外国人がたくさん世界中からやって来て、神の国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに席に着く | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

今回は2世問題ではなく、教義の話。

 

私がエホバの証人の教義の中で、最も違和感を抱いた教義の一つは、

クリスチャンが「天的な希望を持つグループ」と「地的な希望を持つグループ」に

二分されるとみなす解釈です。

 

真偽を確かめるべく新約聖書と読み比べて検証を試みた結果、

この教理には聖書的な根拠がないという確信が強化されてしまいました。

 

しかし「油注がれた14万4000人」や「大群衆」の定義については、

先駆者の方々が説得力のある根拠に基づく反証を挙げてくださっていますので

後回しにするとして、

 

まずは、キリスト以前のアブラハムやダビデのような善人達が天的な希望を持たず

地上の楽園に肉体を持って復活するという教えについて、考察を書いていきます。

 

最初に福音書の聖句を紹介します。

 

やがて、この人のような外国人がたくさん世界中からやって来て、

神の国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに席に着くでしょう。

ところが、神の国はもともとイスラエル人のために準備されたのに、

多くのイスラエル人が入りそこねて、外の暗闇に放り出され、

泣いてくやしがることになるのです。

 

マタイによる福音書 8章11節、12節(リビングバイブル)

 

前提として、旧約聖書と新約聖書は以下の違いがあります。

「旧約」つまり古い約束は、元々イスラエル国民のみを対象とする契約。

「新約」つまり新しい約束は、

民族や国民を問わずキリストを信じる者を対象とする契約。

 

イエス・キリストの活動期間は、

「旧約」から「新約」に切り替わる間際の時期でした。

キリストは、イスラエル人が国民として持っていた「特権」を失ってしまい、

イスラエル人以外の他国民に希望の道が開かれることを予告しています。

 

では、イスラエル人の多くが失い、他国民に与えられた「特権」とは、

「天的な希望」「地的な希望」果たしてどちらなのでしょうか。

 

上述したイエスの言葉を聞いた当時のクリスチャンが、

後に天国に召される希望を持ったことは、新約聖書によって証明されています。

 

わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、

すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、

わたしたちは知っている。

コリントの使徒への手紙二 5章1節(1955  口語訳)

 

しかるに、あわれみに富む神は、

わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、

罪過によって死んでいたわたしたちを(中略)よみがえらせ、

共に天上で座につかせて下さったのである。

エフェソの使徒への手紙二 2章4節-6節(1955  口語訳)

 

しかし、わたしたちの国籍は天にある

そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、

わたしたちは待ち望んでいる。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、

ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう

ピリピ人への手紙 3章20-21節(1955  口語訳)

 

そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。

あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、

思いみるべきである。ヘブライ人への手紙 3章1節(1955  口語訳)

 

古代イスラエル人という国民だけに与えられていた特権が、

民族の垣根を超えて、世界中の人々に機会を差し伸べるものに切り替わったのは、

イエス・キリストの死後すぐです。

そして、その変化を体験したとされる「1世紀当時のクリスチャン」は、

キリストの追随者だったイスラエル人東や西からやってきた大勢の人も、

天国に召される希望を確信していたことは確かです。

 

彼らが「神の国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに席に着く」のなら、

普通に考えればアブラハムとイサクとヤコブは天国にいるのではないでしょうか。

 

エホバの証人が、

キリスト以前の善人達は天的な希望を持たないという教理の根拠として挙げている

聖句については、次回の記事で検討してみたいと思います。

 

 

・・・ちょっとだけ追記・・・。

 

イエス・キリストは、「金持ちとラザロ」のたとえ話の中で、

アブラハムを登場させています。

 

この貧しい人がついに死に、

御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。

金持も死んで葬られた。

そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、

アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。

ルカ16章22節、23節(1955  口語訳)

 

キリストは、「アブラハムが天国にいる」とは明言していません。

しかし、貧しい人は死んだ後に、み使い達によってアブラハムの元に連れていかれ、

悪い金持ちは死んだ後に違う場所にいく、と言っています。

このアブラハムは概念として存在するのではなく、意思を持って色々と喋ります

 

善人(?)の死後の行き先の「良い方」にはアブラハムが待っているのであれば、

アブラハムが遠い将来に地上で復活すると考えるのではなく、

天国もしくはそれに近しい場所に「居る」と解釈する方が妥当ではないでしょうか。

 

もしそうでなければ、イエス・キリストがたった一つのたとえ話をするためだけに

アブラハムや善人・悪人の死後の行き先について真っ赤な嘘を言って、

後の時代の人々に誤った解釈をさせたという結論になってしまいます。

 

ちなみに、エホバの証人が発行した刊行物の

「これまでに生存したもっとも偉大な人」

および「イエス 道 真理 命」ではいずれも、

富んだ人はキリストの時代のユダヤ人の宗教指導者達のことを指し、

ラザロはキリストの追随者になった貧しい人たち を指している、と解釈しており

ラザロと金持ちの境遇の逆転は、古い「旧約」が新しい「契約」に切り替わった頃

明確になったという見解を示しています。

そしてキリストの死後まもなく、追随者達は天的な希望を持つようになりました。

 

だったらアブラハムがいるのも、同じ天国のはずです。