【番外③】雲と濃い暗闇の日に羊が散らされたあらゆる場所からこれを救い出す 前編 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

俺は神のことが嫌いだ

お前を知ったから不幸になった

 

家族の皆から祝福されて生まれてきたはずなのに

ふんだんに愛を受けて宝のように大切にされていたはずなのに

ビデオの中の記憶には無い幼い自分はあんなにも幸せそうに笑っているのに

 

あの女が家に来てから何もかもが壊れていった

 

いつも怖かった

神が怖かった

大患難が怖かった

でも何よりも親が怖かった

 

親が喜んでくれるのは嬉しかった

周囲から評価されれば褒めてもらえた

がんばって自分の身の丈を超えた背伸びをした

すると次からはそれをやらないと必ずぶたれるようになってしまう

ハードルは青天井に上がり続ける

愚かな自分は気づけなかった

 

もしもあなたを失えば私は楽園で永遠に嘆き悲しみ続けるという言葉が幼心に突き刺さっていた

親を悲しませることがなによりも怖かった

 

辞めることが死と同義だと分かって辞めた

五年先の未来はないと本気で信じていたから捨て鉢に自暴自棄に未来を捨てた

欲をぶちまけ続けて現実逃避し続けて目先の恐怖をまぎらわし続けた

なのにまだ世界は終わってない

今さら取り返しがつかないのに

 

もし普通の家庭に育っていたら

人並みに青春を送り 人並みの大学に行き 人並みの仕事に就けたのだろうか

なにもかもが宗教のせいでないのはわかっている

でもなにもかもを刈り取ったのは俺ひとりだけだ

やつらは今日も駅前で看板掲げて阿呆面晒して能天気に笑ってる

 

今思えば一切合切すべて嘘っぱちだったのだろうか

だけど本当に神がいるんなら

遠くない未来になにもかも終わる

そしてやつらだけが勝ち逃げするんだろう

 

じゃあこの命が与えられた意味は何だったんだ

お前のことさえ知らなければ幸せなままでいられたはずなのに

どうしてたったこれだけの短い人生をぐちゃぐちゃに踏み潰しやがったんだ

 

もう生きることは苦痛でしかない

死のうとして死にきる根性が無かったから生きているだけだ

でも全世界の人間が恐怖と絶望で錯乱し狂乱する地獄絵図の中で

中身をぶちまけたまま野晒しにされる死に様だけはごめんだ

だから今すぐ死なせてくれ

神ならそのぐらい簡単だろ

 

俺は神のことが嫌いだ

お前を知ったから不幸になった

 

 

 

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私は、元々はエホバの証人の教えを信じるのを辞めて組織を離れたのではなく、

エホバの証人としての信仰を持ったままの状態で心が壊れたために離れたので、

一時期エホバの証人の組織に再帰することを真剣に考えていたことがあります。

 

その頃は、子供の頃の体験や、宗教が自分の人生に与えた影響について、

自分の心の内でそれなりには折り合いをつけていました。

 

しかし、幼い子供の身でに親から教わるのと

成人して社会を経験した身で改めて自主的に学ぶのでは

まったく同じ内容でも、受け取る認識が大きく変わっていました。

 

たとえば、誕生日、正月等の祝祭日に関わる行為を一切合切否定していることは

理不尽としか思えなくなっていたし、個人としては従う気にもならなかったけど、

信者としてはそういうルールを年少者や新しい人に教えていかなければならない。

自分が理解できないことを、形式的とはいえ他人に要求するのはいかがなものか。

 

終末の「野獣」「大いなるバビロン」などの予言も納得できなくなっていました。

だから「啓示の書――その偉大なる最高潮」の該当箇所を改めて読み返したけど

非客観的な悪感情に基づいて悪のレッテルを貼っているようにしか思えないので、

どこまで信じていいのか分からないし、それを人に教えて良いのかも分からない。

 

もっとも、この手の悩みは

「納得いかなくても、理解できなくても、従順に従いなさい」

の一言で片づけられてしまうのは容易に想像がつきます。

 

そんなことより気になったのが、組織を離れた2世と呼ばれる人々の存在でした。

 

インターネット上で「被害者達の声」の存在を知るようになるよりもずっと前から、

そこに記されている体験談と同じような話を、上の世代から直接聞かされているし

自分自身も、自分が知る限り同世代の中では最も厳しい環境で育てられていました。

だからインターネット上の「被害者達の声」が決して背教者の嘘偽りなどではなく

ありのままの事実だと言うことは分かっていました。

エホバの証人の組織がこの問題に一切向き合おうとしないことも気にしていました。

 

では、組織を去った人達は自ら「悔い改めて」組織に戻らなければ救われないのか。

「エホバ」の名前を使って制限を課され、

「エホバ」の名前を使って暴力を振るわれ、

「エホバ」の名前を使って決定を強要されて、

「エホバ」の名前を使って身内との関係を断たれた人が、

どうして「エホバ」の証人のもとに「自分の意思で戻ろう」などと思えるだろうか。

 

「エホバ」はそのような人々を矯正不能な悪人として完全に消滅させてしまうのか。

そんな神の支配する楽園に、一体何を期待すればよいのだろうか?

 

こんな悶々とした悩みを、現役の古参信者である旧知の知人に打ち明けたところ

想定外の、単純明快な回答が返ってきました。

 

「だったらエホバの証人の出してる出版物じゃなくて、聖書だけを読んでみろ」

 

そんな彼から読むように勧められた聖書中の一章は

これまで自分の中にどっしりと根差していた「エホバの証人」に対する向き合い方を

根本から大きく変えるものとなりました。

 

次回、その章の紹介をさせて頂きたいと思います。