【番外④】二代目会長についての話 中編 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

エホバの証人という宗教団体は、

初代会長のC・T・ラッセルが「三位一体」や「地獄」などキリスト教の伝統的な教えを否定

したことから始まっています。

これは、既存のキリスト教からの独立、離脱を目的とする新興宗教だったと言っても過言では

ありません。

事実、彼は「教皇制」を「大いなるバビロン」と呼び、政府と癒着しているキリスト教諸宗派

のことも娼婦になぞらえて糾弾しました。(エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々 52P)

ただ、初代会長が従前のキリスト教を否定していたのは、

「伝統的な教義や在り方を認められず、間違っていると感じたから」

という建前はありました。

初代会長は青年時代から独自の教義を説き始め、三十歳になる前に「ものみの塔冊子協会」を

設立しました。それほど若くして実質的な教祖という立場に立ったということは、彼に賛同し、

追従する「元」プロテスタントが大勢いたことも示しています。

 

いずれにせよ米国のキリスト教諸宗派との間には大きな軋轢ができました。

 

そして二代目会長は「キリスト教諸宗派に対する敵意」を受け継ぎました。

 

二代目会長の体制は、

キリスト教諸宗派に対して徹底的なまでに攻撃的な姿勢を貫きました。

もはや自分達以外のキリスト教諸宗派の存在意義を全否定して、それらの宗派の信者達を略奪

することを主要な目的にしていたと言っても良いでしょう。

 

ラッセル兄弟が亡くなった後の1917年7月,ものみの塔協会は,啓示の書とエゼキエル書とソロモンの歌の注釈書である「終了した秘義」という本を出版しました。その本はキリスト教世界の僧職者の偽善を容赦なく暴露しており,比較的短期間で広範に配布されました。さらに,アメリカとカナダの聖書研究者は1917年12月末から1918年の初めにかけて,火のような音信を収めた「聖書研究者月刊」というパンフレット1,000万部の配布に取りかかりました。そのタブロイド版4ページのパンフレットには「バビロンの倒壊」という題が付され,「なぜキリスト教世界は今苦しまねばならないか ― 最後の結果」という副題が付いていました。そのパンフレットは,カトリックとプロテスタント両者の宗教組織が間もなく必ず倒壊する現代のバビロンであることを明らかにし,その内容の裏付けとして,「神秘のバビロン」に対する神の裁きを表明した預言の注解を「終了した秘義」の本から転載しました。裏ページには,崩れゆく壁を描いた生き生きとした漫画が載せられていました。その壁の幾つもの大きな石には,「三位一体の教理(“3×1=1”)」,「魂の不滅性」,「とこしえの責め苦の理論」,「プロテスタント ― 教義,僧職者など」,「ローマ・カトリック ― 法王,枢機卿などなど」といったラベルが付けられており,それらの石すべてが崩れ落ちていました。

そのような暴露に僧職者は激怒しました(中略)カナダの僧職者はすぐ反応しました。1918年1月,600人を超えるカナダの僧職者たちは,国際聖書研究者協会の出版物を発行禁止処分に付すよう政府に求める請願書に署名しました。(中略)その後間もなく,1918年2月12日にカナダ政府が発した布告により,上に掲げた「終了した秘義」やパンフレットを所有することは罰金刑や拘禁刑に値する犯罪とされました。

同じ2月の24日,新たにものみの塔協会の会長に選出されたラザフォード兄弟は,米国カリフォルニア州ロサンゼルスのテンプル・オーディトリアムで話をしました。(中略)彼は僧職者に注意を向け,こう言いました。

聖書によると,僧職者は一つの級として,現在人類を悩ませている大戦に関して地で最もとがめられるべき者たちです彼らは1,500年にわたって人々にサタン的な王権神授説を教えてきたからです」。(中略)

翌日,この講演に関する長文の記事がロサンゼルスのモーニング・トリビューン紙に掲載されました。僧職者は激怒したので,彼らの協会は当日のうちに会合を開き,会長を同紙の経営者のもとに遣わして強い不快感を伝えました。その後,ものみの塔協会の事務所に対して政府の情報局員による嫌がらせがひっきりなしに続きました。(中略)

1918年の春と夏には,北アメリカでもヨーロッパでも聖書研究者に対する広範な迫害が生じました。(中略) 聖書文書は捜索令状なしに押収され聖書研究者の多くが投獄されました。暴徒に追い回されたり,殴打されたり,むち打たれたり,タールと羽毛を浴びせられたり,肋骨を折られたり,頭を切られたりした人もいれば,中には体に一生障害が残った人たちもいました。クリスチャンの男女が告発や裁判もないまま拘禁されました。

 

エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々 647ページ-650ページ

 

 

初代会長の逝去直後から、組織はキリスト教諸宗派に対する憎悪を剥き出しにしました。

元々は「自分達は彼らと違うことを信じているから」という名目で伝統的なキリスト教から

分派した団体でしたが、

この頃はキリスト教諸宗派に対するヘイトスピーチが最優先になっていたように思われます。

 

当然のことながら、誹謗中傷による営業妨害を受けた他の僧職者達が黙っているはずもなく

多くの信者達が暴力の被害に遭う結果となってしまいました。

1918年には、連邦政府が二代目と協力者達を逮捕して拘禁刑を科しましたが

組織は「こうしたことすべてに関して実際に糸を引いていたのは僧職者だった」という見方を

示しています(エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人 654P)。

まあ、恨まれるようなことをしていたからね。

 

そして1919年、

釈放された二代目大きな怒りを抱いて戻ってきました。

 

「宣伝し、宣伝し、宣伝しなさい」

 

これは二代目が1922年オハイオ州シーダーポイントで宣言した有名な呼びかけです。

年季の入ったJW信者で、このセリフを知らない方はいないでしょう。

では、二代目はこの直前に何を言っているか。

 

「至高の神の子の皆さん,野外に戻りなさい!」「自分の武具を身に着けなさい!」 

「バビロンが跡形もなく荒廃するまで戦いで前進しなさい!」

 

(エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人 72P)

 

二代目が「野外宣教」を1917年にバビロンとレッテルを貼ったキリスト教諸宗派に対する

戦いとみなしていたというのは、想像に難くありません。

 

二代目の体制下において、「戦い」は熾烈を極めました。

 

1924年から1925年にかけて,多くの国の聖書研究者たちは「聖職者に対する告発」という

パンフレットを配布しており,

1925年には,J・F・ラザフォードがパリで「僧職者の欺まんを暴露する」という主題の話をす

る予定でした

 

・・・が、これは地元の司祭と協力者たちに妨害をされて頓挫したようです。

(エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人 658P)

 

1937年9月15日から20日にかけてオハイオ州コロンバスで開かれた

エホバの証人の全体大会で(中略)

ラザフォード兄弟は,9月18日土曜日の午前中の話の後に,(中略)

革のような黄褐色をした“Enemies”(「敵」)という本を発表しました。

その本は偽りの宗教のことを,

人類に常に害を与える大いなる敵と呼んで糾弾しました。

また,偽りの宗教家たちは,

気づいていようがいまいが,悪魔の代理者」に等しい

ことが示されました。ラザフォード兄弟はその本を聴衆に見せた時,

「お気づきになると思いますが,この表紙は革のような黄褐色をしています。

わたしたちは,かの老婆をその革むちで打ちたたくのです

と言いました。聴衆は熱意を込め,大きな声でそれに賛同しました。

 

(エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人 84P)

 

この「偽りの宗教家」がキリスト教諸宗派の僧職者を指して言っているのは明白であり、

彼らの存在そのものを、無条件で「悪魔の代理者」と断定し、存在自体を断罪しました。

二代目は、他の宗教諸派に対する敵意闘争心という楔を信者達の心に奥深く打ち込み、

他の宗教を攻撃するように奨励しました

 

1938年10月2日,ラザフォード兄弟は(中略)ある高官たちとローマ・カトリック教会の

代表者たちとが結託していることを示す数多くの違法行為を詳しく説明しました。

ラザフォードは幾つかの事実を示してからこう述べました。「人々の権利を奪うため,僧服に身を包んで活動している一味に関する事実が人々の耳に入ると,僧職者たちはこぞって,『うそだ! やつらの口にさるぐつわをかませろ。一言もしゃべらせるな』とがなり立てる」。それからラザフォードはこう尋ねました。「人々から物を奪う強盗の一味に関する事実を公表するのは間違ったことだろうか。決してそうではない。……この強盗の一味が人々の自由を破壊している時,誠実な人間は口をふさがれたまま黙っているべきだろうか

 

(エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人 85P)

 

自己紹介かな?

 

先述した通り、二代目の体制下の組織は、

既存のキリスト教諸宗派を攻撃すること自体を主要な目標に掲げているようなものでした。

 

 

 

・・・ただし、私は当事者として当時の状況を直に見たわけではないので、

こうした情報だけで、当時の二代目の行動の善し悪しを決めつけることはできません。

 

二代目が就任する前から、キリスト教諸宗派との間には軋轢がありました。

多くの信者が暴力を振るわれており、二代目自身も収監されていますので、

復讐心を信者全体が共有するような状況であったのなら、彼の言動はやむを得ないと思います。

 

 

 

私が問題だと感じるのは、

 

二代目の死去からおよそ半世紀が経過した90年代に発行された

 

「エホバの証人-神の王国をふれ告げる人」の中で、

 

二代目がキリスト教諸宗派に対して組織ぐるみで行った誹謗行為および信教の妨害のすべてが

 

終始一貫して全面的に肯定されているという点です。

 

二代目は「決して消えない怨恨と憎悪の炎」という負の遺産を後の世代に託しました。

 

先述した「ふれ告げる」の数年前に刊行された「啓示の書-その最高潮は近い!」という書籍

では、キリスト教の諸宗派に対して「ふれ告げる」以上に強い悪意を込めた糾弾や断罪が並べ

立てられており、その根拠が極めて主観的(信者以外の人間では理解や共感ができないような)

かつ感情的な理由に基づいています。

 

今では、他のキリスト教諸宗派と縁もゆかりもない2世・3世の信者が

エホバの証人以外のキリスト教は大いなるバビロンとして滅ぼされるのだ」と、

演壇の上から聴衆に説いたり、子供に教え諭したりしています。

 

少し前「生活と奉仕の集会」で使用された「エホバへの清い崇拝 ついに回復される!」の

15章では、「キリスト教世界」に対して

「何の希望もありません」

「滅びを迎えることに疑問の余地はありません」「裁きが覆ることはありません」

「許しを与えられることはなく、歩みを改める機会を与えられることもありません」

・・・と、どうあっても死んでほしいといわんばかりの執拗な断罪を繰り返されました。

これを執筆した世代は、二代目と面識がなく、大戦下の迫害も経験していないはずですが、

二代目から受け継いだ「決して消えない怨恨と憎悪の炎」を絶やさぬよう努力しています。

 

20世紀中頃以降、かつては互いにいがみ合い、憎み合い、傷つけあっていた宗教諸派の

多くが融和に向けて互いに歩み寄りの姿勢を見せるようになったのに対し、

「すべての人に対して平和を求めなさい」という聖句とは真逆の姿勢を貫き続けています。

 

これは当然のことです。

この宗教は二代目会長が就任した時点で、既存のキリスト教諸宗派の存在意義を否定して

そこに属する信者達を奪い取ることを存在意義とする団体に成り代わっているのだから。

 

もっとも、近年は表面上その本性を隠しているようですが。

 

 

 

二代目の時代に起きた大きな変化と言えば、クリスマスの祝い十字架否定があります。

 

日本の2世信者にとってはクリスマスの禁止の方が身近な話ですが、

一般の聖書で「十字架」と書かれているワードを全部苦しみの杭」に書き換えたというのは

キリスト教の関連団体としては極めて異質な性質です。

そもそも、キリストが十字架にかけられたこと自体を否定していることで知られている宗教が

エホバの証人しかいないとも言われています。

 

ここでは詳細には書きませんが、キリストの処刑で十字架が使用されなかったとする根拠は

原語の独自の解釈、および昔の宗教学者が書いた十字架に関する研究記録の一部を抽出して

引用した文に基づいたものにすぎず、確たる証拠を持って主張しているわけではありません。

一般の人間が調べれば、おそらくほとんどの人がエホバの証人の主張の方が信憑性が薄い

判断すると思います。実際に近年のエホバの証人は、この解釈にはあまり言及していません。

私個人がエホバの証人という宗教そのものの信頼性に疑惑を抱くようになった理由のひとつは、この十字架の否定です。

 

なぜエホバの証人は、あえて考古学上の信憑性を度外視して苦しみの杭」を採用したのか。

 

かなり昔の資料ではありますが、

信者に向けて発行された、エホバの証人のQ&A的な書籍である「聖書から論じる」の本の

十字架」の項目からいくつかの説明書きを抜粋すると

 

「キリスト​教​時代​以前​に,非​キリスト​教徒​の​間​で​十字架​が​宗教​的​象徴​と​し​て​使用​さ​れ​た​」

「キリスト​の​誕生​より​も​ずっ​と​昔​から,また​それ​以後​も,教会​の​教え​が​伝え​られ​て​い​なかっ​た​種々​の​土地​で​十字​の​印​が​神聖​な​象徴​と​し​て​用い​られ​て​き​た」

「これら​の​十字架​は,バビロニア​の​太陽​神​の​象徴[書籍​を​参照]と​し​て​用い​られ​た」

「エジプト​で​は​至る所​で​石碑​や​墓​に​種々​の​形​の​十字架​が​見​られる」

 

等、紀元前から「十字架」という形状が異教で重視されていたことが強調されています。

じゃあローマ式の処刑方法で十字架が使われてた可能性も十分あるじゃねーか

エホバの証人は「十字架」が実際に使用されたかどうかという信憑性よりも

十字架」の形状そのものと異教との関係性を重視した判断を下しました。

 

クリスマス」の廃止にも同じような背景があります。

 

1920年代中頃までは、世界本部ベテルでもクリスマスパーティーが行われていました。

しかし1926年にはその習慣が廃止され、わずか2年後の1928年には

「クリスマスが神の名誉を汚す起源を持っていることを徹底的に暴露した記事」の発行が

行われました。(エホバの証人-神の王国をふれ告げる人 199ページ)

同書籍の少し下の箇所では、

そのような祭りは,ニューマン枢機卿が自著「キリスト教教理発展論」の中で述べているように教会が採用した

「悪霊崇拝の紛れもない道具であり付属物」である

と、枢機卿の言葉を借りてまで異教の起源があると強い言葉で批判しています。

 

 

過剰なまでの異教アレルギーは、二代目の時代に痰を発しています。

 

初代会長のC・T・ラッセルも、三位一体論や霊魂不滅説を否定する際には

それらが元々は異教に由来すると主張していました。

(エホバの証人-神の王国をふれ告げる人 125-126ページ)

とはいえ、三位一体論や霊魂不滅説についての見解の相違は、聖書の解釈の問題です。

 

二代目も、初代に倣って既存のキリスト教と異教を結び付けました。

しかし二代目の体制下の組織は「十字架」という聖書の一般的な訳そのものを弄ったり

聖書そのものには何も書かれていないクリスマス」のような祝祭日まで断罪したりと、

「異教の要素と関係がある可能性があるもの」全てを手段を選ばず攻撃対象としました。

 

理由は明白です。

そうした独自の教義すべてが既存のキリスト教を否定する口実に用いられてきたことを

エホバの証人が刊行してきた様々な出版物が証明しています。

 

 

エホバの証人は、クリスマス、誕生日、正月などあらゆる祝祭日を「異教の神々と関係のある

ため「私達は加わりません」と断言することで、その選択を実質的に信者に強制してきました。

学校や親戚一同の集いなどの場において、自分が望んでもいない選択を強いられたため、恥を

かいたり嫌な思いをした信者は少なくないと思います。

 

なぜエホバの証人が、そのような場において、信者が立場を表明することを求めてきたのか。

 

二代目がキリスト教諸宗派に対して「あなたとは違うんです」驕り高ぶるために

聖書中で言及されていないあらゆる慣習を断罪する目的で、

聖書中に書かれていないルールを次々と作って信者達に課したことから始まっているのです。

 

 

エホバの証人の組織が「私たちは世の物ではありません」という口実を元に

あらゆる場で、あえて周りの人間とは違う選択をするように求める命令を強要してきたのは、

二代目の、従前のキリスト教諸宗派に対する敵愾心に端を発しています。

(二代目就任より前の体制下では、日常における判断や決定を過剰に禁止・拘束するような悪名高い戒律はほとんど知られていません)

 

そして彼はただ他のキリスト教徒に対抗する立場に立つことだけを求めたわけではありません。

 

 

 

二代目は、信者達が迫害に晒される状況を作り出しました。