【番外③】雲と濃い暗闇の日に羊が散らされたあらゆる場所からこれを救い出す 後編 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

前編はこっち

 

今回は、

「神の民」から虐げられ、見放された人々について

聖書がどのように言っているか という話です。

 

 

 

「人の子よ,イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言せよ。

あなたは彼らに,牧者たちに言わなければならない,

『主権者なる主エホバはこのように言われた。

自分を養うとなったイスラエルの牧者たちは災いだ! 

牧者が養うべきものは羊の群れではないか

あなた方は脂肪を食べ,羊の毛を身にまとう。あなた方は丸々と太った動物をほふる。

しかし羊の群れを養うことはしない。

あなた方は病気のものを強めず,病んでいるものをいやさず,打ち砕かれたものに包帯をせず,追い散らされたものを連れ戻さず,失われたものを見いだそうとせず,

かえって,過酷に,それも圧制的に彼らを従わせた

そして,彼らは牧者がいないためにしだいに散らされ,野のすべての野獣の食物となり,

次々に散らされていった。

わたしの羊はすべての山とすべての高い丘の上で迷いつづけた。

地の全面にわたしの羊は散らされ,だれひとりこれを捜す者も

見つけ出そうとする者もいなかった

「『「それゆえ,牧者たちよ,エホバの言葉を聞け。

『「わたしは生きている」と,主権者なる主エホバはお告げになる,

「まさしく牧者がいないために,わたしの羊は強奪にさらされ,

わたしの羊は引き続き野のすべての野獣のための食物となり,

わたしの牧者たちはわたしの羊を捜さず,

その牧者たちは自分自身を養ってわたしの羊を養わなかったので」』,

それゆえ,牧者たちよ,エホバの言葉を聞け。

主権者なる主エホバはこのように言われた。

いまわたしは牧者たちを攻め,わたしの羊の返済を必ず彼らの手に求め

彼らがわたしの羊を養うことをやめさせる

牧者たちが自分自身を養うことはもはやない。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出す。

それらのものは彼らのための食物とはならない』」。

「『主権者なる主エホバはこのように言われた。

「ここにわたしが,わたしがいる。わたしは自分の羊を捜し,これを世話する。

自分の群れを養う者が,広く散らされたその羊の中に入る日に[これを]世話する仕方に倣って,わたしは自分の羊を世話し,

雲と濃い暗闇の日に羊が散らされたあらゆる場所からこれを救い出す

そしてわたしはもろもろの民の中からこれを連れ出し,もろもろの地からこれを集め,

これをその土地に導き入れ,イスラエルの山々,川床のほとり,

その地のすべての住みかのそばでこれを養う。

良い放牧地でわたしはこれを養う。イスラエルの高い山々に彼らの住まいがあることであろう。そこで彼らは良い住まいに横たわり,イスラエルの山々の上で肥えた牧草を食べる」。

 「『「わたしがわたしの羊を養い,わたしがこれを横たわらせる」と,

主権者なる主エホバはお告げになる。

わたしは失われたものを尋ね求め,追い散らされたものを連れ戻し

打ち砕かれたものに包帯をし,病んでいるものを強める

しかし肥えたものと強いものを,わたしは滅ぼし尽くす。

わたしはそのものを裁きをもって養うであろう」。

 

 

エゼキエル34章2節-16節(新世界訳聖書 ― 参照資料付き)

 

 

 

ここから個人の独自解釈

 

 

 

【自分を養う者となった牧者たちは災いだ! 牧者が養うべきものは羊の群れではないか】

 

進学をしない、

部活をしない、

国歌を歌わない、

校歌を歌わない、

格技に加わらない、

恋愛を楽しまない、

祝祭日には参加しない、

未信者の「友」を作らない、

世間一般の娯楽を受け入れない、

迫害されても中立の立場を固持する

 

こういうルールを皆が遵守しているから、

「世」から守られた唯一の清く正しい宗教だ、と彼らは自負してきたのでしょう。

 

組織が制定したルールによって傷つくのは、

ルールを制定した世界本部の人間ではありません

学校と言うコミュニティに所属している子供や若者たち、立場を定める前の研究生、

困難な決定を迫られるのは彼らです。

信者としての経験が未熟な者ほど、課せられたルールで傷を負うことが多いのです

 

ルールは制定する人間の自己満足のためではなく、

それが課せられる人々を守るためにあるべきなのではないでしょうか

世界本部はたくさんのルールを制定する時に、

それを課せられる子供たちがどう感じるかを考慮していたのでしょうか。

なぜ良心上の決定基準を、各自の意思に委ねる器量を持てなかったのでしょうか。

 

 

【あなた方は打ち砕かれたものに包帯をせず,過酷に,圧制的に彼らを従わせた】

 

子供たちはたくさんのルールを課せられて「世」でたくさん辛い思いをしましたが

親達は、子供たちに対して更なる過剰な重圧を課しました。

物心がつくほど幼い時から「懲らしめの鞭」を使って事あるごとに厳しく打ち叩き

「従順に従わなければエホバに虐殺される」という死の恐怖を刷り込み続けました。

神の愛(多くの場合はキリストの贖いの犠牲)に惹かれて神に従うようになったのに

その神の名前を利用した「脅迫」「暴力」による一方的な情操教育を行いました。

 

 

【羊は散らされ,だれひとりこれを捜す者も,見つけ出そうとする者もいなかった】

 

「世」と「家庭」の双方で傷つき続け、「神」と「親」に対する恐怖から

高すぎる目標を目指して走らされていた若者たちは、

力尽きたり、嫌になったり、心を病んだり、組織から追放されて散っていきました。

陰鬱な記憶が心に沁みついている場合、もはや帰りたいとは思わないでしょう。

 

世界本部は長い間ハルマゲドンでは自分達だけが救われると教えてきましたが、

居なくなった人達のことを見向きもしませんでした。

 

使徒パウロはこのように言っているのに。

 

私たちはキリストの代理をする大使であり,

あたかも神が私たちを通して訴え掛けているかのようです。

私たちはキリストの代理としてこう懇願します。「神と和解してください」。

 

コリント人への手紙第二 5章20節

 

傷を負ったまま大人になった人たちの訴えが報道により日本中に拡散されてもなお、

彼らは自分達が子供たちを傷つけたことを否定し、愛も憐れみも示しませんでした。

彼らの側から和解を申し出る最後の機会を、彼ら自身が、躊躇いも無く捨てました。

 

 

 

【わたしは牧者たちを攻め、羊の返済を彼らの手に求め、羊を養うことをやめさせる】

 

神様は、イスラエルの牧者のような者達を必ず断罪するという決意を表明しています。

牧者を名乗りながら羊を大切に愛すことすらできない役立たずは無用と言っています。

 

 

【雲と濃い暗闇の日に羊が散らされたあらゆる場所からこれを救い出す】

 

神様は、イスラエルの「牧者」ではなく「羊」を必ず救い出すと約束をされています。

神様に断罪された「牧者」が生き残り、「羊」だけが滅ぼされることはありえません

【わたしは失われたものを尋ね求め,追い散らされたものを連れ戻し,

打ち砕かれたものに包帯をし,病んでいるものを強める】

 

ここで注目すべきは、

神様は、虐待され放置されてきた者たちが「何を思い」「何をするか」に関わりなく、

みずから彼らのことを見つけ出して、みずから埋め合わせをすると宣言されています。

「自力で戻ってこい」とさえ言われていないのです

 

探し出し、救い出し、導き入れると言っています。

 

 

知人に勧められて

再び聖書を読むようになったことで、

なぜ子供の時にずっと怯え続けていたのか、

なぜ大人になってもずっと苦しみ続けていたのか

理解することができました。

 

福音書のキリストの人物像は、

自分をずっと脅し続けて縛り続けてきた存在とは何もかも異なっていました。

 

私は、エホバの証人というフィルターを通した神の姿しか知りませんでした。

人間が作った規則のために、罪悪感に潰されたり神を恨んだりしてきました。

 

エホバの証人の教え方が、神様のことも聖書のことも嫌いにさせていたのだ

ということをはじめて認識できた時に、

十代の時からずっと心の中にまとわりついて離れなかった陰鬱な負の感情――

不安感、緊張感、拘束感、反発心、焦燥感、恐怖感、虚無感

そういう巨大な塊がゆっくりと瓦解していくのを感じました。

 

今はもう子供の時に刷り込まれた教えそのものに苦悩することはありません。

見向きもしたくないほどトラウマだったものも今は意に介さず向き合えます。

 

人を苦しめて傷跡を残すだけの「良いたより」は偽物と信じているからです。

そして

人間依存したり従属することは、救済とは関係ないと知っているからです。

 

 

・・・・・・というかんじで

私は聖書そのものによって長年の呪縛から解かれたのですが

宗教2世が宗教と決別するに至る経緯というのは人それぞれ全く違いますし

正直なところ、私のようなタイプは非常に少数派ではないかと思っています。

そしてもちろん、宗教被害に対する向き合い方も人それぞれ異なりますので

被害者の方々にキリスト教への入信や改宗を推奨する気は一切ございません。

 

 

ただ、宗教の教えを信じたまま離れた方は少なからずおられるとも思います。

それに「組織の中に留まっていない」「組織の教えに従っていない」ことで

漫然とした不安感を拭い切ることができない方もおられるのかもしれません。

 

本人が元いた宗教こそ真理であると信じている上で、

戻れるものなら戻りたいと心から願っているのなら、戻れば良いと思います。

 

しかしそれが幼年期から強いられ続けてきた強迫観念によるものだとしたら、

もしかすると、教わったことが「ただしかったのか、まちがっていたのか」

みずから答えを出して確信に至ることで解消の見込みがあるかもしれません。

 

そういう方が身近におられたらエゼキエル34章を教えてあげてほしいです!