わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい② キリストの血肉の象徴と永遠の命 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

ルカによる福音書22章の、最後の晩餐の記述によれば、

キリストが最後の晩餐で弟子たちに「記念」するように求めたのは

磔による「死」そのものではなく

キリストの体と血を模した「パン」「ワイン」を分かち合う儀式そのものです。

 

だからキリスト教徒は、この「パン」と「ワイン」を「聖体」として食する儀式を

非常に重要視しており、カトリックや東方正教会、保守的なプロテスタント諸派で

洗礼を受けている敬虔なクリスチャンは皆この儀礼に加わる資格が与えられています。

(洗礼を受けていない人間の参加の可否は諸派によって異なるが、禁じられている場合が多い)

 

なぜ、クリスチャンが「パンを食べ、ワインを飲む」という儀式的な行為そのもの

それほどまでに重要視しているのか。

 

それはキリストが、自分の血肉の象徴食する行為そのものだけが永遠の命を意味する

教えているからです。

 

根拠となるのは下記の聖句です。

 

イエスは言った。

「はっきり言っておきますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まない限り,

自分の内に命を持てません。 

私の肉を食べ,私の血を飲む人は永遠の命を受け,私はその人を終わりの日に復活させます

私の肉は真の食物,私の血は真の飲み物です。 私の肉を食べ,私の血を飲む人は,

ずっと私と結び付いており,私もその人と結び付いています。 

生きている父が私を遣わし,私が父によって生きているのと同じように,

私を食べる人も私によって生きます。 これが天から下ってきたパンです。

父祖たちが食べはしても死んだのとは違い,このパンを食べる人は永遠に生きます」。

 

ヨハネによる福音書6章53節-58節 (新世界訳)

 

古代イスラエル人に与えられていた「旧約」の律法下では、

神の民は許しを乞うために動物の生贄を捧げることが求められていましたが、

それらには人間の罪を完全に消し去る効力はなかったため、

キリスト自らが一度限り犠牲になることで、

はじめて人間が完全に神聖なものとされる機会が与えられた・・・と、

ヘブライ人への手紙10章は説明しています。

 

とはいえ、クリスチャン全員がキリストの血を飲んだり肉を食べたりすることは不可能です。

だから最後の晩餐で、

「パン」キリストの「肉」を、「ワイン」キリストの「血」を象徴することが示され、

それを食べて、飲むことを、習慣として守り行うように―という指針が与えられました。

 

パンを「分かち合う」意味について、使徒パウロはこのように書いています。

 

私たちが感謝の祈りをし,感謝の杯から飲むことは,

キリストの血を分け合うことではありませんか。

私たちがパンを割って食べることは,キリストの体を分け合うことではありませんか。 

パンは1つなので,私たちは大勢いても1つの体です。

私たちは皆,その1つのパンを食べているからです。

 

コリント人への手紙第一 10章16節、17節 (新世界訳)

 

 

キリストの体を模したパンを分かち合うことで、キリストとひとつになる

この概念は、同じコリント人への手紙の、下記の聖句と結びつけられます。

 

体は1つでも,多くの器官で構成されています。

また,体の器官は多くても,全てが1つの体を構成しています。キリストも同様です。 

私たちは皆,ユダヤ人であれギリシャ人であれ,奴隷であれ自由民であれ,1つの聖なる力に

よってバプテスマを受けて1つの体になり,1つの聖なる力を飲んだからです。

皆さんはキリストの体であり,一人一人が器官です。

 

コリント人への手紙第一 12章12節、13節、27節 (新世界訳)

 

 

パウロがこう教えているのですから、初期クリスチャンは、この慣行を行っていたはずです。

それは後の時代のキリスト教徒にも、ずっと受け継がれていきました。

 

カトリックのミサ。東方正教会の聖体礼儀。プロテスタントの聖餐式。

 

洗礼を受けている敬虔なクリスチャンは、この儀式を自ら体験することを重要だと考えます。

なぜなら、それが「永遠の命に繋がる」と、キリストが教えたからです。

 

 

では、どうして

キリストが「記念に行うように」と弟子達に命じ

永遠の命に繋がる」と明言している

「パン」を食べて「ワイン」を飲むという慣行を

ほとんどのエホバの証人が禁じられてきたのか?

 

 

たしかに、コリント人への手紙第一11章27節から29節は、

パンやワインを飲み食いするにあたって、自分自身をよく吟味し、確かめるよう求めています。

でもこれは、少し前の文脈を見れば、あくまで晩餐に「不適切な態度」で参加してはいけない

という警告に基づいているというのが明らかです。

 

JW.ORGの エホバの証人について > よくある質問 の

「エホバの証人が主の晩餐を守り行う方法はほかの教会と違いますが、なぜですか」

というページには、

聖書の教えによれば、人の罪は、宗教儀式によってではなく、イエスに対する信仰によって

許されます

と書かれています。これはたしかに一理ある考え方ではあります。

しかし、組織は「主の晩餐」そのものは非常に重要視しており、全信者に参加を求めています。

それなのにキリストの「パンを食べ、ワインを飲む」ことを「記念して守り行う」という命令を多くの信者達に守らせないのは不自然です。

このページの最後は、

地上で生きるという希望を抱くわたしたち(※ここでは統治体ではなく「大群衆」視点になっている)

表象物には預かりませんが、やはり記念式に出席して、イエスが自分たちのためにも犠牲と

なってくださったことに感謝を表わします

という文章で締めくくられています。

しかしこの文面の後に書かれている参照聖句「ヨハネ第一2章2節」は、

「地上で生きる大群衆は表象物に預からない」という文章の理由付けには全くなっていません。

 

「表象物を傍観するだけでも永遠の命を賜る」という解釈を裏付ける聖句は存在していません。

 

信者を「天に召される144,400人」と「地上に残る大群衆」に区分する教理の最大級の問題点。

 

「永遠の命」を意味する「パン」も「ワイン」も食べないけど

「天」ではなく地上死なずに生身のままで永遠に生きる

クリスチャンが存在するなんてことは聖書に書かれていません。

 

 

一方で、統治体を含む「油注がれた144,000人」は、キリストの肉を象徴する「パン」を食べ

血を象徴する「ワイン」を飲んでいます。

その上で、人生を終えたら肉体を捨てて天国に召されるとされています。

これらは、クリスチャンの守るべき慣行、および将来の希望として聖書に明記されています

限られた少数の人々だけが、キリストが教えた通りのルールを適用しているのです。

 

では、「油注がれた144,000人」である統治体は、

 

なぜ、ほとんどの信者に、あえて「聖書の中で保証されている希望」を与えないのでしょうか?

 

なぜ、普通に聖書を読めば誰もが分かるようなことを、信者に教えようとしないのでしょうか?

 

真意までは分かりません。

 

ただ、そこから見えてくるものは色々あります。

 

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どうして「大患難」および「千年統治」の開始時期である「世代」に関する予測を

気軽に乱発してきたのか。

 

どうして予測した時期に終わりが来なかったことで多くの信者が失望するのを見ても

謝罪することもせず、去って行く人達のことを気にも留めなったのか。

 

はじめから地上での永遠の命なんて存在しないと思ってるから

 

新約聖書の教え通り「死後に天に召される」と信じているクリスチャンの多くにとって、

「終末」がいつ来るかというのは人生を左右するほど重要なことではないかもしれない。

パウロに至っては、現生の命にすら執着していません。(フィリピ1章21節ー23節)

 

終わりが「いつ」来るか気が気でないのは、

「終わり」の試練を通過すれば決して死ぬようなことはありません」と教わっている

エホバの証人の「大群衆」の方です。

 

そんな希望が無いと分かっている前提なら、いくらだって間違えられるし反省もしない。

だって他人事だから。

 

 

どうして「永遠の命」を意味する「パン」を食べ「ワイン」を飲む資格すら与えていない

クリスチャンですらないはずの「その他諸々」に、

自分達と「同じ」高い基準を求め、一つの群れの「仲間」であるようなフリをするのか。

 

できるだけたくさんの人間を駒として使い潰すためでは?

 

「羊とやぎ」のたとえを使い、「『キリストの兄弟』である我々の指示に従って

積極的に援助し続けること永遠の命が得られるんだゾ♪」なんて教えておけば、

みんな勝手に馬車馬のように働いてくれるじゃないですか。

人件費タダで営業から信者育成、地元の組織運営までぜんぶ丸投げできるんだよ!

 

地上で生身のまま永遠に生きる希望は聖書中で保証されていない?知ったことか。

 

 

どうして信者が迫害されるようなルールを平気で量産して、ずっと放置しているのか。

 

どうして組織内の不祥事で、支部以下の信者達の立場が非常に悪くなるような状況でも

組織の代表者・管理者として介入し、是正しようとしないのか。

 

どうして「排斥」制度のように信者の人生を大きく左右するような取り決め事でさえ、

体制側にとって都合が良いようにコロコロと変えてしまうのか。

 

 

こういう数多くの疑問を一つ一つ考えていくと

「上」の人間からは

一般の信者達を「救おう」「生かそう」という

建前上の意志すら伝わってこないことに気づく

 

感じるのは利用しようとする無機質な意図だけ

 

教義体系が

私達に未来が「ある」

という前提で作られていない

 

 

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というのは個人的な憶測にすぎません

 

 

いずれにしろエホバの証人の教義体系には、

普通に聖書をベースにして解釈を広げるだけでは

絶対に行きつかないような不自然極まりない代物

あまりにも多すぎます

 

少なくとも「最後の晩餐」の式典における慣行は明確に聖書に基づいたものではないので、

聖書中のキリストの教えを恣意的な目的歪曲させたとしか考えられないんですよね。

 

バプテスマを受けている現役信者さんは新約聖書に何が書かれているのかよく調べてから

自分をよく吟味して確かめるべきなんじゃないかと思います(コリント第一11:28)。

 

「組織がこのように教えているから」という理由ではなく、ちゃんと聖書を熟読した上で

自分の良心に基づいて「体をわきまえた」上での決定ならば、それはそれでいいんですが。

 

この教義だって明日にはあっさり変更されるかもしれないしね。

 

明日は死の記念式です