木曽三川の大トリは揖斐川です、大垣大橋を渡れば大垣市に入ります。
やっぱり結構長い。
新幹線とはほぼ並行してここまで来てますが、竹鼻道はまだくっついていきますよ。
橋を渡ると、街道復帰点は平の常夜灯もあったとおりもう少し川下、新幹線の線路あたりです。
この堤防あたりは明治の河川改修で揖斐川の付け替えがあり、
平の集落の大部分と共に竹鼻道も消滅してしまった区間なので堤防に沿って平行移動します。
堤防下の集落内。
この標語久しぶりに見た!
「注意一秒怪我一生」も最近見ないです。
通学路の表示。
うーん、現代では二人とも危ないよと注意されそう。
女の子のながら歩きだし、男の子もバット持って歩いてたら間違いなく振り回すし。
新幹線のあたりまで来て堤防に上がりつつ振り返ると、あれ、堤防上にお堂があるのが見えます。
・・・怪しい。
ここまでの道標地蔵さまの多さ、お堂はやはり見逃せません。
もしやと思われるので、引き返しますか~。
水神様と、大神宮常夜灯、お堂はお地蔵さま、道標地蔵さまではありませんでしたが手を合わせます。
あれ、常夜灯とお堂の間に角石、これは道標!
左 大がきみち
右 竹ヶはな道
引き返してきて良かった笑。
おそらくこれは元々はお地蔵さまの台の部分だったと思われます。
このお地蔵さまも昔は街道の路傍に野ざらしで立っていて、前を通る旅人を見守っていたのでしょう。
のどかな揖斐川の堤防の道にたたずむお地蔵さま、後ろには養老山地と伊吹山、いい景色だったろうな~。
大きく引き返しましたが再び進みだします、新幹線をくぐると一見右の道のようですが、旧道は矢印の道。
そう、河川改修でぶった切られる形の道なのでいきなり堤防の中途半端ところから始まります。
下を見ると今日初めて見る馬頭観音さまが、なぜだかこちらを向いてます。
そういえばこのあたり、馬頭観音まったく見ません。
同じ濃尾平野でも違いますね、うちのあたりは馬頭さまってかなり多いです。
こんな倉庫も最近は減ってきました。
このあたりは直線的に。
うわ、最近はもう絶滅したと思っていたコピーです。
おそらく今後も見ることは無いと思われます笑。
今日のたばこ屋出窓。
タイルと漢字の「煙草」の文字がいい味出してます。
そろそろ右に曲がるころかなと地図を見ながら歩いてると、角に小さめの角柱発見。
右 大垣
左 竹ヶ鼻
控えめな道標でした。
学校道、とは珍しい。
通学路だったのかも?
あまり読めませんが「御大典」とうっすら読むことができます、昭和初期の物かなと思われます。
角を曲がると対面の角にもなんと道標地蔵さまのお堂があって驚き。
左 竹が鼻道
右 大がき道
今日はお賽銭がたくさんいる日ですがうれしい悲鳴なのです。
新幹線とまたまた絡み合う竹鼻道。
川の土手にもヒガンバナが満開。
春の桜、今の時期のヒガンバナ、もう少しすると紅葉。
そんな時期に歩くのはやはり楽しいです。
また次の輪中に入る橋を渡るともう何度くぐったかわからない新幹線高架をくぐります。
長かった新幹線の並走もここまで、竹鼻道は一路大垣に向かいます。
江戸時代も駒塚道、竹鼻道は美濃路経由よりも大垣までの距離が短いので多くの人が歩いた、というのは、新幹線にガッツリ沿っているコースが証明してますね。
名古屋京都間はは東海道新幹線ではなく中山道新幹線というのがホントですが、厳密にいえば岐阜羽島駅あたりは竹鼻道新幹線なのでした。
街道ウォーカー的には大垣のランドマーク、ソフトピアジャパンが見えてきました。
行ったことないけど。
これが見えると大垣着いたなーと思います。
白いヒガンバナ。
大垣市内にかなり近くなってきました。
お堂のお地蔵さま、こちらも道標地蔵さま。
どう見ても竹ヶ鼻大垣。
お地蔵さまありがとう、もう大垣も近いからこれで最後かな。
そして横に置いてある丸石。
右 竹ヶ鼻と書いてあります、自然石道標なのでした。
はちみつ屋さんがありました。
ちょっと興味ありましたがはちみつを消費する習慣がないし。
工場の資材の中に埋もれるお地蔵さまのお堂、メタリックな機械感のあるかわったお堂でした。
うわあ街中でも自然に帰りつつある家。
ああまた学校の中に・・・。
安井小学校の裏を通ります、敷地内になんだか石物の石柱がありましたがなんだかわかりませんでした。
道標なのかな?
気になる気になる。
右手に立派な大聖堂が青空に映える!
結婚式場なのですが。
安井小学校を過ぎてもうほぼ大垣市街地ですが、橋を渡ると、あれ、またまたまたまた道標地蔵さまが。
右 つしまミち
左 竹がはなミち
ここにきてかなり距離のあるまさかの津島の地名が出てきて驚きでした。
明治の地図を見ても、このお地蔵さまの「つしま」がどのルートを指しているのかまったく読めません。
大垣から津島までって、その間木曽三川や佐屋川他大小の河川が網の目のように分かれ分かれて流れ散らかしているのです。
一度「古地図散歩」や「今昔マップ」で見て想像してみて下さい。
渡し船に乗りる回数を考えると、木曽川と長良川の合流地点より下流の高須街道回りかなぁ。
いよいよ大垣の市街地に入ってきました、道を渡るのにも一苦労。
街道あるある、細道の街道が大きな交差点をぶった切る、いや、ぶった切られる変則六差路登場。
こういうの、街道が街中に入るとよくありますよね。
個人的には袖壁があれば古民家認定。
貸し車庫?
いろはに、が渋いー。
ほらほらそこはかとなく宿場町的になってきました。
ツバメ靴。
調べてみました、広島化成という会社で、現在はダンロップのシューズの会社です。
地蔵堂への石標。
これは風格ある看板。
岡部京染問屋さん。
大垣の町は城下町であり宿場町でもあり、やはり西濃では一番大きな町です。
これもレトロな「三井薬店」の木製看板。
こちらの角のお店は昔は大きな看板でもっといい感じだったのを、街道歩きの先輩がたの写真で見てました。
このあたりから、竹鼻道のゴールをどこにするか考えてました。
まあ美濃路に交わればいいんですが、、どうするかな。
橋を渡るとなんか石物があります。
竹田橋の親柱でした。
迷っているうちに、美濃路にある、問屋場跡の角に出てしまいました。
ゴール、でもいいのですが、美濃路上にあった元町道標が起点、終点、とする情報もあったのでそちらもちゃんと押さえます。
元町道標、復元なのですが、この「左江戸道」というのが竹鼻道経由を指しているらしいのです。
ここでゴール、駒塚道、竹鼻道完歩です!
この道標から入る道もきっちり歩いて先ほどの角のお店まで歩きフィニッシュ、竹鼻道、完歩です。
締まりのないゴールでしたが、うろうろ迷っていたので古い看板のお香屋さんを偶然に見られました。
水路の上のお堂。
大垣は他の町なら暗渠にしてしまうような水路を塞がずそのまま残しているように感じます。
元お堀の大き目の水路からこんな狭い水路まで見える水路が多いように思います。
橋の親柱保存が好きなのも、「水の都大垣」の誇りなのでしょうか。
これも立派な親柱だし。
このまま大垣駅から帰ってもいいのですが、大垣には酒蔵があり〼。
今回はJRの線路より少しだけ北にある、「渡辺酒造醸」さんに行ってみることにしました。
駅から東に歩くと昭和的な商店街です。
美濃路のときに見に来ました、岐阜町道標。
歩いていた時にはなんも考えてませんでしたが・・・。
これに「北 たにぐみ道」とあるのです。
線路をくぐると・・・。
シャッター下りてるけどこれも昭和的。
この長屋商店アパート的建物を過ぎて交差点を渡ると道が狭くなり、あれ?
前触れもなくなんだか急に街道的になりました。
これはサプライズです、ワクワクします。
安田屋さん3階建て、いや、2階建てですよね。
でも、中2階ぽい真ん中のガラス窓の中はどうなってるのでしょうか?
激しく気になります。
畳 うすい 少しだけ可笑しかったのです。
ああこれはいい雰囲気になってまいりました。
昔からの集落に多い民家的建物の郵便局でこれもまた〇。
の隣の看板建築も!
2階の洋風建築感、1階の昭和タイル感、いいね。
お店の名前、解読できず。
Googlemapタイムマシンで見ると、〇〇蒟蒻店とは読めました。
さらに歩きつつグルグル周りを見渡しつつ楽しく歩く街並み。
花村製油さんの店先。
ホーロー看板まで!
調べ調べ・・・。
星印の胡麻油は主に業務用のようですが、九鬼産業という会社で、現在も同じマークで営業中です。
豊年天ぷら、サラダ油は、豊年製油、現在は3社統合でJーオイルミルズという会社になっています。
右下にも見切れているホーロー看板が・・・。
「三ツ星ベルトタイヤ」
お隣の自転車屋さんの看板です。
ツンツンツノダのテーユー号、ツノダ自転車看板が!
こちらも調べると三ツ星ベルトさんは現在も工業用ベルトなどに業務を広げていました。
なんとツノダは現在は不動産投資会社になっているとか、驚き。
通りの右に目をやると、「岡田防水布店」という渋い屋号が。
元々は中山道の鳥居元宿柿渋雨具看板があるお店と同業の江戸期の雨具屋さんですが、
防水具やテント、シートの手を広げて現在も柿渋染小物などを販売して活躍中のお店のようです。
そして店先になんか石柱のある何かがありますね・・・。
びっくりここでまさかの明治天皇の足跡が!
「明治天皇御召替所跡」
思わぬところでお会いしたものです、解説板があるので読んでみます。
明治11年の明治天皇巡幸の話、詳しいHPがありました。
いろいろ重要な情報がてんこ盛りの記事です。
明治天皇は本陣で宿泊、後出立ここで道が狭くなるので、この合羽屋岡田屋さんで馬車から板輿に乗り換えたときにひと休み、という場所でした。
2012年のストリートビュー写真は、まだ合羽屋と大書されてました。
板輿ってのは吊り下げ形の駕籠ではなく持ち上げ式の御神輿みたいな形の輿のこと。
そしてこの大垣の岐阜町から北に出て中山道経由で岐阜町に向かう道は大垣では「岐阜街道」と呼ばれていたらしい!
この解説板、昭和9年製なのか?
この近くの神社に「林町道標」という道標が移設保存されているとのこと。
その道標にはこの先の分かれ道のもので岐阜方面が右、谷汲方面が左と記されているとのこと。
さっきの「たにぐみ道」はこの道かー!
先ほど見てきた大垣駅近くの愛宕神社に移設保存されてるたにぐみ道と記されていた「岐阜町道標」は元々は美濃路とこの「岐阜街道」の分かれる場所(おそらくは武内酒造さんか大垣別院あたり)にあったのですね。
やはりこの道は立派な「街道」だったのでした、明治天皇が通るくらいですからね!
明治の地図によるとこの先は昔は左右に道は分かれていて直進は新しい道のようです。
新しい道沿いのお寺に石標が・・・池田恒興公の墓地があるのか、いや、板碑?だけなのか。
谷汲巡礼街道の池田町にお墓はあったのを見ています。
すぐに今日最大の目的地に着きました。
美濃錦醸造元 渡辺本家 渡辺酒造醸さんです、直売所あり〼。
しばらくお話してお酒を一本選びます。
いい街を見た後大事なお土産を手にして保冷バッグに収納、弾むようにお帰りします。
しまった、奥の黒壁の蔵の部分の景色を見てきてなかったか!
流石今はテント屋さん、帰りには記念碑の上の屋根テントが巻き上げられていて、石碑が見やすくなってました。
時間が少し押していたので急ぎ大垣駅に、珍しく北側の入り口から入りました。
ログ。
★は道標地蔵さま。
電子地形図25000(国土地理院)
竹鼻道、信じられないくらいの数の道標地蔵さまが竹鼻に導いてくれる道でした。
距離の近さから抜け道近道的にそれだけたくさんの人が歩いた道だったのでしょう。
何といっても直線的な新幹線とほぼ重なるルートですから。
人が考えるのは今も昔も同じです。
大垣から北に延びる明治天皇が通った「岐阜街道」と「北たにぐみ道」が気になる笑。
県道にトレースされてるっぽいですがいつか見に行ってみてもいいかも。
さああとは放置中の谷汲巡礼街道をかたずけないと、雪が降る前に。
お土産は、
美味しくとっくにいただきました。