野間大坊へ行った(前編) | 50代親父の無為な日々

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変わり映えの無い50代の日乗とお寺巡り、モノづくりと外出の記録

先日、4月初めに壷阪寺へ行ったことを書いたが、3月末に知多四国の大場所のひとつ、野間大坊へ行ったのでその時の話を書いてみたい。前回同様に、自分が面白かったことを重箱の隅をほじくるように書いており、ほとんどの方には意味がないと思われるのでお許しを。

 

野間大坊になった理由は、嫁さんが霊場会発行の折り畳みお参りマップを見て、野間大坊直営「まどか」でお庫裡さん自ら打つそばが食べたいと言いだしたからである。

 

私自身、野間はいつか訪れたいと思っていた。私の実家の近くに「柴ヶ森」という神社があって、子供の頃の遊び場だったのだが、そこはあの源義朝さんが平治の乱で敗れ、野間へ逃げ延びる途中で通過したときの由来がそのまま地名になっているのである。

歴史好きの私としては、義朝さんの足跡をたどることにもなるし、また、野間大坊は県内有数の心霊系スポットでもあったので、いつかは行かねばならぬ場所でもあった。

 

そんなこともあって野間へいくのは夫婦そろって大賛成だったのだが、実際行ってみると思っていた以上であった。

昼頃到着したので直営そば店「まどか」へ直行したのだが、温かいそばをずるずるやっていると、外に見えるのが真っ白い大砲の弾と「海友」と彫ってある石である。

この手の近代遺物(特に戦時もの)とか近代石碑は大好きなので、そばをいただいてすぐ見に行きたかったのだが、その前に・・・・・・

 

義朝さんの墓参りである

私は絵馬とか願掛けにはあまり興味が無いのだが、この時は違った。

木刀には義朝さんの必死の思いがこもっているのだ。それにここは子供の頃からの念願の場所であるから、そこらの絵馬とは気合いが違う。

なんと自分の財布から500円出してwww願掛けをした。

 

それを墓に奉納するのだが、まわりに墓を取り囲むように、ぐるりと立っているものがある。

織田信孝の墓と、義朝さんの乳母子で舅の長田忠致に裏切られて死んだ(この時まで知らなかったが)鎌田政清と妻の墓、池禅尼の碑である。舅と息子が娘婿と義朝さんを裏切って殺害、そして娘は自殺って、長田さん父子何してんのwww

木曽義仲と今井兼平の最期のように、この時代の乳母子って大きな意味があるからね。

 

時代の異なる織田信孝はともかく、義朝さんの墓、義朝さんの乳母子と妻の墓、頼朝さんを助けた池禅尼の碑がある。そして頼朝さんもここへ来ていたらしい、となれば、こりゃただではすまんな、と思ったのであった(あとでその通りだったとわかる)。

 

さて、気になっていた大砲の弾である。

なんと日本三景艦の砲弾ではないか!日清戦争の遺物はなかなか無いからね。

これだからB級の観光スポットはやめられん。

 

そして、大御堂寺(野間大坊の本当の寺名)の大門であるが、昔あの○保○子氏が除霊を嫌がった、と聞いたことがある。どうしてかって?

門の両側に武士が2人立って墓を守ってるんだと。

霊感が絶望的に無い私からすると、まったく普通の門である。

 

(後編へ続く)