写真に残っていない記憶。 | H2のブログ

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農作業をする祖母の背中。


紐で✖️印に

きつく縛りつけられている

幼子。


手足はだらりと力なく。

苦しげに顔は横向く。

重い頭が垂れている。

虚な目。




「そんな写真は残っていない」




アルバムには

もっと良い写真がたくさんあるのに

自分の一番幼い頃の記憶として

思い浮かぶ唯一の光景。



50年前

戦後昭和

高度経済成長期。


山奥の寒村に

その恩恵が届くのは遅かった。


夜間高卒の父も

中卒の母も

都会に出て

一億総中流の夢を追いかけた。


団塊の世代。


憧れの団地住まいの抽選に当たったことを

誇らしかったと嬉しかったと言っていた。


僕と妹は暗くなっても帰ってこない母を

階段の入り口の前に座って待ち続けた。


父は僕たちが起きているうちに

帰ってくることはなかった。



団地はいつも噂話と自慢話に溢れていた。

こどもの成績や習い事の数

良き母の振る舞いと趣味と教養

優れた父の会社と職種と肩書きと昇進

マイホームへの引越し

或いは海外赴任という成功。


親たちはいつもそんな話ばかりをして

乗り遅れまいと

置いて行かれまいと

うちもうちもと

こども達は親の競走に

いつも巻き込まれた。



マイカーを手に入れて

まだ舗装もされていなかった

長い長い山奥の砂利道を

父は私を連れて毎週のように実家へ通った。

「おばあさんが喜ぶから、早う。」

の一言はいつも強要だった。

パーキングエリアの自動販売機

不味いハンバーガーだけを楽しみに変えた。




「父母に寄り添う記憶がない」




3歳の頃

父が私を連れて山奥の実家へ。


帰り際

祖母は私を置いておけと父に命じた。

そのまま約半年の間

私は人質となり置き去りにされた。


父が私を迎えに2,3度足を運んだが、

祖母は私を渡さなかったという。



祖母は母を目の敵にしていた。

その一挙手一投足にケチをつけ

罵り否定した。


父は祖母の機嫌をとるのに執着していた。

時にその為には母を侮辱した。


母は極力祖母を避けた。

このことは

祖母に囲われた私からも

離れることを意味した。



その構図は物心がつくときには

当たり前のものになっていた。



父、母、3歳頃の私、赤子の妹と

家族で父の実家に行ったとき

祖母をはじめ父その兄弟姉妹たちによる

集団での無視という陰湿ないじめに

母は赤子の妹を抱えて実家を飛び出した。

私を置いて。

国道まで走ってヒッチハイクをしたという。



母が被害者であることはわかっていた。

父はどちら側かずっとわからなかった。


僕が言うことを聞かなければ、

いい子にしていなければ、

母がもっと酷い目にあう。

妹ももっと酷い目にあう。


否定的な感情や意志を完全に封じ込めて

置かれた状況を敏感に掴んで分析し

求められる回答や姿を探し出して

そうふるまうことに全力を注いだ。



自分をペットのように扱う祖母や叔母には

決して抗えなかった。

一方でなぜか

厚く好意と感謝を示すべき対象であった。

父母はそう教えた。


祖父は額縁の中にしかいなかった。

同居する父の異母兄と実弟は

父と同様に

その場にいても終始無言だった。


嫁姑の問題を遥かに超えていた。

一人の独裁者と

その取り巻きと

傍観者と

犠牲者。



どれほどに裏で他人を嫉み蔑んで

表では敬意と感謝を慇懃に表す。


来客の前中後における彼等の姿の

豹変ぶりは見事でさえあった。


大人というものが信用できなかった。


それらをいつも黙って

絶え間なく目にし耳にしながらも

僕と妹はいつも

心で泣きながら

彼等に対してできるだけ精一杯の

純粋な愛で尽くさなければならなかった。


幼なすぎて

自分の表裏はまだなく

それを使い分ける術などなかった。


大人たちの

建前と本音の違いを知る由もなかった。



'毒祖母'、'毒親'

そんな言葉を知ったのはまだ最近のこと。





今日もありがとうございます。