***前回の記事、その1より続きです***
稲葉宿から「つしま道」で津島神社に向かう途中です。
名古屋城下から清洲を経て羽島市にむかう八神街道と交差する交差点に大きな馬頭観音道標があります。
例によって花崗岩なので読みにくいというか馬頭さまのお姿までわかりにくくはありますが、
文字は大きいく何とか文字はたどれそうなので、しゃがみこんで指で文字をなぞって解読を。
右津嶋道
左なごや
何とか読めました。
写真では全く見えませんね笑。
ところで他に何か書いていないか(建てた年とか)横に回ってみると光背の横にも文字が!
読みづらいですが・・・読めた、「西やがみかいどう」
こちらは・・・「北一ノ宮道」でした!
石仏道標では珍しい四方向の道案内!
現場では大発見だとメチャテンション上げてましたが、「近世以前の土木・産業遺産」にしっかりと書かれていました笑。
はなみずき満開。
などと稲沢市は植木の町なのでこうして郊外に出ると木をたくさん育てていて緑が多いのですがそれでも最近は徐々に減ってきました。
以前はケーンと鳴くキジを見かけることも多かったのですが最近はあまり声を聞かなくなってきています。
お菓子の自販機、これはなかなか良い充実のラインナップです。
不法入国指名手配の花の中では群を抜いて華やかで美しいオオキンケイギク。
消失区間が続いてましたが三宅川の堤防に登ります、対岸に道標があるのを知っています。
この堤防道路は東西南北の向きが多いこの地区の道を川沿いでナナメにぶった切る、現代でも稲沢から津島に行く直線最短ルートなので普段から何度も車で通っている道です。
それでは道標を・・・。
民家の玄関の真ん前で不審な行動、ちょっと落ち着きませんが・・・。
東 ☜ つしま いせ
この旅にピッタリの道標ではありませんか。
「東」といういちばん上の表示は現地の方角を記しているもので、指さしの方向は南を指しています、伊勢津島は堤防の道をそのまま南へ行けという事ですね。
南のお地蔵様の面は
国府宮 こまき
国府宮は稲葉宿近くの国府宮神社を指しています。
西 ☜ 一ノ宮 あさ井
一宮市浅井町の地名が出てきました。
江戸時代から浅井万金膏という薬で有名なこの地のことは、3年前に「古地図で散歩あざい訪問」で散策して書いています。
北面は・・・文字が小さく摩耗や汚れで読めませんが
北、の下には建立年などが書かれているようです。
図書館で調べると慶應三年のものとのことでした。
これはなかなか味わい深い道標です。
しばらくは堤防道路を歩きます。
走り去る車はまあまあ飛ばしてます。
しかしまあ自分もここを走るときにはまあまあ飛ばすな・・・今日はあんまり文句を言えません笑。
途中から並行する集落内の道にエスケープします。
このお寺さんの標柱も紀元二千六百年の記念でした。
以前から気になっていた、堤防を車で通るときに見かける観音さまを見に行きます。
矢合観音と同じように観音さまのありがたい井戸のお水を自由に汲んで帰ってもOK、とのことです。
さて堤防道にピタリと並行して進む道、もう少し進むと井堀下郷という集落です。
白山社という神社前に読み取れないけど「右」という文字だけなんとか読み取ることができる小さな道標があるのをストビュー下調べで見つけていました。
どれどれどんなかな。
右 一の宮 二リ三十丁
距離まで書かれているとは思いませんでした。
そして横にも文字がありました!
つしま 一リ十八丁
なんとこれも津島への道標なのでした!
嬉しい発見でした。
常夜灯も街道的に大きなものがあります。
これは失われた鳥居の脚の部分ですね。
埋もれている部分、かなり深いですね。
テンションアゲアゲで進みますが集落内を通る道は堤防道に合わさってしまいました・・・。
また堤防道を歩きます、のんびりは歩けないな~。
ここも観音さまのお寺、このあたりは観音さま推しなのですね。
あ、またこちらも皇紀二千六百年の標柱です。
今日ここまでで三つ目です、どれだけ大イベントだったんだ、皇紀二千六百年。
渡ってよいのかいけないのかわからない橋。
三宅川沿いの長福寺というお寺のある橋詰の交差点。
ここから三百メートルほど西に入ったところにある神社に立ち寄ります。
写真左側、奥にある神社とかなり離れていますがここにもう社標が立っています、屯倉(とんそう)社とあります。
小さな神社ですがその言い伝えはこの旅では重要な神社です。
中に入ると蚊が多い・・・続きます。