どこが「成功」?「シン・ゴジラ」の衝撃
ゴジラ映画はどんなものでもいいと思う。
60年代から70年代にかけて、毎年のように作られてきたゴジラ映画が、76年の「メカゴジラの逆襲」のあと、しばらく途絶えたことがある。
それが84年になって新作が作られる、となった時、ゴジラ通あるいはゴジラファンを自称する評論家や著名人たちは、口をそろえてこう言った。「ゴジラは怖いからこそゴジラだ」、「まんまる目玉で人間の味方をするゴジラなんてゴジラじゃない」。
そうかなあ。2度にわたるメカゴジラの襲来を撃退して人類を救ったゴジラの次の敵は?という話でも全然いいと思うのだが。人間の味方のゴジラのどこが悪いのだろう?当時個人的にはそう思っていた。
で、結局公開された84年版の「ゴジラ」は、怖いゴジラ、破壊の限りを尽くす悪いゴジラに戻った。 以後数々のゴジラ映画が作られたが、どれも一貫して「怖いゴジラ」であり、現在もその路線が続いている。
それで例えば1954年の第1作と同等あるいはそれをしのぐ作品が一本でもあったのならそれも良しとしよう。
だが前出の84年版の「ゴジラ」は思ったほどの成功とはならなかった。以後作られるたびに作品的な質は低下の一途をたどった、と少なくとも個人的には思う。
ゴジラ対なんとかって、「悪い」ゴジラと別の「悪い」何かを対決させるわけ?ストーリーの組み立てが難しくなるんじゃないか?と思っていたら案の定、ごちゃごちゃでわけのわからないストーリーの作品が続く。挙句の果てにベビーゴジラというミニラのセルフパクリをやる始末。デストロイア?得意技は四の字固めか?もっとも、ゴジラに四の字をかけるのは大変だろうが。
で、今度はモスラやキングギドラといった昔の怪獣を出してきて、これらで「悪い」ゴジラを倒そうなどというこころみをやる。だが観客はそうまでしてゴジラをやっつけてほしいなどとはおそらく誰も思っていない。
そもそも、人間の味方のゴジラがあり得ない、というのなら、メカゴジラやキングギドラが人間の味方になるなんてもっとあり得ない。
物心ついたころから、ゴジラとウルトラシリーズで育った世代としては、「ゴジラ」と聞くだけでなんだかワクワクする。なので、84年版のゴジラももちろん見たし、いわゆる「平成ゴジラ」も最初の方は期待して見ていたが、毎回がっかりさせられるばかりで、途中から見るのをやめてしまった。
そんな中、「シン・ゴジラ」なる作品が、えらくヒットしたという。ヒットしただけではない。作品的にも「成功した」と絶賛する向きが多い。
それなら、とあまりに遅まきながら、この作品を見てみた。
なんだこりゃ。というのが正直な感想。
作品の多くの部分が、早口で何を言っているのかわからない退屈なやり取りで占められていて、肝心のゴジラが出ているシーンが驚くほど短い。冒頭から10分以上もだらだら続く政治家と役人の会話にみんな耐えられたのだろうか。
破壊シーンそのものも、特撮技術の向上を考えれば、この程度のリアルさは特に目を見張るものではない。特撮の技術が向上していくらリアルに見えるとしても、要はそれを使って何をどう表現するかだろう。
リアルな特撮が売りというなら、もっとゴジラを暴れさせてよかった。1954年の第1作のゴジラは、橋を壊し、商業施設を壊し、民家を焼き尽くし、鉄道を破壊し、東京を火の海にした。今回だって、東京スカイツリーを壊せばいいし、都庁だって壊せばいい。何とか言う金持ちがたむろするあたりを徹底的に破壊してやればいい。期待していたより、ゴジラの怖さも迫力も全然足りない。
早口で一本調子のセリフは意図的にそういう演出なんだという話だが、それならそれはいいとしよう。だが各セリフの言葉の選び方がちょっとどうかと思わざるを得ない。
例えばラスト近く:
「ゴジラが再び動き出した瞬間に再スタートする。3526秒後には発射するわ」
「再び動き出した瞬間に」なんて仰々しい言葉を使わずに「また動き出せば」でいいし「3526秒後に」云々は必要か?
また
「フランス(別にここだけ英語っぽく発音しなくてもいいと思うんだが)にデータを横流ししたでしょ?」 「フランスだけじゃないよ。世界中に共有させた。約束を破ったが後悔はない」
こんなの
「データを流したの、あなたね」「世界中にね。後悔はないよ」でよくないか?
もうひとつ
「あなたの手段をえらばないところは気に入っている」。
これも
「好きよ、そういうところ」で十分だろう。
この作品、こういう言ってみれば言葉の無駄遣いが全編にわたって行われており、加えて上記の例からわかるように、言葉に人間的な温かみがない。なにかの翻訳ソフトではじき出した下手な訳文のようだ。
ほかにも突っ込みどころは数多くあって、それこそ突っ込みどころだらけなのだが、何より違和感を感じたのは作者の目線だ。
人間側の主人公が国会議員というのがそもそもだが、終始舞台は政府部内。政治家同士、政治家と役人、政治家と自衛隊とのやり取りで全編が成り立っている。
そこにあるのは、政治家が、役人が、自衛隊が「国」を守っている、という権力を無批判に賛美する無邪気さだ。
一方で一番被害を受けたはずの一般庶民、市民の姿はほとんど描かれていない。
映画の終盤、主人公がやたらと「国」を強調しだすあたりは、正直気持ち悪さを感じた。こういう上から目線と言うか、ベクトルの方向はちょっとなあ、と思わざるを得ない。
これのどこが「成功」だというのだろう?
子供の頃「東宝チャンピオン祭り」で楽しみにしていたあの「ゴジラ」の現在の姿がこの作品、というのは勘弁してほしい。
先日ネット検索をしていたら、続編がどうのという見出しを見かけた。冗談じゃない。絶対やめてくれ!
まあ、見なければいいのだが。
もうやめたら?―劣化激しいウルトラシリーズ
さすがにいい年の大人なので、喜んで毎週見たりはしないが、今どんなものをやっているのか、最新のウルトラマン「ウルトラマンブレーザー」を見てみた。
前述のごとく、ウルトラマンで育った世代として、この作品への思い入れは強い。なので、10数年前、ある作品を見たときは、その劣化ぶりに心底怒りを覚えたものだ。
だが、本作はもっとひどい。ここまで劣化してしまうと、怒りを通り越してあきれてしまう。
まず今回のウルトラマン、blazerって「ブレザー」のこと?まさかね。カッコ悪い。何よりよくないのは模様が複雑すぎること。初代ウルトラマンを作るとき「子供に覚えやすいシンプルなデザインを」と円谷英二氏が注文を付けたという話を聞いたことがあるが、あんな模様いっぱいのウルトラマンを見たら氏はなんというだろうか。
次に防衛隊。本部は倉庫の中のようだし、ユニフォームは作業服か?地上を走行するのはまさかの普通ワゴン車。ワゴン車が悪いと言っているのではない。が、未知の怪獣や宇宙人と戦うんだぞ、あまりに装備としては貧弱じゃないか?何よりこれを見て子供たちが「すげえ!」と思うか?
ウルトラホーク的な、あるいはビートル的な装備があるのかどうか、見た回では登場しなかっただけなのかはわからないが、怪獣のロボットに人間が乗り込んで戦うらしい。
マジンガーZか。巨大怪獣に巨大ロボットで立ち向かう。ストーリー構成が難しくなる危険があるが、別にやってもいい発想だとは思う。ただし、だ。現実世界では今やAIが発達し、自動運転の車の実用化も目の前だ。なのに今どき人が乗って操縦って。
60年代に「ジャイアントロボ」という名作があった。個人的にはロボの造形、特に顔。角度によって勇ましく怒っているようであり、どこか悲しげでもあり、優しいまなざしをたたえているようでもある。まさに傑作だと思う。
この「ジャイアントロボ」は、大作少年の命令で動く、とされているが、実際にはロボ独自の判断で動くことも多く、いわばAIの先駆的な存在ともいえる。
それに引換え、このウルトラマンのロボット怪獣はどうだろう?明らかに退化ではないだろうか。
さて、この回。登場怪獣はなんとガラモン。ガラモン???これもなんで今さらガラモン???と思わざるをえない。まあ、100歩譲ってガラモンはいいとしよう。
ここ最近のシリーズの病気みたいなものだが、なぜ、何のために今回ガラモンがやってきたのか、例によって全然描けてない。何より問題なのは、地球に降り立ったガラモンは、町を破壊するでもなく、何もしていないのに、例のロボット怪獣がいきなり攻撃を仕掛ける。これでは「防衛」ではなく単なる「排除」だ。
初代ウルトラマンのバルタン星人の回で「地球に住むことにする」というバルタンに、「いいでしょう。君たちが地球の法律を守り、地球の文化習慣になじむならそれも不可能なことではない」というハヤタの言葉と比較せよ。
子供に見せるということを前提にするなら、「あきらめなければ…」などと上から目線で説教を垂れるよりこういう点をちゃんと描くほうがよほど大切だ。もっとも、宇宙人であるウルトラマンが「地球に住んでいいよ」とバルタンに言うというのも「あれ?」という気がしないでもないが。
さらに演出上の問題。演奏家たちが宇宙人だと分かり、演奏会場に一人出向いた女性隊員。で、この女性を演奏していた男たちが数人がかりで抑えにかかる。
単身乗り込んできたのだから、何か武器を使って彼女を攻撃してもいいし、腕をつかんだまま会場の外に放り出してもいいし、捕まえてどこかに監禁してもいい。
なのに男たちは、彼女の両腕をつかんでいるものの、それ以上何もしない。しかも彼女に銃を抜かせて、発砲まで許す。
いったい彼らは何をしたかったのだろう?客席奥の入り口近くに立っていたのだから、いくらでも逃げられたものをそのまま突っ立っていた隊員も隊員だし、実に稚拙なつくりと言わざるを得ない。
しかも、このロボット怪獣がガラモンに歯が立たない。ガラモンに?出てきたウルトラマンも全然弱い。何のために出てきたの?と聞きたくなる演出だ。
で、前述の単身乗り込んだ彼女の発砲で、動きの止まったガラモンにようやくウルトラマンが攻撃を仕掛けて、最後粉々に破壊する。相手が攻撃してこなくなったら途端に攻撃して破壊するって?
もう一度言うが、今回のガラモンは、「ウルトラQ 」の時と違って地球上で乱暴を働いたりしていない。いやあ、もっと正々堂々と戦って勝つところを見せた方がいい気がしますけどねえ。
全体としてみた感じ、一言で言って実にちゃちでしょぼい。予算がない?そんなの知らない。そんなの視聴者とは関係ない話。予算がなくて映像的にも物語的にもちゃちなものしかできない、というのなら作らなければいい。それでなくても最近は低質な作品を乱発しているように見えなくもないのだから。
個人的にはもう新作を作るのはやめた方がいいと思う。
思ったとおり?シン・ウルトラマン。
免疫ができていた、と言うべきか。「シン・ゴジラ」を見たときほどの感情の揺れはなかったものの、本作品も「やはり」という感じだった。
東宝特撮で育った身としては、ウルトラシリーズには特に思い入れが深い。なので「ウルトラマン」を「シン・ゴジラ」のように作られたらたまらない、と警戒はしていた。
詳細は他に譲るが、個人的にはあの「シン・ゴジラ」は全く評価していない。「ウルトラマン」も、「ゴジラ」と同じテイストで作ってあるなら、さして期待はできない。
「シン・ウルトラマン」をようやく見たのだが、前述の通り「ゴジラ」のときのような怒りは感じなかったものの、決して評価できる内容ではなく、「ウーン」という感じが正直なところだった。
実は初めて予告編を見たとき、「おっ」と思ったことをここで告白しておこう。かっこいいじゃないの。でもなんだ?カラータイマーがないぞ!いやあ、オリジナルも、当初カラータイマーがなかった、というのは有名な話だが、やっぱりカラータイマーがないと、どこか間抜けだよなあ。カラータイマーがないなら、胸のデザインをそれ用に変えればいいのに、そういうところは気が回らないようだ。ようは、単にカラータイマーをとっただけのデザインになっているんだよね。このデザインにするならカラータイマーはあったほうがいい。
それに「ウルトラマン」といえば「シュワ」だろう。ところが終始何も言わない。
「禍威獣」や「禍特対」の当て字もねえ、この製作者はどうでもいいことを変にいじくる傾向があるようだ。「ゴジラ」のときの幼年体といい、やっちゃいけないとは言わないが、あえて必要か?といいたくなる。
「禍特対」の位置づけもなんだかなあ、という感じ。オリジナルの科学特捜隊は、パリに本部を置く「国際科学警察機構」の日本支部、つまり政府とは独立した立場だったのに、この怪しげな組織は日本政府の防衛省の下部組織になっている。これって退化じゃないか?
「ウルトラマン」の魅力はいろいろあるが、その中の一つは子供が見て「すげえ!」と思えるワクワク感だ。
「ウルトラマン」の放送が始まった1960年代なかば、一般家庭での通信手段といえば黒電話だった。いや、その黒電話でさえない家もザラにあった。
そんななか、科学特捜隊では胸につけたバッジで誰とでも自由に通信ができる。武器もバンバンと弾が飛び出すピストルではなく光線銃だ。
そういう見たこともないガジェットに当時の子どもたちは「すげえ!」と思ったのだ。
しかるに本作冒頭近く、自衛隊のテントでPCと思しきマシンに差し込んでいたのはHDDだろうか。SSDくらい使えよ、と言いたくなる。
バッジはあるが通信機能はなく、携帯電話で通信?移動は自衛隊のヘリ?ビートルは?岩本博士は?
登場怪獣じゃなかった「禍威獣」(めんどくさいなあ)が、ネロンガにガボラにザラブ星人にメフィラス星人、そしてゼットン。
これもだめとは言わないが、バルタン星人は?レッドキングは?ピグモンは?と言いたくなる。
また「ゴジラ」のときも感じたのだが、この製作者、作り方が存外雑に思える。
いわく「禍威獣は何故か日本にしか現れない」。
いえいえ、アントラーが出現したのは日本ではありませんでしたよ。レッドキングが最初に登場したのも南の島であって、日本ではありませんでしたよ。ゴモラも日本で出現したわけではありませんよ。キーラに至っては宇宙ですよ。
これも「ゴジラ」のときと同様、余計なセリフ、無駄な言葉がやたら多い割に大事なことは語らない。
例えば、オリジナルではウルトラマンが地球に来たのは、護送中に脱走したベムラーを追って、たまたま地球に通りかかった、という設定だったが、本作ではなぜウルトラマンが地球に来たのか明確な説明がない。
神長と浅見は「バディ」だというが、二人が共同で仕事をしているところはない、そもそも「バディ」とはなにかの説明もない。
ゾーフィがいきなり出てきて、無理くりな理屈で、ゼットンを登場させるあたりもなんだかなあ、という感じ。
人類が光の星の「私たち」と同じ進化をたどる可能性があるから、ゼットンを使って人類を「廃棄する」という。それなら人類だけを滅ぼせばいいものを、地球そのものを破壊してしまおう、という論法も、まあ、乱暴というか、支離滅裂というか、暴論というか。
ゼットンとの戦いにのぞむ神長を、浅見が見送るビルの屋上のシーンも変だ。神長がいざウルトラマンに変身しようとするとき、浅見が後退りするのだ。
ここはたたずむ浅見を残して神長のほうがら離れるのが自然ではないだろうか。
このとき、二人の間には友情あるいは愛情が芽生えているのだから、ハグするなり握手するなりしてもいいものをそれもなく、出たセリフが「いってらっしゃい」って、多分言わないと思うのだが。
ラストシーン、あるいはこれは意図的なのかもしれないが、オリジナルにあったゾーフィ(ゾフィーではないのだそうだ)のセリフ「私は命を2つ持ってきた」という部分がなくなっている。ゾーフィは命を2つ持ってきているわけではなくて、神長が生き返った、ということはウルトラマンはどうなったの?となる。
あげだすとキリがない。全編に渡って引っかかる所だらけだ。
オリジナルには、作品全体を通して見る側が体を伸ばしてゆったりできるような、広々とした大らかな雰囲気があった。
本作は、「地球」とか「人類」とか、大きなことを言っている割には視野が狭く、妙に生々しい。そもそもウルトラマンにもゾーフィにも無機質で温かみが感じられず、なんとなく不気味で、感情移入できないところがある。
なんていうのかなあ、オリジナルのいいところ、魅力がことごとくそぎ落ちていて、では新しい魅力が生まれているかというとそれもない。
この映画が好きだ、という人には申し訳ないが、個人的には2度3度見たいとは思わない。
あえて言うなら、ウルトラマンという作品についての考察が足りない気がする。
製作者に是非お願いしたい。間違っても「シン・ウルトラセブン」など作らないでほしい。