何だった?30年間の仕事人生。 | H2のブログ

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'就職氷河期'の始まりだった。



その直前の'バブル景気'の恩恵は

奨学金を借りながら

バイトで稼ぐ貧乏学生の

身には無縁だった。


なのにバブル崩壊とそれに伴う

雇用調整のための就職氷河期の

影響はもろに受けた。



在籍していた大学の研究室が

とある消費財メーカーと

共同研究をしていた関係で、

教授の力により

'コネ'入社させていただいた。


本当にありがたかった。



しかも大学で専攻していた

植物生産に関する研究が

入社してからもできるという。



これまで'頑張った'努力が

報われたように思えた。



ところがいざ入社すると

配属先が研究部門ではなかった。



「?」



バブル景気下の

事業多角化の試みであった

植物生産に関する事業部門は

バブル崩壊と共に



「なくなった」



と聞いた。




それどころか

この試みで始めた関連事業から



「撤退する仕事」



を担当することになった。



始めた矢先だったので

実に小規模な商売であったものの、


関連事業撤退の業界への宣言と、

取引の完全終了までの期間の

受発注を始め技術対応などを行う、

顧客対応全般を担うことになった。



撤退する事業部門に

'使える'人材や経費が

あてがわれる訳はなく、


他の業務を主とする上司の下

実務は徐々に新入社員の私に

引き継がれ

集約され

いつのまにか1人きりになっていた。



技術的な作業を伴うことから、

この時点でやっと

研究部門に配属されたが、

将来性のある前向きな研究開発業務に携わり

チームで和気藹々と仕事をしている

同僚たちが眩しかった。



入社の行き掛かり上

文句を言える立場でもなかった。



始まりは穏やかで

受発注業務のようなルーチン業務ばかり。


さすがに時間を弄ぶようになると

新たな研究テーマの調査・企画の

仕事を割り当てられるようになった。


新入社員が業務を覚えていくには

ちょうどいいくらいの業務内容だった

のかもしれなかった。




けれどもこの時もまた、

今思えば

それまでの人生と同じく、

状況は

苦行に身を投じなければならないものに

変わって行った。




事業を立ち上げる時に

撤退する場合のことなど

何ら想定されていなかったのだろう。



後に知ることになったが、

私に業務が引き継がれる直前に

急遽、

人や経費がかからぬよう

商品の製造、品質管理、供給体制が

大幅に簡素化されていた。

或いは問題が中途で放棄されていた。



'先の無い仕事'から

先輩たちは蜘蛛の子を散らすように

我れ先にと逃れ、

声を上げても誰も振り返らなかった。

過去の資料から個人を特定して尋ねても

'もう忘れた'は合言葉のようだった。

必要な資料すら'処分'されていた。



'ずさん'の一言だった。

’沈む船もろとも'を避けるべく

皆自分の身を守るのに必死だった。

そのツケは当然の如く現れた。



ある時

納品した商品に対するクレームが来た。

稀なケースとして教えられていた通り

代替品の発送で対応した。


しかしながら

このクレームは何度も繰り返し、

かつ複数の顧客から同時に

舞い込むようになった。



原因を探ったところ、

この商品は冷凍品であったが

冷凍耐性を失っていることがわかった。

お客様の手元で解凍され使用される際に

生化学的な活性が無くなり

使いものにならなかった。


改めて起源生物の育成から

商品の製造を試みたものの、

何度繰り返しても

最終製品の冷凍耐性は復元しなかった。


生物自体の性質が

保存中に変わってしまったのかもしれない。

これを後に公の理由とした。


けれど、実のところ

工程の簡素化の際に

長期間の冷凍耐性があるかどうか

本当に確認できていたのかも疑わしかった。



「どうしようもなくなった」



上長に状況を報告すると

この商品の供給を早期に

切り上げることになった。



少数ながら

日本全国のお客様を一軒一軒伺い

直接お詫びをして回った。


会社として最後の誠意を尽くせるのは

私しかいなかった。




それがひと段落した頃、

別の商品で品質不良疑惑が立ち上がった。


量は少なかったが

単価の極めて高い商品だった。


これが品質規格外であった場合、

過去に納品した分まで遡ると

総額で億単位の損失になることが見込まれた。



「ぞっとした」



お客様、製造委託先との3社間で

様々な項目について協議したが、

誰も落とし所を見出せず

協議はいつも紛糾し

徒に時間が過ぎた。



埒のあかない話し合いの内容から、

根本的な共通認識から

確認せねばならないことを理解した。


蓋を開けてみると、

問題となった

品質規格自体やその測定方法・条件の

全てが曖昧で、

3社間で統一されたものがまともにない

ことがわかった。


先ずは

品質規格の定義から測定方法・条件の

再設定、統一、合意を行うことになった。



納品先と上長は合格品を供給できる

'確率論'を持ち出して

この問題の結論を急いだが、

規格内外の判定はともかく、

直近の納品分の品質が低下していることは

明らかだった。



私は若気の至りかもしれなかったが、


自社の過失の有無を客観的に捉えること、

お客様への良品の供給責任を果たすこと、

を鑑みて



「確率論ではない」

「原因があるはずでこれを改善すべき」



と正論を吐いた。



帰社すると上司からは

'丸く収めたいんだ'

と諌められ、呆れられた。




公言した以上、

地道な検証をとにかく積み重ねた。


共通認識の詰めと製造現場の検査を通して、

規格品質は3社間で統一した方法によって

過去分を含めて

全ての納入ロットが'合格'であること、

品質の低下傾向は製造委託先の

工程管理不良によって生じたこと、

を明らかにし、

その改善によって品質を

元のレベルに戻すことができた。



こうして

その他の商品も含めた

'過去の遺物'にかまけて

いつのまにか5年ほどが経ち、

事業撤退がやっと完了した。



すべての備品を廃棄し終わって

ふと顔を上げて周りを見渡すと、

メインストリームの業務や人は

全く別の景色になっていた。


向こうから見ると私は

'この人は何をやっている人?'

だったに違いない。



「浦島太郎」



この5年ほどの間、

何日も何週間も連続する徹夜や

月数百時間の残業や休日出勤を

せざるを得なかった。


実務担当は私1人だったし

お客様がいらっしゃったから。




初職がこれだったからなのか、

初職で流れに乗り損なったのか、

私はこの後もずっと

何か問題が生じるとその解決のために

あてがわれる役回りとなった。




ずっと、



「解決できて、当たり前」

「解決できず、役立たず」



と評された。




発生する問題は様々な分野の事象で、

取り組みはいつも

ゼロからのリセットだった。


いきなり始まると

可及的速やかな解決が求められた。


解決できれば他者に引き継いで即終了、

できなければ別の手段に回避し即終了。


いつも付け焼き刃で終わり

専門知識やキャリアを積むという

手応えはついに得られなかった。




約30年間、

早朝に起きて

片道2時間の通勤、

若い頃は午前様は当たり前

家に帰れないのも当たり前

休日出勤も当たり前、

歳を重ねても

家に帰れば21時や22時。

食事と風呂と睡眠だけ。



「24時間タタカエマスカ」

と問われ入社した時代。


「24時間タタカワサレタ」

長い買い手市場の時代。



趣味に興じる時間もなく

仕事を忘れる時間もなく

思考を止める時間もなく

休日は寝倒す。




昇進することもなく、

友人ができるわけでもなく、

家族を大切にできたわけでもなく、

ただひたすらに仕事上の

責務を果たすことが

あなたの存在価値と洗脳され、

半年毎に評価を下され一喜一憂し、

パワハラや無視という'OJT'による

2回の鬱と長期の休職を経験し、

挙げ句の果ては

非管理職への早期退職勧告。


さらには

転職と3度目の鬱による失敗。


無職。




「勤勉であれ忠実であれ耐え忍べ」

と世の中に組み込まれた。

集団の構成部品であった。




けれど、

時代の枠組みが変わると

もはや、

当時の価値観の先に描かれていた




「'上がり'は無かった」




今となっては



「30年間の仕事は何だったのか



'職歴、職能、ノウハウ'とは?

'積み上げた'人生とは?



全くわからない。

心当たりがない。

手持ちがない。





残っているのはただ一つ、


心の



「空っぽ」



何にもなくなって

むしろすっきりしたのかもしれない。




明日を考えなければ。





今日もありがとうございます。