お伊勢参りの旅⁈その3、勝幡街道編、津島神社目指して屯倉社~津島。 | 歩いて走って登って、毎日ビールか日本酒。

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***前回の記事、その2より続きです***

 

三宅川の堤防の道を歩いてきました。

屯倉(とんそう)社という神社を目指して少しだけ西にコースアウト。

長福寺の横を通って矢印の場所までトコトコ歩きます。

 

小さな、普通よりも簡素なくらいの神社です。

 

鳥居の脚だけが立っています。

 

解説があります・・・。

江戸時代の尾張名所図会に津島の牛頭天王ははじめはこの場所だったけど洪水で流れて津島に移ったのでここが現在の津島神社の元宮だと書かれているとのこと。

地名の三宅(ミヤケ)は大和朝廷のこの地域の領地の蔵である屯倉(ミヤケ)からの地名だとのこと。

・・・などが書かれています。

江戸時代にはここが今の津島神社(当時牛頭天王社)の前身があった場所と広く信じられていたという事でしょう。

実際、少し離れた津島上街道に「三宅村牛頭天王道」という道標が残っていますから、当時も津島牛頭天王社参拝途上に立ち寄りで来る参拝者はいたのでしょうね。

津島神社のHPでも書かれている屯倉社からの神事が現代まで続いているのは元宮の証拠ともとれます。

そういう説が伝わっているのはやはりこの地が三宅として古代には重要な地だったようです。

 

境内にいくつも残る石は礎石だったのでは・・・という考えもあるようです。

違ったとしても巨石信仰は全国共通ですし。

 

 

この石なんてどうなったんでしょうこの割れ方。

 

 

無事これから向かう津島神社の元宮参拝を済ませて、コースアウトした地点の長福寺に戻ります。

「牛頭山」というところからもどうみても津島神社&屯倉社に関係ありそう。

「屯倉社の別当職として寺院形成されました」とHPにも書かれています。

 

仁王門。

 

お顔はリアルな造形ですが体は力強くも独特の表現です。

 

 

さらにすぐ先にある神社、伊久波神社、普通の神社にしか見えませんが式内社、実は由緒ある歴史ある神社なのでした。

 

今はどこにでもある景色なのですが、いろいろ集まっているのはやはりいにしえにはとても重要な土地だったんでしょうね。

三宅川をさかのぼるとすぐに尾張国府エリアですし。

 

屯倉社のある場所の地名は「舟附」、偶然かもしれませんが三宅川に沿った重要地だったと考えるととてもそれらしい地名です。

 

堤防道路は狭くてキケン、神経を使うし見どころもなくまたまたコースアウト。

Googlemapで見つけた東城のクスノキを見に行ってみます。

八幡さんがあって、ここかー。

理由はあれども今は近所のお寺や神社の立派な木も払われまくってかわいそうな姿になっていることがとても多くて、ちょっとホッとします。

 

巨樹を写真で表現するのは難しいね~。

これはまあまあうまくいったかな?(当社比)

 

 

勝幡城跡近くまで来ましたが今日は急ぐので立ち寄れません。

 

ここでずっと堤防を歩いてきた三宅川は日光川に合流します。

ここのなんもない殺風景な河川敷の地名が面白いのです。

 

日光川は江戸時代に掘削された人口の川です。

日光川と三宅川、二つの川の力をソフトランディングさせるため合流部は細長くこんな地形になってます。

この先端のとがった地形の地名は「猿尾」、江戸時代、川に突き出す堤防に付ける猿尾堤防からの由来と思われます。

その北にある勝幡城跡あたりの「城之内」という地名も注目地名です。

 

もひとつおまけに「猿尾」の西、これから歩く街道に沿った旧堤防の地区は「古堤」。

地名ってホント面白いな!と思える地名がてんこ盛り、歴史ある地域です、このあたり。

「地名は歴史の化石」とはうまく言ったものですね!

 

日光川を渡ると勝幡街道は津島上街道と合わさって津島へと向かいます。

高須への街道も分かれて巡見街道も通り、江戸時代は交通の要衝だこのあたり。

 

「古堤」のエリア。

 

その名のとおり旧堤防道なので今でも街道沿いだけ周囲よりも一段高くなっています。

街道沿いにこの先も古堤地名がいくつか続きます。

 

街道歩き名物ともいえる(いやどこにでもあるか笑)スポンサー付きのとびだし注意看板。

お店の場所、「津島街道」という表記からすると・・・。

この手のとびだし注意看板の中では古いものなのかと思われます。

 

流石の津島街道、勝幡街道あたりとは違うよとばかりに街道的香りが絶賛増量中。

 

釜地蔵寺。

その名のとおり鋳鉄地蔵菩薩さま。

 

 

お、お馴染み石物寄進スリートップのひとり「キヨス本町 柴山藤蔵」さん寄進の常夜灯があります。

 

次に現れたのは「津田正生宅址」の石碑。

津田正生さんとは?

・・・幕末の地誌家、郷土史家でこの街道沿いに茶席を設けていろんな旅人の話を聞いていたとのことです。

ここで茶席を設けてたのかな?

登山好きの先達でもあり富士山や白山、立山、播隆上人より少し遅れて槍ヶ岳にも登っているとは!

お花とお茶碗、お墓みたいに見えますが違います笑。

 

古民家が増えてきたよ。

 

わずかに離れてて見落としがちですがここに道標。

自分もここ初めて歩いた時は見落としました。

 

☜津島道。

裏面も同じように津島道。

 

右 名古屋

左 森上一宮 道

ちょっと向きがおかしくなってるかな。

 

かっちりフォントでもわかるように時代的には新しめの物です、大正二年七月のものでした。

 

さらにすぐ登場は、これはとても有名なものなのですが、「是より西つしま」の道標。

そりゃ西は津島なんですけどなんか違和感あるよな~。

普通はこの後に「領」がつくのが国境とかにある領界石の表現なのですが、津島は尾張藩の中の町。

ここが津島の町の入り口という事なんかな?同じような「是より東」のものもあったのかな?

下に「道」とかもう一文字くらい埋もれているんかなとか考えてしまいます。

後ろにある「六合庵正生翁之碑」はこれも先ほどの津田正生さんの記念碑、もしや茶席はここ?

 

何はともあれ、道標に書いてあるとおりいよいよ津島の町に入ります。

津島神社まではもうすぐ、続きます。