなみに言っておくが、アメリカン・フットボールは、ガタイの大きい兄ちゃんたちがただぶつかり合っているだけのゲームじゃない。
戦略と戦術を駆使した知的ゲームでもあるのだ。
話がそれた。
フットボールを知らない人にいくら「この選手はすごいんだぞ」とか、「この選手は1試合400ヤードもパスを投げたんだぞ」といっても、何がすごいのかわからない。
そもそもその競技に興味がなく、ルールもわからず、どのチームが強いのか、どういう選手がいるのかも知らない中で、ゲームを長々見せられるのは退屈極まりないのだろう。
だから「またアメフトか」と言われるのだ。
まあ、「アウトサイドラインバッカーのエッジラッシュでクォーターバックにプレッシャーがかかって…」とか「逆ロールアウトのネイキッドのパスで…」なんて聞いたら、知らない人には人間の言葉に聞こえないだろうというのはわかるけどね。
それなら、今やっているオリンピックの大半の種目もそうじゃないの?と思うのだが。
テレビをつけると、ケバくてバカでかい字幕の後ろで、思考停止かこいつと思わずにいられない浮かれ顔のアナウンサーが、
「いやあ、やりました!」とか「歓喜の金メダル」だとか「〇〇選手快挙です!!!」なんて叫んでいる。
その競技を知らないものにとっては、何がどうすごいのかわからないはず。
個人的には今やっている競技にはどれ一つなじみがないし、失礼ながら興味もない。
したがって、どこのだれが勝とうが負けようがどうでもいい。
実際フィギュアスケートを見ていても、どうしてこの選手の点数が〇〇で、この選手の点数が××なのか、つまりどっちがうまいのか、なんて全然わからない。
今でこそ、こういう競技だと知っているが、「大回転」って言われたときは「何するの?」と思ったものだ。
普段見向きもしないのに、オリンピックの時だけ見せられて「すごい」なんて思えるか?
ましてや「感動」なんてするか?
さっきも書いたが、ルールもわからなければ、競技そのものを知らないゲームを長々見せられても退屈でしかないはずなのだ。
にもかかわらず、「ずっと(オリンピックのテレビ中継を)見ていて寝不足だ」とか、「連日楽しみにしている」などという文言が飛び交うのはなぜだろう?
要はその選手のパフォーマンスが優れていたとか言うことはどうでもいいのでしょうな。
知らない種目でも何でもいい。
大事なのは「勝った」ということ。「勝った」というそのことだけ。
「日本人が外国人に勝ったこと」で優越感に浸りたいということか。
だから「やってくれました」という言葉が出てくるのかもしれない。
自分たちは何もしていないし、何もしてもらっていないのにね。
つまらん。
まだそんなことをやっているんだよね。
はっきり言って、早く終わってくれないかなあと思っている。
日本でこんな風に「オリンピック!」「オリンピック!」と騒ぐのはなぜだろう?
64年の東京オリンピック(この間のしょぼいやつじゃないよ)や72年札幌オリンピックの記憶があるからか?
あの頃はよかったなあ、てか。
もうやめるけど、もう一つだけ。
「スポーツの力」などと吹聴する放送局がある。
「スポーツの力」とは何ぞや?
またフットボールの話で恐縮だが、NFLではゲームが終わると、両チームの選手がフィールドになだれ込み、敵味方関係なく握手をしたりハグをしたりしてお互いの健闘を称えあう。
好きな光景の一つだ。
そんなふうに、人種や社会的地位に関係なく、平等・公正なルールの下で力と技を競い合った後は、互いの健闘を称えあう。
スケートで言うならエキシビションかな(ちょっと違うか)?
そういうことなら「スポーツの良さ」なるものがなんとなくわからないでもない。
ところが先日ある番組で、「心を一つにして(また出たよ)、応援できるのがスポーツの力だ」などという文言を耳にした。
「スポーツの力」って、そう言うことなの?
ますますいらない。
ひたむきに白球を追う球児、汗と涙のなんちゃら…勘弁してくれ!
いやあ、暑いですな。
1994年というと、この年生まれた人は今年31歳かな。
あの年は暑かったんですよ。
6月ごろまでは割合涼しくてね。
こちとら暑がりで夏が嫌いだから、今年の夏は涼しいかも、なんて期待していたら7月に入って強烈に暑くなった。
忘れもしない、7月3日だ。
今日は暑いな、なんて思っていたら、午前11時段階で「気温36度」とラジオから流れてきた。
今じゃちっとも驚かないが、当時とすれば、7月初旬でなんだその暑さは!となった。
で、8月になったら、住んでいる地域での話だが(沖縄とか南のほうじゃないよ)、連日最高気温が39度。
日差しが暑いのを通り越して痛かったからね。
結局10月の半ばまで暑かった。しまいには空に向かって怒鳴ったものだ。
「おい、もう10月だぞ!いつまで暑いつもりだ!」
以来毎年夏になると、この94年が自分の中で一つの基準となった。
今年の夏の暑さはこの94年と比べてどうか、というわけだ。
まあ、今のところあんな暑さになったことはあまりない。
少なくとも最高気温が連日39度なんて事態にはなっていない。
とはいえ暑いよね。
この暑いのに今年はとかくスポーツの大会が多い。
トシがばれるので、何歳だったかは言わないが、野球を覚えたのが1974年の秋なので、長嶋の現役時代はほとんど知らない。
まあ、でも王選手はまだ現役だったし、まだまだ「野球と言えば巨人」という時代だったから、ほかの多くの子供の例にもれず巨人ファンの熱狂的な野球少年にはなったけどね。
なので、野球をはじめスポーツそのものが嫌いなのではではない。
でもいつのころからか、野球に限らず(日本の)スポーツ中継を見ていると、うんざりするようになった。
ちなみに巨人ファンは1995年シーズンを最後に廃業し、以後特定のチームのファンにはなっていない。
高校野球にいたっては、もうまともに見なくなってどのくらいになるか、記憶にない。
やめてほしいんだよね、「高校球児」とか声高に言うの。
「球児」って、高校の野球部の部員であり、野球チームの選手だっていうだけじゃん。
なんなのかね、あの気持ち悪い世界。
「ひたむき」に「白球」を追う「純真な」なんちゃらとか。
それこそ「お花畑」的な美辞麗句の飛び交う異様な世界観とストーリーが、どこかで出来上がっていて
それを実際の試合に当てはめて「感動」を作り上げようとしているような。
一歩間違えればくさい茶番劇だ。
数年前たまたまテレビをつけたら、高校野球をやっていて、アナウンサーが絶叫していた。
ただ単にある選手がタイムリーヒットを打っただけですよ。
「努力は裏切らなーい!!」だって。
あのね、「努力」は普通に「裏切り」ますよ。
一生懸命がんばっても結果が出ないことなんてざらにある。
自慢じゃないが、こちとらそんなのは何度も経験済み。
で、「結果は出なかったけどよく頑張ったね」と言ってもらえるケースなんて、ほとんどないのが現実。
だって「努力」なんて人に見せるものじゃないからね。
ほんと、やめたくなったことなんて何度もあった、つーの。
でも、頑張っても結果を出せないような奴が、頑張るのやめたらもっと結果が出ない。
だからそれでも努力するしかないんだよ。
結果が出たやつだけほめそやすんじゃねえ!なんてふと思うことがあるけどね。
おっと、愚痴になってしまった。
でもさ、個人的な体験からすれば、野球部のやつだって、そんな「純粋」で「ひたむき」なやつばかりじゃなかったけどね。
野球というか、「野球部」が花形だった当時は特にそうだった。
野球部なんか、他の部の何倍も予算を取っていたもんね。
野球部員であることを鼻にかけ、先生をはじめ大人には礼儀正しい「球児」のふりをするが、
同級生や下級生にはおうへいな態度をとる鼻持ちならないやつが結構多かった。
高校時代の話だが、廊下で同級生と前日のプロ野球のゲームの話になった。
べつに戦術がどうとか、スイングがどうとか、玄人かぶれの話をしていたわけではない。
「あのピッチャーのボール早かったな」とか「あのホームランすごかったな」とか、たわいもないただの野球談義だ。
そこに野球部のやつが通りかかり「お前らが野球の話をするな」と言って通り過ぎていった。
まあ、そいつにしたら、俺とお前らとでは野球にかける思いが違うんだ、軽々しく野球を語るな、ということなんでしょうな。
いったいいつから野球は野球部の専有物になったんですかね?
野球部に入っていなくても、野球が好きな高校生はいっぱいいるし、甲子園なんか目指さないという野球好きがいてもいい。
まあ、どのスポーツにも言えることだけどね。
変な尾ひれをつけずに普通に楽しめばいいんじゃあないですかね。
で、今年は陸上とかバレーボールとか、なんか国際大会もいくつかあるみたいで。
この国際大会の中継もねえ。
ナチスドイツが、国威発揚にベルリンオリンピックを利用した、というのは有名な話。
べつに今の日本の中継がそうだ、とまで言わないけどね、
「みんなで心を一つにして日本を応援しましょう」なんてあからさまに言われたり、
「日本やってくれました!」とか「日本逆転!」とか、あんなに「日本」「日本」と絶叫されたりすると、
やっぱり気持ち悪いんだよね。
大谷のニュースなんて、連日でしょ。
しかも、その日の彼の成績を単に伝えるんじゃなくて言っているのは「大谷すごい」の連呼。
この間なんか、陸上のやり投げの女性、なんて言ったか、まだ試合結果も出ていないのに「女王」だって。
これって、大谷や、やり投げの彼女をたたえているのではなく、
「大谷すごい」=「日本人すごい」= 「日本すごい」とあおっているように聞こえてならないんだよね。
日本人選手が大リーグでこんなに活躍している、と言いつつ、本当に言いたいのは「だから日本人はすごい」ってことなんじゃないかという気がするんだけど。
わかってる?
日本の優秀な人が、続々と海外にわたっているんだよ。
体のいい才能流出が起こっているんだよ。
変なナショナリズムに酔いしれるより、問題にすべきはそこでしょ。
それにどこを応援しようが見る人の勝手でしょ。
日本人なら日本チームを応援しろって言うわけ?
じゃあ、海外の会場で、地元の人が日本チームを応援するのはおかしいっていうこと?
「やってくれましたあ!」って、いやいや、見るだけのこっちは何もしてもらってないし。
もちろん勝てば「よかったね」と思うし、負ければ「残念だったね」とは思うけど、
勝つときもあれば負けるときもあるのが勝負だからね。
こういう国際大会ってさ、
日本人が外国人を負かしたとかで気持ちよくなるためにやっているのかね?
力道山の時代じゃないんだから。
フジテレビのことなど
いやあ、どうも。
だいぶあいてしまいましたな。
だいたい月1で更新したいと思っているのだが、なかなかうまくいかないね。
まあ、だれも読んでいないだろうから、自分が住んでいる町の気候を中心に言うけど、暑いねえ。
で、近年夏になると、テレビのニュースやワイドショーではこの「暑い」という話を連日トップ項目に持ってくる。
天気の話がトップだって。ほかに伝えるべきことはあるだろうに。
挙げ句の果てには「なぜ高齢者はエアコンを使わないか」だって。
あのね、まだ高齢者じゃないけど、昭和世代として言わせてもらうけどね、
昔はこんなに暑くなかったんだよ。
真夏でも扇風機でなんとかいけたんだ。
子供のころの記憶で言うと、一番暑い時期でも35度になんてめったにならなかった。
数年前にあるラジオ番組で、大ベテランのアナウンサーが、「昔は30度を超えると『今日は暑いねえ!』と言い合ったものだ」と言っていた。
扇風機でなんとかなるものを、わざわざいろんな意味で高いクーラーなんてものに頼るなんざ、金持ちのやる贅沢でしかなかったんだ。
そういう時代を生きてきたものにとって、「エアコンは贅沢品」という感覚はいまだに抜けない。
実際電気代がかかるからね。
なぜエアコンを使わないかって?
高いからだよ。
そんなにエアコンを使わせたいなら、エアコンの電気代だけでもタダにしろっつうの。
そしたら24時間つけっぱなしにしてやるよ。
さて、もと無類のテレビっ子としては、やっぱりフジテレビの問題は気になりますわな。
80年代から現在に至るまで、フジテレビは大嫌い。その番組も放送局としての姿勢も大嫌いである。
よって何十年もフジテレビの番組は見ていない。「北の国から」が最後かな。
80年代以降のフジテレビの番組と言えば、上っ面の見た目は華やかで目を引くけど、中身は軽薄で無責任。
何より気に入らないのはその目線だ。
弱いやつをいじめるのは楽しい、トロいやつをからかうのは面白い、男からすれは女は若くて美人がいいし、女からすれば男は金持ちでイケメンがいい、それが本音じゃないか。
彼らの言う「楽しくなければテレビじゃない」の「楽しい」とはせんじ詰めればそういことだ。
それは勝者の論理であり、傲慢で鼻持ちならない上から目線に他ならない。
なので、こんな形であの放送局が批判の矢面に立たされるのは、正直「メシウマ」な気分だが、同時に遅すぎたとも思う。
テレビがここまで衰退する前にもっと何か手を打つべきだったよね。
今回の問題で、連中反省をしているふりをしていますな。
平謝りに謝って、ほとぼりが過ぎるのを待っているかのような。
しかも「再生」委員会を発足させるって?
その「再生」委員会とやらが何と言ったか。
コンプライアンスの徹底と、人権の保護だって。
やっぱりフジテレビだなと思う。
自分たちの問題を全然わかっていない。単なる「やっていますアピール」なのかね。
フジテレビさんよ、「コンプライアンス」の意味、知ってる?
「法令順守」だよ。
昭和だろうが、令和だろうが、法令を守るなど当たり前、違法行為なんかしたらそもそもアウトだろ。
人権の保護?じゃあ、今まで人権を無視してきたの?
あんたたちの問題はね、弱いものいじめをしないとか、だれに対しても敬意を払うとか、容姿で人を判断しないとか、コンプライアンス以前の人としてのスジや基本的な道徳ができていないことなんだよ。
「楽しくなければテレビじゃない」をやめる?やめてどうするの?
バラエティー番組とは、そもそも今のようなおちゃらけ番組とイコールではなかった。
今も残る「笑点」のような演芸・お笑い番組とは一線を画す独自の存在で、読んで字のごとく、音楽、教養、コメディ、トークといったエンタメの様々な要素を一つの番組にまとめたものだった。
過去にはそうした良質のエンタメを提供する本物のバラエティーが存在していた。
「楽しくなければテレビじゃない」をやめてそういう本来のバラエティーを作れるの?できないよね。
バラエティーを今のようなつまらんものに変質させたのが80年代以降のフジテレビの番組だもんね。
その始まりが「ひょうきん族」じゃないか。
知らない若い人のために、「ひょうきん族」がどういう番組だったかを言っておこう。
例えば、冬のこたつのシーン。テーブルにはおでんがぐつぐつと音を立てている。
その場には出演者が数人いて、見せ場は何かというと、出演者のなかで一番立場の弱い無名の若手一人を数人で押さえつけ、その口にグラグラに煮えたおでんをつっこむ。
そして「熱い!!」とのたうち回るその若手の姿を見てみんなで笑う、というものだ。
冷静に見ればこれはいじめでしかないが、これには仕掛けがあった。
この若手が苦しむ姿にげらげらという笑い声の効果音がかぶせられ、それを見てお腹を抱えて笑うほかの出演者の姿が映し出される。
それによって、このいじめが、あたかも面白い、楽しいものであるかのようなメッセージが伝わるというわけだ。
一部に擁護する人がまだいるけど、あんなものを「おもしろい」と思う感覚から問い直さないで、あんたらの言う「再生」なんてあるんですかね。
「再生」委員会によれば、今後はドラマに力を入れる(朝日新聞)んだって。
トレンディドラマみたいなもんを乱発して、日本のテレビドラマを破壊した放送局がよくも言えたもんだ。
今ちょっと、日本のドラマの悪口を思いつくままに書いてみたら、
驚異的な長文になりそうだったので、やめておくけど、
アイドル女子アナといい、フジテレビがこの国のテレビ文化に残した爪痕は、あまりに深いものがある。
そんなに嫌いなら見なきゃいいじゃん!という声が聞こえてきそうである。
はい、今はほとんど見てません。特に民放はニュースしか見てません。
でもできることならまた見たいというか、見るようになりたいんだよね。
中高年層がなぜいまでもテレビを見ているか?
実はみんな「最近のテレビはつまらん」と言っているんだよ。
先日も、道ですれ違った高齢者の二人が「最近テレビはつまらないね」と話しているのが聞こえた。
それなのになぜ見るか?
テレビが面白かったころを知っているからだ。
毎日ワクワクしながらテレビをつけて、お腹が痛くなるくらい笑って、時間があっという間に過ぎて。
楽しかったよ。今のSNSにはない楽しさだった。
あの楽しさを覚えているからついつけちゃうんだし、だから今のテレビが悲しくて腹も立つし、ひとこと言ってやりたくもなるんだよね。
だれも言わないから言うけど、
遅くとも80年代初頭を境にテレビは変質したんだ。
それまで庶民目線、力を持たないものの目線で社会をどうよくしていくか、この国の問題は何かを問いかける存在だったテレビが、
80年代以降、ある程度余裕のある、経済的に不安のない者たちの目線で、「豊かさ」のなか、自分たちがいかに幸せになるか、いかに「夢」をつかむか、社会は変革すべきものではなく、所与として受け入れるべきものであり、幸せでないとすれば、個々人が社会に合わせて変わるべきなんだとうそぶくようになったんだ。
テレビがつまらなくなった決定的な原因がこの目線の変化にある。
このころ、フジテレビを中心にトレンディドラマなどで盛んに言われていたことがこれ。
夢をあきらめるな
好きな仕事をして何が悪いの?
ちなみに「夢を持つな」とか「夢をあきらめろ」と当時の大人たちが若者に迫った、などという事実はないし、「夢なんか持つものじゃないよね」なんて風潮が若者の間で支配的だったわけでもない。
なので、「夢をあきらめるな」とは何に対するアンチテーゼでもない。
もっといえば、「夢をあきらめるな」と言われても、様々な事情からあきらめざるを得なかった人が大勢いるわけで、この時代のドラマはそういう現実には目を向けない。
同様に、「好きな仕事をするな」とか「あなたはこんな仕事をしてはいけません」などという価値観や風潮が当時の社会にあったわけではなく、これもいったい誰に向かって言っていたのかわからない。
長くなったね。今回はこの辺でやめておこう。
マスゴミと言うな!は正しい。だけどね…
いやいや、年が明けましたな。
正月のテレビの視聴率が、壊滅的に低いのだそうで、まあ、確かにつまらんですな。
「孤独のグルメ」が人気だからって、年末の朝6時前からお昼まで、年明けにまた朝6時半から夕方までって…。
「ポツンと一軒家」(個人的にはそんなに面白いとは思わないのだが)をこれまた早朝から夕方まで、ぶっ通しでとか。
衝撃映像なんちゃらって、何回やるのよ、ってくらい毎年各局でやるし、「警察24時」なんて30年前からやっていた気がする。
そりゃ「お前ら、あのなあ!」と放送局にいいたくもなりますわな。
子供の頃から正月番組というのはやっていて、まあ、実のところあれもたいして面白いとは思わなかったけどね。
早く通常番組に戻らないかなあ、なんて思ったものだが、今のテレビのつまらなさは、そういうのとは違う。当時とはレベルというか、次元の違うつまらなさだ。
12月といえば、忠臣蔵とかクリスマスとか、昔はいろいろ取り上げていたのに、驚くほど何もやらないもんね。
別にだれにいうわけではありませんが、クリスマスソングといえば、山下達郎とか松任谷由実とか、今どきの何とかいう人の曲ばかりをいっていたら、そのうち笑われますよ。
有名な讃美歌やスタンダードナンバーくらいは、だれかのファンじゃなくても教養として知っておこうね。
昔は歌番組や、それこそ「全員集合」でもちゃんと取り上げていて、そういう番組で「こういう歌もあるんだ」と知ったものなんだよね。
そんなのも全然やらなくってもう久しい。
こりゃテレビ離れが止まらないわけですな。
で、こんな風にテレビがつまらん、と多くの人が思うようになった中で、去年は「オールドメディア」なる言葉がはやりましたな。
こちとらXもFacebookもインスタグラムも、アカウントは持っているが、ほとんど使っていない。tiktok(スペル、これでよかったっけ?) に至っては、アカウントもとっていない。
正直あんまり使えるとは思わないんだよね、どれも。
あんな限られた文字数や、限られた時間で、ちゃんと内容が把握できる/伝えられるとは思わないし、自分の写真を世界中にさらして何が楽しいのかさっぱりわからない。
カメラの前で自分が踊る姿をネットに流すのがそんなに楽しいか?とどうしても思ってしまうんだよね。
だが世の中には、こういうものを毎日チェックして、そればかり見ている人がいるらしい。まさに依存状態といえるほどに。
既存のテレビ、新聞などを「オールドメディア」だ「マスゴミ」だと、批判したのはこういう人たちだそうだ。
まあねえ、「ネットの情報はウソが多い」なんていわれれば、「じゃあ、お前らはどうなんだよ!」といいたくもなる気持ちもわからなくもない。
最も、「オールドメディア」と批判している相手が、実はネットメディアだったとか、聞いていると「いや、いや、いや」といいたくなるようなこと、よく調べもせずに頭から決めつけているものなどもあって、「もう少し勉強したほうがいいよ」といいたくなるものもあるが。
この「マスゴミ」という呼び名には、「オールドメディア」陣営の人は相当不快感を持っているようだ。
いわく、そんな風にメディアを攻撃するのは危険だと。
この主張自体には賛成。
メディアというかジャーナリズムが、民主主義の守護者として機能するためには、市民というか視聴者というか読者というかとの連帯が必要で、市民の支えがあればこそメディアは権力と対抗できる。
両者が「分断」されれば、メディアは孤立し、権力の思うままになりかねない。
なので、連帯を求めこそすれ、「マスゴミ」などとメディアを攻撃して、市民とメディアとの溝が広がれば、喜ぶのはいわゆる権力者、国や社会を意のままにしようとする者たちである。
それはそうなのだが、ただね。
あ、言い忘れた。
メディアに「オールド」も「ニュー」もないと個人的は思う。ネットにあがるニュースの元ネタは、たいてい既存のテレビや新聞のニュースだし、エンタメやスポーツの情報も、結局既存のメディアの内容に依存している場合が多い。人を「オールド」と揶揄できるほど、ネットメディアはまだ発達しきっていない面が多々ある。少なくとも「オールドメディアの終焉」などいうのは早急に過ぎるだろう。
で、安易なメディア攻撃は危険、それはそうなんだけどね。
最初にも書いた通り、こんな連中と連帯しようという気にはなれないんだよね。
とりわけ、80年代から90年代にかけて、テレビを中心にメディアのおごりは、すさまじいものがあった。
既存メディアの問題は、今に始まった話ではない。
写真週刊誌や芸能ワイドショーなど、80年代初頭からメディアはいろいろと問題を抱えていた。
傍若無人というか、個人を寄ってたかって攻撃するかのような姿勢に批判の声は当時からあった。
だが彼らはそんな声を鼻で笑っていた。
「視聴者が望むから放送するんだ。気に入らなければ見なければいい」と。
そもそも、テレビ番組は、視聴者の注文を受けて制作されるのではない。放送局が(実際は制作会社やらデンツウやらスポンサーやら、その他いろいろ絡んでいるのは知っているが、面倒なので「放送局」で統一しておく)、自らの判断で番組の制作を決め、視聴者の都合とは関係なく、番組を送りつけてくる。見る側はそれに反応するしかない。
逆にいえば、視聴者がいくら望んでも、放送局が「放送しない」と決めれば見ることはできない。
つまり、主導権は放送局側にあるわけで、「視聴者が望むから」などというのは、責任転嫁もはなはだしい。
「見なければいい」というのは、一見正論そうだが、見てもらってなんぼの放送局が、「嫌なら見るな」ということ自体、おごりの最たるものだろう。
「毎月この程度の金額で、ちゃんとした情報をもらおうなんていうのがおこがましいんだよ」とうそぶく記者。
「視聴者が!」と吐き捨てるようにいったテレビ局のディレクター。
どちらも実際に聞いた声である。
自分たちの告知ミスを棚に上げて、間違えて電話してきたリスナーをあしざまに批判したあげく、番組の最後にも「あれはひどいね」と、とどめを刺すラジオ番組。
新人いじめを自慢げに話すアナウンサー。
おざなりのリサーチで不正確な情報、きっちりした構成もせず、出演者頼みのいい加減な番組しか流さない。
それで批判されれば「嫌なら見るな」とうそぶき、自分たちが問題を起こせば、やれ「予算不足」だの「人手不足」だのと自己弁護に終始する。
連中は否定するが、あの頃の番組を見ていると、視聴者を見下した姿勢が見えたんだよね。
そのくせ政治権力には忖度するどころか、ときに政権与党に都合のいい情報操作の片棒担ぎまでする。
そんなものを長年見せられて、信頼しようなんて思いますか?
テレビ離れが進んで、視聴率がゴールデンタイムでもひとケタに落ち込む昨今でさえ、冒頭に書いたようことをまだやっている。
とてもじゃないけど応援する気にはなれない。むしろテレビ好き(だった人)であればあるほど、そう思うのではないかね。
「マスゴミというな」という人たちいわく
いや、既存メディアでもがんばっている人はいますよ。この間のドキュメンタリーなんか、よくあそこまで取材したと思いました。
確かにそう。
先日のNHKの、下山事件を題材にしたドラマは見ごたえがあった。
傲慢を極めた80年代のNHKのキャスターにも、人望を集めた人格者がいた。
ただし、そんなのは少数。
信頼をすっかり失ったものが、たまにいいことをしたところで、それで信頼回復となるか、という話。
いわく
頑張っているマスコミの人は応援してあげてくれよ。批判されまくってつらい思いをしているんだから。
そんなの知らない。
本来連帯すべき視聴者に対して、長年横柄な態度をとり続け、一方で、強いものにはへいこらしてきた結果、見放されたのはそっちでしょう。
この期に及んでまだ被害者面かね。
じゃあ、どうすればいいか。
実現可能性は別にして、まず真摯に反省。
それから原点に返ることでしょうな。
まずYouTubeのあの多様性に、テレビが対抗するのは無理。この先ライブ配信が盛んになれば、速報性でも負けるだろう。
ただ、例えば「全員集合」のような番組は、YouTubeにはできない。「夢で逢いましょう」でもかなり難しいだろう。
70年代までテレビが普通にやっていたように、庶民目線でちゃんとした番組をちゃんと作る、そうしたテレビの原点に戻って良質な放送をし続けるしかないんじゃないですかね。
いってみれば、必要なのは「新しいテレビ」ではなく「古いテレビ」なんじゃないですか。
まあ、そうはならないだろうけど。
うーん…これじゃない「シン・仮面ライダー」
実は「仮面ライダー」のほうがガチ世代である。
70年代当時の子供界隈では、ウルトラマン派と仮面ライダー派に分かれていた、とはよく聞く話だが、実体的には仮面ライダー派のほうが圧倒的に優勢だった。教室では変身ポーズがどうだとか、怪人がどうだとかいった話題で持ちきりになることが多く、「ウルトラマン」を見ているなんてわかると、「お前まだそんなもん見ているのかよ!!」と蔑みの口調でよく言われたものだ。まあ、大人になってみれば、どっちもたいして変わらないのだが、当時「ウルトラマン」を見ているやつはガキ、もしくは時代遅れとみなす輩が少なからずいて、ウルトラマン派としては、かなり疎外感を味わったものである。
まあ、そんなライダー派の連中も、おそらくウルトラマンを毎週見ていたことだろう。こっちもウルトラマン派だからといって、「仮面ライダーなんか見るものか」とそっぽを向いたわけではもちろんない。毎週土曜7時の放送は欠かさず見ていたし、そのあとは「お笑い頭の体操」(のち「クイズダービー」)、「全員集合」、そして「キーハンター」(のち「Gメン75」)と、6時ごろから見ていたことを考えると4時間になるのだが、あっという間に時間が過ぎた感覚だった。
何を言っているかというと、「シン・仮面ライダー」の話である。またまた遅まきながら見たのだが、「なんかつまらないなあ」と思わず声に出た。ある動画で、本作を100点満点中80~85点と評していたが、とてもそんな高得点はあげられない。まあ、大甘で35点~40点くらい。合格点には程遠い。
ウルトラマンが、見たことのない世界に触れることで子供が「すげえ!」と思うワクワク感だとすれば、仮面ライダーは、並みいる敵を一人でバッタバッタとやっつける、伝統的なチャンバラの痛快さだ。
「ライダー」が全国的に人気になったのは、2号になってからだ。旧1号時代もチャンバラ活劇的要素はあったが、どちらかというと、暗い画面が多く、ホラー的な要素が濃くて、どちらかと言えばマニア受けしそうな雰囲気の作品だった。
それが2号になってから、ホラー色が極力薄まり、痛快活劇としての要素が強まった。なので「シン・仮面ライダー」も、そのチャンバラ的な面白さをどこまで再現できているのか、と思っていた。もちろんできていない。戦闘シーンに全然痛快さがないし、そもそも戦闘員相手のバトルが少なすぎる。
チャンバラ的といったが、刀で切られたら血が出るだろう、とばかりに、切られたものがいちいち出血する演出が、いくつかの時代劇映画でなされたことがある。だが、あまりに生々しかったからか、そうした演出はあまり普及しなかった。本作も同じで、戦闘シーンにあんな生々しい演出が必要だったか。ライダーが一人で多人数をやっつける、そのアイコンとして戦闘員がいるのだから、こんなところでリアルさを求めると、痛快さがなくなってしまうだろう。
仮面ライダーのショッカー名なんちゃら、というこのシリーズ定番のいらないディテールはいいとして、変身もあれでいいのかなあ、と。「ライダー」における変身場面は、ライダーキックと並んで最大の見せ場のひとつ。なのに実にかっこ悪い。だってあの変身ポーズを、1号も2号もやらないじゃん!!何よりライダーに変身した状態でマスクをとるなっ!つーの。「変身」なんだから、別の体になっているわけで、マスクをとって人間の顔が出るのは興覚め以外の何物でもない。
こうもり男のところも違うよなあ。ライダーにウイルスがきかないとわかったところで、戦闘員とバトルでしょ。こうもり男が飛んで逃げるのはそのあとではないかと。飛んで逃げるこうもり男のセリフ、「君のジャンプ力は66.xxメートル」云々。また出たという感じ。こんなの「どうだ、追いつけまい!」でいい。何?ライダーの強さの秘密はヘルメットにあるだって?「破裏拳ポリマー」か。
いや、「破裏拳ポリマー」のアクションシーンは一級品だ。あれを実写で再現できるなら、むしろ立派、大したものである。あ、念のために、ここで話題にしている「ポリマー」とは、70年代のアニメのほうですよ。何年か前の実写映画のほうではありません。あれはひどかった。まあ、あれよりできが悪かったら、それこそどうしようもない。ちなみに、ライダーの強さの秘密、というかパワーの源は、ヘルメットではなくベルトのタイフーンだと思ったが。
これは純粋に個人的好みになるが、なんであそこに「K」がいるかなあと。「ロボット刑事」は、子供の頃好きでよく見ていた番組だったので、「K」をあんなショッカーの幹部みたいな使い方はしてほしくなかった。どうせならライダーを助けるほうにしてほしかった。ついでに言えば、「K」は人間以上に正義感が強く、やさしいナイスガイで、あんな斜に構えた慇懃無礼なやつじゃない。
ラスボスが「イチロー」だって。「キカイダー01」か。ちなみにキカイダー世代からすると、「イチロー」といえば野球選手ではなく、「キカイダー01」である。それはともかく、それでラスボスの姿がV3そっくりというのも個人的には「ウーン」。「K」同様、なんで悪役にするのさ、と思わずにはいられない。
ストーリーも相変わらず雑だ。一番引っかかったのが、小ネタ的に挿入された、長澤まさみ演じる怪人の軍団が、「おやっさん」ではないタチバナの送り込んだ特殊部隊(なのか?)に壊滅させられたシーン。おかしいでしょ?通常人間が使う武器で倒せて、政府機関が送り込んだ部隊で軍団を掃討できるのなら、仮面ライダーは必要ないことになる。通常の武器で、人間が束なってもかなわないからショッカーの怪人は「怖い」のであって、それをパンチやキックで、しかも一人やっつけるから「仮面ライダー」は「すごい」のだ。
ウルトラマンでもそうだが、もと作で登場人物は、政府や国家とは関係のない、あるいは独立した立場で動いている。おそらく意図的にそうされたのではないかと思うのだが、ほかの「シン」作品同様、本作でも何かというと政府機関が出しゃばって来る。役人二人の名前がタチバナとタキと聞いたときは思わず苦笑したが、結局このライダーも、ウルトラマンにおけるカトク隊(面倒なので漢字にはしない)同様、政府の下に入る。ラストシーン、一文字隼人が、「新しいスーツをくれ」と言って、新1号になるところは正直ぶっ飛んだ。ライダーの姿は「変身」ではなくて、政府支給の「スーツ」と「ヘルメット」だって!!!じゃあ、サイクロンも税金で作ったってこと?こういう夢を壊すようなことはやめてくれないかなあと思う。
もと作初期のホラー的なおどろおどろしさが残って、最大の魅力だったアクション活劇の痛快さが消え、それに制作者独特の変な理屈っぽさが加わって、全体的に「これじゃない作品」になってしまっている。エンディングで懐かしい「レッツゴーライダーキック」が流れても、気休めにしかならない。作中のライダーが全然かっこよくなかったので、乗れないのだ。
この人の世界観は、少なくとも自分とは合わない。
予想を上回るつまらなさ「ゴジラ-1.0」
いやあ、ここまでひどいとは。「ゴジラ-1.0」を見た直後の正直な感想。
「アカデミー賞を取った」とメディアがバカ騒ぎをしていたので、もう少しまともかと思っていたが。
「アカデミー賞を取った」って、「特殊効果賞」でしょ?要するに「特撮はよかったよね」と言われただけで、映画全体が評価されたわけではない。
この作品、もとから「特撮はいいが、ドラマの部分はねえ…」という声を聞いていたので、そのあたりは割り引いてみたのだが、その特撮の時間、ゴジラの出てくる時間の短いこと。多分「シン・ゴジラ」よりも短いのではないか?
まず冒頭からして変だ。特攻を逃げて飛行機の故障を装い、大戸島に降り立った主人公。まあ、これはいい。
で、その夜ゴジラに遭遇。整備兵の隊長に戦闘機の搭載の機関銃でゴジラを撃てと言われたが、主人公は怖くて引き金を引けず、多くの整備兵がゴジラの犠牲になった。
問題はここから。
この整備兵の隊長は、主人公に「引き金を引かなかったお前のせいだ」となじるのだが、
いやいや、仮に主人公が引き金を引いたところでゴジラを倒すことなんできませんでしたよ。
それどころか、止めることでもできなかっただろう。
機銃掃射程度で倒せる相手ならだれも苦労はしない。
意味不明の理由で詰め寄るほうも詰め寄るほうなら、言われて悩むほうも悩むほうで、しかもこの話が全編にオーバーラップするから最後まで違和感が解消されない。
次に時代背景を戦後すぐとしたのはやはり無謀だった。
全面武装解除されて軍隊もない当時の日本。軍艦2隻を返還されただけの民間ボランティアでゴジラに立ち向かうという設定はさすがにちょっと無理がある。
これは個人的な感想にすぎないが、そもそも、当時連合国は、日本の再軍備を恐れていたから、日本に武器を持たせるなんてしたかなあと。
加えて、当時のアメリカは得意の絶頂で、世界最強を自負していたから、ゴジラにアメリカ本土へ来られても困るという意味も含めて、おそらくゴジラ退治には、米軍が前面に出てきたはずで、負けたお前らは引っ込んでいろ、とばかりに日本の出る幕はなかったのではないだろうか。
で、その米軍も歯が立たなくて、さあどうする、となって、実は戦時中、形勢逆転を狙ってひそかに日本軍が開発していた秘密の兵器があった、そんな流れなのならいいかもしれないが、残念ながらそうはなっていない。
戦争の傷もまだ癒えず、食糧事情も悪い中、今度はゴジラに襲われたら、庶民はどう感じたろう?すっかり疲れ果て、逃げる気力さえなくす人も多いのではないか。「シン・ゴジラ」同様、本作には、そうした庶民の姿が、驚くほど描けていない。
では何を描いているのかというと、恋愛メロドラマ。それも実に古臭くて安っぽい。しかも最悪なのは、この安っぽいメロドラマが、作品の中心に流れていることだ。
例えば1954年の「ゴジラ」第一作では、物語の中心はゴジラで、ゴジラが何をして、そのゴジラをどうするという形で物語が展開されていくのだが、本作はそうなっていない。このメロドラマを補完する一要素としてしかゴジラは機能していない。
はっきり言ってしまえば、この映画はもはや怪獣映画ではない。
「怖いゴジラ」にしようとしすぎたのか、ゴジラを生き物でではなく、得体のしれない化け物のように描いているのも気に入らないし、細かな突っ込みを入れていたらきりがないが、全体としては失敗作といってよく、唯一の救いが特撮だった、というの実情のようだ。
それでもこの映画が好きだというのなら、それはそれでいいが、正直理解できない。
とあるサイトで、本作を酷評した記事に対するコメントに「映画をあまり見ない人なんですね」というのがあった。そのコメントはそのまま返したい。
古今東西の名作に接して感動したことのある人なら、この作品の違和感はわかるのではないかと個人的には思う。
「シン」のシリーズを作ったスタッフが今度は「ヤマト」を作るらしい。
ヤマトなら、もうちゃんとしたリメーク版があるのに、なぜ「シン・ヤマト」?と思わなくもないが、実は「ヤマトに行ってくれたか」と正直ほっとしている。
ゴジラ、ウルトラシリーズ、仮面ライダー。子供の頃に夢中になったものをもうこれ以上壊してもらいたくない。
24時間テレビ―昔はあんなんじゃあなかったんだよ
いやいや、少なくとも月1で何か書こうと思っていたが、なかなかうまくいかないものですな。
まあ、だれも読んでいないのだから、適当にやっておけばいいのかもしれないが、最低限、自分が書きたいと思った内容をきちんと書いておきたいんだよね。
だからネタがないわけではない。「シン仮面ライダー」もみたからね。そのうちなんか書こうとは思っている(褒めないよ)。
ただ、いざやりだすと「これちょっとちがうな」と書いちゃ消し、なんてことを気がつくとやっている。
で、時間ばかり食って「別にいいか。だれに読ませるわけでもないんだし」となる。
暇を持て余しているというわけでもないしね。
とまあ、グダグダ話はこのくらいにして本題に入ろう。
昨日・今日とやっていましたね。「24時間テレビ」。
巷いろいろ批判されているが、確かに今のあの番組は見るに値しない。
しかも番組を作っている連中に何の反省もない。ハンデを抱えた人に何か挑戦させて「偉い、よく頑張った!」って、こういうのはダメだってさんざん言われているのに、まだ同じことをやっている。
そもそもあの「マラソン」に何の意味があるのか、さっぱりわからない。
本当に走っているかどうかわからんが、陸上経験もない、マラソン好きでもないタレントが、チンタラ走るというか歩いて見せるのと、チャリティや社会福祉とがどう結びつくのか、どう考えてもわからない。
日頃訓練を積んでいる本職のマラソンランナーだって、真夏にフルマラソンを走ればへとへとにもなるだろう。ましてやその倍以上の距離を素人が走るとなれば、最後はボロボロになるに決まっている。そうしなければならない必然的な理由もなく、そんな環境を意図的に作って、「がんばる」とか「感動」って何かおかしくないか?
あのドラマも本当にひどかったね。
大半がナレーションで、ほとんど再現ドラマに近い。実際の映像をリアルタイムで見てきたものからすると、「こんなんじゃなかったよ」と突っ込みを入れたくなるとことが多々あった。
近年この番組内のドラマは低質なものを乱発しているが、モデルが番組の功労者なだけに、もうちょっとまともなものを作るかと思っていたものの、今回も相変わらずだったね。
夜中のあれも何なんだ?ジャニタレを集められなくなったらオリンピックのメダリスト?今のテレビ局のやつらは、本当にどうしようもないな。
などと悪口を書き出したらきりがない。
ただね。
第1回の「24時間テレビ」を見たものとして言いたいのは、もともとはこんなんじゃあなかったんですよ、ということ。
1978年に放送されたこの番組は、それこそ斬新で、面白くて、考えさせられて、そして感動的な、見たものの記憶に長く残るような番組だったんですよ。
まず、当時のテレビはというと、NHKは午前0時に放送が終わってしまうのが当たり前で、ラジオも同様に午前0時になると「君が代」が流れて放送は終了となった。
民放テレビも、午前2時台にはほぼ全局で放送が終わって、翌日の放送が始まるのは大体午前6時。それまでは世に言う「砂嵐」の画面になる、というのが当たり前だった。
そんななか、普通は放送をやっていない時間も番組をやっている、24時間、画面に番組が流れているというのは、それだけで新鮮だったのだ。
昨日の番組は萩本欽一氏を第1回の「総合司会」と言っていたが、違います。
総合司会は大橋巨泉氏と竹下景子氏。萩本氏は寄せられたメッセージを読んだり、外に出て番宣と募金の呼びかけなどをしたりする役割だった。
そして当時と今が決定的に違うこと。それは「感動」を売り物にしていなかった。つまり視聴者に「感動」させることを前提にしていないこと。
24時間ぶっ通しでやるって、どんな番組だろう。そう思って見始めた最初に大橋巨泉氏はこういった。「弱い人のためにテレビが何を出てきるか、考えたらこういう番組になりました」。
番組自体、見ていて楽しかった。オープニングの「グランドプロローグショー」は、今みたいなグダグダのカラオケ大会ではなく、ちゃんと構成されたショーになっていたし、深夜にはタモリが出てきて、これまた楽しいショーを展開した。
番組全体を通して、北欧と日本の高齢者の生活の違いであるとか、あるいは独裁国家での人権侵害の実態などを映し出して、「世の中には苦しんでいる人が大勢いる。そういう人たちのためにみんなで何かしよう」というメッセージがしっかり伝わってきた。
だから「弱い人のために」という一環で、寝たきりの高齢者に「巡回お風呂カー」をみんなで贈ろう、と募金を募ったわけだ。
メッセージが明確で、内容に説得力があり、募金の使用目的も明確。だから、賛同者も多くなる。
多額の募金が集まり、お小遣いを募金する、といった子供のメッセージや自身が障害を持つという人からの募金が紹介される。
ここで初めて「感動」という感情がおこった。
「感動」というのは真面目な番組作りの副産物、というと言葉が悪いなら、ご褒美なのだ。
ご褒美目当てに何かやってろくなことになった例はない。
今の制作者連中は24時間テレビ=感動何て言う図式を勝手に作って、「感動」を無理やり作ろうとしているのだろう。
まあ、このままいけば早晩「24時間テレビ」は誰も見なくなって、なくなるでしょうな。
しかもこの番組の場合「原点に返れ」といってもたぶんできない。
なぜなら、第1回のような番組を作ろうと思えば、政府批判をせざるを得ないから。70年代当時のテレビは普通にやっていた。
今のテレビ局の連中、ましてや日本テレビの連中にそんなガッツなどありえまい。
そもそも、あのマラソンの前に「愛の歌声は地球を救う」と称してカラオケ大会をはじめたところからおかしかったよね。
またこうやって、面白かったテレビが過去のものになっていくのかね。
昭和は輝いていた…か?
最近、でもないが、メディアでよく「バブルの頃はみな浮かれていた」という文言を見聞きする。バブルを知っている世代の人間としてひとこと言っておく。「みな浮かれて」いたわけでは決してない。当時景気が良かったのは、金融、証券、不動産、それにマスコミなど一部の職種、一部の人間だけで、多くの庶民は普通の暮らしをしていた。
ちなみに「ジュリアナ東京」というディスコで、扇子を持っておどる若い女性がニュースで取り上げられたのは91年以降で、バブルがはじけた後のこと。バブルと結びつけるのは間違いである。
歴史はこうやってゆがめられてゆくのだなと思う。80年代、若者は「竹の子族」と言われて、日曜日のたびに集まってダンスに興じた、など言われることがある。だがそんなのは東京の一部の若者に過ぎず、多くの若者は普通に暮らしていたし、同じ80年代になんとかいうファッション(ハマトラだったかな?)が、大学生の間ではやったというが、自分自身はもちろんそんなものを着たことはおろか見たこともなかったし、まわりでもそんな服装をしている連中などいなかった。
これまたちなみに、80年代はこんな携帯電話を使っていたと称して、トランシーバー(これももう若い人は知らないのかなあ)みたいなしろものを、肩から下げている写真を紹介する番組を時々見かけるが、これもほぼ嘘である。
当時確かに「移動中でも電話をかけることができる」と、そういう電話がニュースで取り上げられたことはあった。だが、本体価格も通話料も高額で、普通の電話があるのにそんな高い金を出してまで使おうという人は多くなく、一般にはほとんど普及しなかった。自身、当時町であれを使っている人など見たことはなかったし、第一、道であんなものを肩から下げ、アンテナを長く伸ばして電話されたら邪魔でしようがない。正直、今の携帯が世に出たときも、またそっぽを向かれて、いつの間にか消えていくんだろうとひそかに思っていたくらいである。
あと、動画を見ていると、「今では絶対できない昭和のテレビ」などといった文言がとかく目に入るが、「なんで今は無理なの?」と不思議でならない。
昨夜たまたまテレビをつけたら「ラグナクリムゾン」なるアニメを放送していた。まあ、漫画が原作なのは言わずもがなだが、正直このアニメも原作も全く知らない。ストーリーも登場人物の関係性も全然わからない。予備知識なしで偶然当たった形だが、血が噴き出すわ、人体が二つに切り裂かれるわ、首が飛ぶわ、これでもかという暴力シーンの連発で、「おもしろいと」とか何とかいう前に、あっけにとられた。
作品の作者様、およびファンの諸氏には申し訳ない。本作をけなすつもりはない。言いたいのは、これだけの暴力描写が地上波で放送できて、「今じゃ放送できないもの」って何?ということだ。さしずめ「お色気」のことか。
若い層は驚くかもしれないが、ネットはおろか、BSもCSもなく、地上波だけの頃は、昼のワイドショーで女性の裸のバストが大写しになることがあったし、ドラマでも性描写や銭湯の女湯のシーンなどが普通に放送されていた。「今のテレビはほとんどポルノだ」という声をきいたのは確かだ。
だが毎日そんな場面が流れていたわけではなく、基本年に数回程度だったし、描写への規制そのものは当時のほうがはるかに厳しかった。
別に統計を調べたわけではなく、個人的な印象だが、「ギルガメ」や「ロバ耳」などのお色気番組や、2時間ドラマでの「お色気」シーンが多くなったのは、90年代以降である(80年代もなかったわけではないが)。
なので、それを今やってはいけない、ということはないはずだ。CSの有料チャンネルではアダルトビデオを見せるチャンネルがある。法律か何かでお色気番組をやってはいけないのなら、CSでもやってはいけないはずだ。
実はこれには経緯があって、1998年に風俗営業法が大幅改正された際、テレビのお色気番組が、この新風営法に引っかかる可能性があると、まことしやかにささやかれたのだ。それで青くなったテレビ局は、いっせいにお色気番組から撤退し、そして大方アメリカのFCCの真似をしてどこどこを見せちゃいけない的な基準を作ったのだろう。少なくとも、別にどこかの団体が抗議したからでも、BPOが指摘したからでもない。まあ、当時まだBPOはなかったが。
政治権力や経済権力その他の圧力や番組の低俗批判は当時からあったし、放送法の「不偏不党」原則も当時からあった。芸能ワイドショーへの批判もあったが、放送局側は鼻で笑っていた。「嫌なら見なければいい」と。
まあ、テレビ離れがこのまま進んで、スポンサーが離れていけば、いよいよ大変になったどこかの放送局が、背に腹は代えられないとばかりに「批判を覚悟であえて復活」などと称して以前のようなお色気番組を復活させるだろうと個人的には思っているが。
「昭和のあの頃はよかった」という書き込みを見ると、昭和生まれとしては反射的に共感したくなる。だが冷静に考えると本当にそうか?とも思う。
例えば―
昭和はおおらかで優しい時代だった。いやー、結構ギスギスしていたぞ。少なくとも今よりはるかに暴力的で、差別的で、今なら大問題となるようないじめが普通に横行していた。かくいう自分自身、思い出したくもない嫌な思い出がいくつもある。
昭和は皆が希望に満ちていた。まあ、今のような閉塞感はなかったかもしれないが、希望に満ちていたかどうかは疑問かなと。最近かなり怪しくなってきたが、これはこの国が「豊か」になり、「経済大国」になったという後の歴史を知っている後世の人間から見た話のような気がする。当時の人々にとって、この先どうなるかなどわらなかったわけで、おそらく多くの人は、現在のわれわれと同じように今を懸命に生きていただけだったのではないだろうか。
悪いことは忘れ、いいことだけを覚えているなんとかいうバイアスもあるだろう。加えて自分のことを思ってもそうだが、大人になってから味わうしんどさ、つらさをまだ知らない子供時代や学生時代を過ごしたのが昭和であり、だからこそ懐かしく思えるのかもしれない。
過去に学ぶことは大切だが、過去そのものは戻ってこないし、過去に戻ることもできない。また過去に戻すこともできない。いい思い出は大切にしつつ、前に進んで行くしかないのだろう。
ただ、こうしたバイアスを割り引いても、テレビはあの頃のほうが面白かったと個人的には思う。
今の若者世代も20年後、30年後には言っているのだろうか、「平成時代はよかったなあ」と。
ウルトラマンタロウ論で遊ぶ
ウルトラマンタロウってどう思う?
もちろんどう思ってもいい。好きなら好きで全然かまわない。とはいえ、本作をめぐっては妙な論争があるので、ちょっとタロウ論で遊んでみたい。
ウルトラマンタロウは子供時代に初回放送をリアルタイムでみていたが、面白いと思ったことはなかった。
というより「タロウ」というネーミングが引っかかって、物語に入り込めない。
M78星雲から来た宇宙人が「タロウ」って…。
しかもなぜ「タロウ」なのか、なぜこの宇宙人が(よりにもよって)「タロウ」と呼ばれるに至ったのか、劇中には何の説明もない。
まあ、「ウルトラマン」だって「ウルトラセブン」だって地球の言葉なんだから、宇宙人がそんな名前なんておかしいと言えばおかしいのだが、そんなことを言っていたら、特撮ヒーローものなんて作れない。
それに子供には「マン」とか「セブン」とか「エース」といった英語表記は異世界の言葉に響く。
だが「タロウ」は日本語だ。ウルトラマンが「タロウ」っておかしいだろう、という違和感は子供でもわかる。
大人になって「タロウ」を数話見直したことがあったが、やっぱりひどいなこりゃ、というのが印象だった。
全体としてバラバラでまとまりがなく、どこかなげやりで、前作に比べていろいろな面で安っぽく、なにか「物足りない」感が強い。
ところが、このウルトラマンタロウを強硬に擁護する向きがあるそうだ。
擁護論にいわく、多くの人が子供時代に「タロウ」を見ていたと言っているし、ある人気投票では「タロウ」が1位だった。
いやいや、「タロウ」が当時の子供たちからそっぽを向かれたとか、特に不人気だった、などとは誰も言っていない。まあ、「1位」というのはたまたまだろうが。
前述の通り、かくいう自分も子供時代に毎週見ていた。
ウルトラシリーズは、初代ウルトラマンの段階で、怪獣が出現して人間がウルトラマンに変身して、といった一定のフォーマットが確立していて、それに従っておけば、ある程度形になる。
また「タロウ」の造形が、あまりにもかっこ悪い/気持ち悪い/怖い、というのなら、子供が引いてしまうこともあろうが、何せ「タロウ」の造形のベースは「セブン」だから「かっこ悪い」はずがない。
「かっこいい」ヒーローが怪獣と戦う、というフォーマットが整っていれば、それなりにみてもらえたのだ。
加えて、当時のウルトラシリーズの人気というのは、今の若い世代にはちょっと想像できないほど大変なもので、「ウルトラマン」というブランド力は相当強いものがあったから、「ウルトラマン」というだけで一定数の視聴者が集まった、というのも事実である。
不人気ではなかったのは事実、だからといって、「タロウ」が特別すぐれた作品だということにはならないし、他のシリーズに抜きんでて人気作品だったというわけでもない。どちらかといえば、あまり印象に残らないほうの作品、というのが初回放送当時の印象だったのである。
いわく、「タロウ」は対象年齢をあえて低く設定しており、小学校に上がる前の子供を対象にしていた。
多分これは違う。
そもそも初回放送当時そんな話はなかったはずだ。前作で特に幼児層の支持が広がった、なんて話も伝わってこないし、流れとしてそんな方向になったとも思えない。
それが証拠に「タロウ」のエピソードの中には、タロウが首をはねられたり、背中をめった刺しにされたりと、結構残酷ともいえるシーンがいくつもある。
幼児対象に作ったもので、そんな場面を入れるとは思えない。
いわく、「タロウ」はそれまでとは違う「親しみやすいウルトラマン」を目指した。
これもどうかなあと思う。
というのも、本作で「親しみやすい」のは「タロウ」という名前だけで、怪獣は相変わらず怪獣然としているし、せっかく親しみやすい「タロウ」という名前にして、内容も幼児向けにしたというのなら、「タロウ」の造形だってもっと人間に近く、いや日本人に近くしてしかるべきだろう。
そもそもツノをはやしているあんなキャラクターが「親しみやすい」か?
(2026年1月追記)
先日ある動画で、タロウの擁護論が展開されていた。
いわく。
本作の脚本家の一人の証言によれば、前作とは違いユーモラスな要素を盛り込んだ作品にしようとした、と。
「ユーモラスな」場面というのは、初代ウルトラマンにおけるイデ隊員しかり、決してシリーズ中に珍しい要素ではない。
ただし、「タロウ」のそれを「ユーモラス」といっていいのか?
例えば、歯の間にものが詰まって、不快感のあまり暴れる怪獣とか、人間の若い女性とバレーボールをする怪獣とか。
他にない(他はそんなこと、やらない)という意味で「ユニーク」ではあるかもしれないが、どちらかといえば、ユーモラスというより幼稚で下らないというべきではないかと。
こうした擁護論は、どれも後から理屈をつけて強引にこの作品を正当化しようとしているように見える。それだけ批判が多いということなのかもしれないが。
ただ、これまでは箸にも棒にも掛からぬ失敗作と自分の中でバッサリやっていたしろものだったが、よくよく考えてみると、ちょっと不思議な作品ではある。
まず最大の謎。「タロウ」はなぜウルトラセブンそっくりなのか。
あそこまで似ているのだから、何かセブンと関係があるだろうと思うのが自然だが、作中その説明は全くなされないし、「ウルトラセブン」と作品的な世界観を共有しているというわけでもない。それどころか、タロウとゼブンとのからみさえほとんどない。
「音」に関しても、前作まで当たり前にあった、あの特徴的なウルトラマンの声も「タロウ」はほとんど発しないし、怪獣との戦いに流れる戦闘テーマも、前作までは独自のものがあったのに、「タロウ」ではほぼ主題歌を転用している。
ベムスターにエレキングやメフィラス、それにゲスト出演した「兄弟たち」の造形の安っぽさも、円谷プロのそれまでのこだわりや作りこみからすれば変だ。
これについて特に文献を調べたわけではないし、ましてや関係者の証言を聞いたわけでもなく、全く根拠はないが、一つの邪推をしてみようと思う。
このわれわれが「ウルトラマンタロウ」として知っているキャラクターは、実は当初、ウルトラセブンの実子、つまり現在のウルトラマンゼロにあたる役柄だったのではないだろうか。
現在セブンの実子であるウルトラマンゼロは別キャラクターとしてあるが、もともとは「タロウ」こそ、ウルトラマンゼロ、あるいはウルトラゼロだったのではないか。
あのツノも、セブンの実子からウルトラの父の実子に設定が変更されたため急きょ追加したもので、当初は本当にウルトラセブンそのものの顔だったのかもしれない。
そして地球で怪獣との戦闘に傷つき、戦えなくなった父セブンに代わって、息子のゼロ(タロウ)が父に鍛えられながら、地球を守る。そうウルトラマンレオの設定が、もともとのこの作品の世界観だったのではないか。
だとすれば、「タロウ」がセブンに酷似していることも説明がつくし、当時のスポコンばやりの事情を考えれば、父セブンに鍛えられて息子の「タロウ」が成長してゆくなんていうのは、大いにありうる世界観だ。それに「レオ」「ゼロ」、なんとなくゴロが似ていないだろうか。
ウルトラマンエースの後の次回作を、セブンの息子のウルトラマンゼロとし、キャラクターデザイン、設定も決まっていたのに、何らかの事情ですべてキャンセルとなり、急きょ作り直さざるを得なかったとしたら、この作品のなげやりでバラバラな感じや安っぽさもわかる気がする。
これも邪推だが、おおかたTBSが何かいちゃもんを付けたのだろう。「ゼロ」という名前が悪いとか、「巨人の星」の二番煎じだとかなんとか。あるいは予算が大幅にカットされたか。で、「ゼロ」がだめならいっそ「ゼロ」をもじって「タロ」そこから「タロウ」にしてやろう、とでもなったのかもしれない。
もう一度言うが、「タロウ」が好きなら好きで何の問題もない。ただ、無理くりな理屈をつけて、しなくてもいい正当化をするのはちょっと違うかなあと。思考停止に陥ったみたいに、提供されたのものを手放しで肯定しようとするのには若干の気味悪ささえ感じる。問題があるなら指摘されていいだろう。
そのうえで、人がなんと言おうと好きなら、それでいい。