なぜJWの体罰「だけ」が注目の対象になるのかっていう話 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

なぜ「エホバの証人だけが昔の体罰のことで批判されるのか」

と疑問視する意見を、まれに見かけることがあります。

 

鞭を使って身体を叩くという折檻が、日本で一般的だったかどうかはともかく、

激しい痛みを与える体罰そのものは、平成初期までは普通に行われていました。

 

今の時代、

教師が学生に対して跡が残るほどの傷をつけたり、

(部活中の指導や『連帯責任』などの)理不尽な理由で手を挙げたことが発覚すれば

懲戒処分まで覚悟しなければなりませんが

昭和の教育の現場では珍しい光景では無かったと聞きます。

体育会系の世界ではそうした特色がより顕著で、

上下関係の理不尽そのものが日常という環境もありました。

 

だから、エホバの証人の「懲らしめの鞭」はあの時代の特有の風習にすぎず、

エホバの証人「だけ」の問題ではない、という考える人もいるようです。

 

しかし、たくさんの「2世被害者」達が被害を訴えるため行動に出ており、

「虐待行為」として報道がなされ、行政まで動き出す自体になっています。

 

そこで、何故エホバの証人だけが特殊なのか

という基本的な疑問について考察していきたいと思います。

 

これは実体験などに基づいた主観も混じっていますので、

他の宗教2世被害者の方々にとっては納得しがたいと感じるような考え方が

含まれているかもしれないことをあらかじめ申し上げます。

 

体罰そのものが問題と言うより、

体罰が行使された理由背景と、

体罰がもたらした「結果」の方が、

被害を大きくした本質的な問題である

と私は考えています。

 

鞭で叩く行為は健康被害に繋がるとする医療上の見解はありますが、傷跡を残すほど激しい暴力を振るう親や教師は他にもいました。

今の時代はいかなる理由があっても体罰が良くない指導方法とみなされているのは重々承知の上ではありますが、

私個人としては過去に家庭や教育の現場で行われていた【正当な理由のある】体罰については、否定的な印象を持っていません。

 

 

まずは、体罰が行使された理由と背景について。

 

エホバの証人が鞭を使って叩く状況というのは、

子どもが他の子をイジメたとか、物を壊したとか、盗んだとか、

そういうよくある悪事に対する仕置き、

または一般的な道徳上の観念を教え諭すためではなく、

エホバの証人の組織が設ける独自の戒律に関わるものが多かったといえます。

 

あくまで私個人の話をすれば、小学生の時に

人様や身内に迷惑をかけるような「やんちゃ」をして

激しく叱責された記憶は一度もありません。

帰宅途中に道に迷って門限を過ぎてしまい親に心配をかけた時も、

叩かれることはありませんでした。

 

叩かれた理由として覚えているのは

 

ドクロマークのグッズを買ったことがバレたとか

 

ピストルを模したオモチャで遊んでいるところを見られたとか

 

王国会館の集会で歌われる「賛美の歌」の声が小さかっただとか

 

他の会衆から「愛とあいさつ」を携えてきた人(訪問講演者など)に

自分から近づいて挨拶をしなかったからとか

 

伝道が長引いて見たいテレビ番組が見れなくなりそうなとき

(週に3回だけ、親が認めたテレビ番組の視聴を許されていた)

親に「はやくおうちにかえりたい」と口走ってしまったとか

 

そういうたぐいです。

 

エホバの証人は

「そんな理由で子どもを叩くようになんて教えてないゾ!?」

とおっしゃられるかもしれません。

しかし、上に挙げたような原因はいずれもエホバの証人の教えや活動に

関連するものであり、

そもそも親がエホバの証人の研究司会者から

「懲らしめの鞭を控えてはなりません」と体罰を推奨される前までは

モノを使って叩かれたことが一回もありませんので、

私自身について言えば「懲らしめの鞭」を受けたのはエホバの証人だったせいであり

元から暴力的な親だったとか問題ある家庭環境では無かったというのは断言できます。

 

叩かれた理由のほとんどが、エホバの証人の教えや活動に関係する。

これは多くの2世信者も同じではないでしょうか。

 

私の幼少期より少し前までの時代は、

集会中にうとうとしたり、時計の方を見るなど集中力を書いてしまった小さな子供が

連れ出されてトイレで叩かれるケースは多かったと聞いています。

週に3回、1時間半以上も座ったまま難しい話を聞き続けないといけない、

ここまで子どもを拘束する宗教は、日本にはそうそうなかったでしょう。

かなり昔の話ですが、子供の時に民家の2回で「書籍研究」に参加していた時

ある母親が2歳にみたない子どもを下の階に連れて行ったあと

異常な絶叫断続的に響き渡りました。たぶん叩かれたのでしょう

その年齢では良い悪いを聞き分けることも難しいと思うのですが

叩くことに意味があるのでしょうか?

 

同じ時代を生きた子どもとは置かれていた条件が違います。

エホバの証人であるからこそ日常的無意味に叩かれたのです。

エホバの証人の集会、伝道などの活動は子どもたちを長時間拘束し、

親達は、組織の定める厳しい制限事項に基づいて

宗教上の理由を除けば)何も悪い事をしていない子供に対して

繰り返し鞭を振るったので、

エホバの証人2世は、同世代の多くの子どもたちにとっては無縁である

様々な重圧を受けて育ちました。

体育会系の世界に自分の意思で入っていった若者達とは違います。

親が信者になった瞬間に、否応なく逃げ道のない理不尽を強いられたのです。

 

 

次に体罰がもたらした結果について話します。

 

私は、懲らしめの鞭を受けることで罪が消えるのだ、と親から教わりました。

鞭の前の「お説教」は三十分から長くて一時間以上、

大抵は感情的に大声で怒鳴られ続けるわけですが

途中でヒートアップすると怒りのテンションが上がるようで

最初に宣告されていた鞭の回数が二倍、三倍と増やされることもありました。

 

で、私の親はそれをどうも善意のつもりで、

子どものことを思ってやっていたようなのです。

 

たしか龍がモチーフのキャラクターが書かれたプリントを持ってたのが

咎められた時だったと思うんですが(龍は悪魔サタンだからという理由)

 

いま悔い改めないと!!

 

いま大患難がきたら!!

 

ほろぼされるんだ!!!

 

と、熱を込めて脅されるんですね。

 

私が子供の頃は

1914年を経験した世代が残っている間に終わりが来る

という解釈がされていた時代であり、

その計算でいくとハルマゲドンまでの猶予がほとんどありませんでした。

 

だから長老や巡回監督が「年代計算上あと10年は無いですね」

みたいなことを堂々と口にしていたし(今から20年以上前の話)

私自身も二十歳を迎える前に大患難が来ると本気で信じていました。

 

親も大患難が間近に迫っていると考えていたからこそ、

子どもを守るために必死で熱心な指導をしたのかもしれません。

 

その必死熱心さは、過剰怒り制限という言動に繋がり

それによって強烈な恐怖心を味わい続けた側には

異常な仕打ちを受けたという記憶が残ります。

 

 

「あなたの家庭が特殊なだけでしょう」

と思われるかもしれません。

実際、自分と同じような経験をした2世が自分ひとりだけだったとしたら

私はエホバの証人の組織に責任がある、と非難することはしませんでした。

 

でも私の知る信者の先輩方が受けた仕打ちは

自分の体験とは比較にならないレベルだったことを知っています。

 

鞭の強度を上げるために

ゴムホースの中に針金を入れて補強するだとか

 

所定の回数を叩きたいけど時間が無いので

ゴムホース数本たばねて一気にぶっ叩くだとか

 

親の皆様は懲らしめの鞭の威力の探究に熱を燃やされていました。

 

最も厳しい世代に育てられた先輩からは、屋外で吊るされた、なんて経験も聞きました。

ただ、一番つらかった仕打ちは叩かれることではなく

親からひたすら無視されること(排斥のことではなく小学生の子供へのしつけ)

だったようです。
明らかに異常な人間が「個人」として行った闇が深すぎる事例は紹介しないでおきます

そんな時代に育った先輩方の前では

私の家の事情などなまぬるいレベルでしかありませんので、

子どもの頃の実体験を語ることはなるべく控えております。

 

いずれにせよ、

子どもを懲らしめる行為そのもの

これほどの熱心さを示したことで知られている

宗教はほとんどありません。

 

そして。

 

そういう環境で育った子供たちは

「叩かれるのが怖いから」

「神に滅ぼされるのが怖いから」

という恐怖心により、

親や組織の求める要求に自ら従うようになります。

 

親や組織から教わったことを、頭では「正しいことだ」と

思い込むまでは至っていても、

実質的には幼少期から体験し続けた痛みに対する原始的な恐怖心

他のすべての選択の余地を封じているのです。

 

そして親元を離れたり、自活できる年齢になり、

自分自身の意思決定ができるようになった頃に、

それまでの自分の人生に選択肢が与えられていなかったことに気づきます。

 

それを早い段階で気付くことができれば、

「子供の頃の被虐体験」だけで済むかもしれません。

 

しかし、それに気づかないまま親や組織の言われるがままに自分を捧げ続けた場合

はっと自我に目覚めたときには、人生そのものの取り返しがつかなくなっています。

 

そして、その段階になって宗教と決別するには、

信者の身内と絶縁する覚悟をしなければなりません。

子供の時からずっと宗教活動に人生を捧げてきたけれど、二十代半ばで離れる意向を証明した時

「裏切り者―――!」と親から罵られた人がいました。

 

 

・・・・・・

たしかに、今と昔では子供に対する教育方針、

とくに体罰を含むしつけに関する基準は大きく異なります。

今の感覚で昔のことを批判するのはおかしい、と思う人がいても決して不思議はありません。

ただし。

 

宗教2世の虐待問題は、

過去において一般的だった体罰とは一線を画します。

宗教2世は同世代の一般家庭では無かったような不必要かつ過剰ストレス

自分の意思に関係なく強制的に課され続けたのです。

 

そしてこれは、「幼少期の辛い想い出」にとどまらないことがあります。

特殊な環境にいた期間が長ければ長いほど、後の人生への影響は大きくなります。

親子の関係も破壊されます。宗教に侵されるまでは幸福だった家庭もあるのです。

これらはエホバの証人という宗教の特有の問題です。

私たちは宗教上の決定を強制されたことで苦しんできました。

 

この苦悩は外部の一般の人が共感したり、理解できるたぐいのものではありません

一般社会から隔絶された、閉鎖的で特殊で歪なコミュニティの中で起きたことだからです。

断片的な情報しか知らない人々からは

多少厳しい家庭環境で、多少の体罰があっただけなのに、一体なにが問題なんだ」

ぐらいにしか思われません。

だから当事者自ら声を上げて解決を求めるしかないんです。

そうしなければ、被害の大小にかかわらず、皆が泣き寝入りするしかないんです。

 

 

一部の被害者達が勇気を出して、自分の実体験や、それに対しての自身の率直な想いを

インターネットや書籍を使って吐露するようになりました。

やがて同じような過去を持っている人達の多くがそれに共感し、

賛同の声を上げる人が増えていきました。

彼らの声はキリスト教とは無縁だった人達にも届き、広まっていくことで

エホバの証人が「子供たちに対して行ってきた仕打ち」そのものが組織の特徴として

一般に知れ渡るようになりました。

 

それでもエホバの証人の組織は、不都合な事実に向き合おうともせず、放置してきました

どうしてこんな事態になるまでほったらかしにしてたんですか

そしてエホバの証人とは無関係な宗教2世被害者が起こした事件により話題が飛び火し、

マスコミを通じて被害者達の悲痛な叫びが報道されることで、

エホバの証人の組織が行ってきた所業が日本中で赤裸々に知られる事態となりました。

 

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは白く塗った墓に似ている。

外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 

このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。

 

マタイ23章17節、18節(口語訳)

 

表に出さずに積み重ねてそのまま放置してきた汚点が、臨界点を超えてあふれ出しています。