「座って半畳寝て一畳」の3ヶ月。 | H2のブログ

H2のブログ

ブログの説明を入力します。

鬱の診断から3ヶ月。



あれ以来ずっと、


リビングの窓際に座椅子と毛布と枕。


朝晩の犬の散歩と

わずかな家事と

トイレと風呂と

1日1食の夕食。


それ以外はずっとそこに居る。



タバコは不味くなって吸えなくなったから

コンビニに行く用事もなくなった。


社会との唯一の接点はたまの通院だけ。



日中はぼんやりと何かを思ったり

YouTubeの誘導瞑想をしてみたり

スマホを眺めてみたり、

同じような1日の繰り返し。



テレビは映像と音

音楽や本も音と活字

大通りや店は看板や商品のラベル

人はその方の表情や想い。

それらによる感覚飽和で混乱するから

どれも受け入れるのが難しい。

最近はSNSのニュースも辛くなってきた。



夜は抗うつ剤を飲んで

同じ場所で眠りにつく。



「座って半畳寝て一畳」



座椅子の上では必ず、

腹からみぞおち、胸の痛みと

時々の腹から耳までの動悸が

しんどくて、

右掌を

服の下に潜らせて

目一杯広げて胸の中央に置く。


そうしないと'居る'ことも苦しい。



もう半年ほど続く痛みや動悸には

何か意味があるのだろうが

今の私にはわからない。



「ただ受け入れる」



しかないのだろう。

いつかは無くなるのだろうから。




「睡眠薬は止めた」



眠りに落ちる前にまどろんだ覚えもなく

翌朝、

突然魔法が切れたように叩き起こされ、

同時に突然眠りに落ちていたことに

気づかされる。


すなわち

眠っていた時間が感じられないから、

止めた。



無職で引きこもりであるが故に

できることだと思う。


毎日の仕事があれば

確実に眠らなければならないから。

15年前がそうであったように。


贅沢な選択かもしれない。



けれど

それはそれでやはり

眠りは短く浅いような気がする。

二度寝をしてしまうから。


それでも段々と

眠れない焦りと

深夜の覚醒に嘆くことは

少なくなってきている気がする。



一方で、

毎晩のように'明晰夢'を観るようになった。


時には空を飛んだり

行ったことのない街だったり

誰かと何かを話したり、

そんなことができるのか

そんなことをしてたのかと、

ハッとさせられる。


8Kフルカラーの3Dで

話も行動も

現実よりはるかに自由に意志が効く、

リアルな世界の中に自分がいる。


眠りが浅い証拠なのかもしれないけれど

睡眠薬による睡眠よりは

私にとっては自然な眠り。

昔から明晰夢ばかり観てきたから。


夢の中はいつも

現実の世界に比べて

よっぽど自由で直感にあふれ楽しい。

寝起きにあの夢は何だったのかなと

思い返すひとときがささやかな喜び。

結局意味は何も分からないけれど。



この人生、

私は日々夢の中に遊ぶことで

現実逃避をして、

なんとか現実世界の苦しさとの

バランスをとっていたのかな...。




「無為に思える毎日」



つい、



「何のために生かされているのだろう」



という思いが湧き上がる。



一方で、



「気力、意欲、興味が湧かない」



のも事実。



過去の経験や記憶がほとんど

自発的に思い浮かばない。



相変わらず、



「空っぽ」



の自分があるだけ。



なのに、

静かで穏やかで豊かさに満ちた心地よさを

感じるのはなぜだろう。


毎日の季節の移り変わりや天気の変化、

昼と夜のコントラスト、

田んぼと広い空の美しさ、尊さ。


50を過ぎて初めて知った。



妻やこどもたちは普通に接してくれる。

犬は座椅子の近くに寄り添ってくれる。

過去も未来も黙っていてくれる。



「ありがたい」



そう思うと

辛かった今までの経験も

それらがあったからこそと、


今こうして

こういう感覚を抱けるのは、

自分の善悪も幸不幸も含めて

全てがあるべくしてあったと

全てがなるべくしてなったと、


反省することばかりだけれど、

感謝の気持ちが溢れてくる。





「自分を愛せなかった

 自分を許せなかった」



だから承認欲求に振り回された。

だから自己犠牲を繰り返した。

他への依存と自分への虐待が、



「誰かからの虐待として現れ続けた」



人生だったのかもしれない。



さらに言えば、

物心つく前の幼少期からの

親族による精神的虐待の体験が、

自己否定をし続ける

インナーチャイルドを

育ててしまったのだろう。


そして彼が

いつも同じ行動パターンを

生み出したのだろう。


過去世のカルマまでは分からないけれど。




「愛と光」



の存在の顕現とは何だろう?




もし私がこの今も



「在る」



とするならば、



「それ以外は何も残っていない」



のだから。



神さま仏さま。

後生です。


どうか見させてください。

どうか体感させてください。

それらのもとに働かせてください。


私にはもうそれしかないのです。




「委ねます」



改めて。





今日もありがとうございます。