それでも変わろうと思った。 | H2のブログ

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中学まで運動が苦手で

コンプレックスを抱いていたから

高校では運動部に入ろうと決めていた。


自分の意志と決断と努力で

幼少期からの

もやもやとした劣等感を埋めたかった。




希望した高校ではなかったが


それでも自分はここで




「変わろうと思った」




硬式テニス部。



熱血顧問の指導というか命令の下

毎日徹底的にしごかれた上

終礼後には必ず

誰かの何らかの罪による全体責任として

グラウンド10周という

罰が与えられた。




高校からの運動部デビューはきつかった。

センスに乏しく

技術の上達も遅く

試合に加えてもらえることは

ほとんどなかったけれど


ひょろひょろだった体は

幾分かしっかりし始めた。

努力とその継続の結果を自覚して

ささやかな喜びを見つけた。




けれども

学年が上がるにつれ

学業との両立は困難を極めるようになった。




基礎体力がなかったから

帰宅すると疲れで

すぐに眠たくなってしまう。


勉強机に向かっても

気がつくと床に入り朝になっている

ことばかりだった。




何も知らずに入学した

超スパルタ進学校は

戦慄するほど




「異常だった」




高校野球は学業の妨げになると

野球部自体がなかった。



文化祭の主催者は教師だった。

生徒はこれに'参加'した。

いや、させられた。



体育教師による風紀取締は

精神論といじめと体罰だった。


自転車通学の者にヘルメットの着用を

義務付けしない説明が

意味不明な

'心にヘルメット'

だった。


水泳の授業で

水着に着替えてプールサイドに集まると

'遅い、水泳は中止、陸上体育に変更'

と教室へ戻り着替えさせられる。

運動場に集まると

'やればできるじゃないか'

'水泳をやらしてやる'

と着替えを命じられる。

再度プールサイドに集まると

このやりとりを何度となく繰り返された。

挙句プールに入れたのか覚えていない。


全校集会、学年集会では

何か問題が起こると

後から明らかになった場合の

より重くなる罪と罰を匂わせながら

'関与'した者を

過剰に自己申告させ

体育館の舞台上に一列に正座をさせ

男女の別なく

端から殴り倒した。


教室で教師に少しでも歯向かおうものなら

他の生徒への見せしめに

その生徒は

机と体と椅子ごと足蹴にされ

吹っ飛ばされた。




入学レベルが低い割に

現役進学率が高い理由が分かった。



各教科が競うように、

予習と復習に加えて

絶望的な量の宿題を課した。

一晩で数ミリの厚さになるページ数。

問題集は次から次へと購入させられた。


毎授業

机の順に問題の回答が求められた。

即座に答えられなければ

起立させられ次に進められる。

何周しても間違えたり答えられない者は

授業中ずっと起立させられたままだった。


予習、宿題をやってこないことは

教師達にとって問題外だった。

バレればその場で叱責され殴り倒された。

もちろん授業中は起立したまま無視された。



テストに出ない、

例えば漢文の'詩吟'に

興味深く耳を傾けていると

隣の教室から数学の教諭が乗り込んできて



「そんなものが受験に必要か!」

「それで大学合格率が上がるのか!」



国語の教諭は生徒の前で罵倒された。



おかしな教育方針に

生徒目からも明らかに抵抗している、

'高校生なら受験以外に考えることが

あるはずだ'との想いを持った、

若い'まとも'な教諭が

学校の中で年配教諭たちに徐々に弾圧され

短期間で異動していったこともあった。



校外の実力試験や模擬試験が

やたらと多かった。


進路指導のトップは

あまり知識のない生徒達から見ても

明らかに

教員とは思えないほどの

高級なスーツと靴と時計を

身に纏っていた。

自家用車も校長より高級車だった。



このシステムの裏側で

教師達の地位や金が動き

それらによるモチベーションも

存分に働いていたようだった。



親達も魅力的な

'進学塾通いは必要ありません'

'現役合格させます'

という謳い文句と引き換えに

何も言わず'こども'を差し出した。



だから生徒達への要求と圧力とそのレベルは

ハンパないものになっていた。

脱落は'彼等の為'に許されなかった。



罵倒と体罰を恐れ、

毎日の勉強は

クラブ活動を終えて帰宅し、

手短な風呂と夕食の後

すぐに着手され、

毎晩0時からの'ジェットストリーム'と

早朝3時からの'歌うヘッドライト'の

オープニングで時間の経過を知るのが

日課であった。

窓の外が白んでくると

'今日も終わらなかった'

とため息をつき諦め

数時間の床についた。



今でも明け方の白む空が

'できなかった自分'

の象徴として

トラウマになっている。



それでも逃れられない義務と

逃してしまった場合の容赦のない罰が

翌日に用意されている夜は

荷造り用のビニール紐を持ち出して



「椅子に自分自身を固く括りつけ」



知らぬ間に床に伏せて寝ることを防いだ。


体に食い込むビニール紐が痛かった。

常軌を逸していたというか

もはや狂っていた。



そこまでしても

'普通'に努力できない自分が恥ずかしく

できない自分に'開き直る'こともできず

常に競争相手であった

クラスメイトにも相談できなかった。



高校に入って本当にしたかったのは

将来自分のしたいことを

学んだり考えたり体験して

その先の進学や学校を定めることだった。



けれど

現役進学率の向上への貢献を

個々の義務であり責任とされ、

'浪人'は罪であり手も差し伸べられない

先輩達への扱いを見せつけられ、


進路指導では自分の偏差値から

受けられる範囲の学校

受かる範囲の学校

を探し選ぶことだけが

命題になってしまっていた。



教師も親にもそれが当たり前とされていた。


私だけがそうだったのか

皆同じだったのかわからないけれど

それ以外の視点を持つ力を失っていた。




ここにもまた



「優越的立場にある者たちによる

 恐怖と不安を通した

 精神的支配と彼等自身の利益への利用」



という構図があった。




それでもひとり

最後に



「あがいた」



この高校に入学したように

またしても自分の意思と関係のない学校に

入学する後悔を繰り返したくなかった。



大学便覧を隅から隅まで読み込み

少しでも自分が今後取り組みたいと思える

学部や研究室のある大学を探した。



受験は自分が希望する遠方の大学と

学校と親が期待した地元の有名大学の

2校とした。




希望する大学からの合格通知があった後

地元の有名大学の合否発表を見に行った。


'合格'だった。


目の前で喜ぶ学生たちを前にして、

喜びと悲しみが打ち消しあったような

心が二つに分離するような

訳の分からない心境で立ちすくんだ。



家に帰ると父から

'うちには下宿させる経済的余裕はない'

と告げられた。


そう言われると薄々分かっていたし

後年父に問い正したことだったが、

これは

地元の有名大学の方が

就職に有利なことを分かっていたから

そこに入学させる理由に過ぎなかった。




父母は彼等自身が描いた

'子育て'の方針どうりに進む

'こども'に満足だったかもしれない。




しかし蓋を開けてみれば、

あの超スパルタ進学校から

同じ大学に進んだ同級生達は、

皆一様に

突然の自由に戸惑い

自らの意志を持って人生を拓く

ことにつまずいた。


ある人は破滅的な活動に没頭し

ある人は自傷行為を繰り返し

ある人は居場所を見出せなかった。


私も牢獄からの突然の解放の反動で

ただただ刹那的に遊び呆けた。



これも

私が度重ねた



「間違った努力」



の結果の一つだった。





今日もありがとうございます。