「今回は諦めたら。」 | 発達障がい児のアーティストへの道

発達障がい児のアーティストへの道

ずっと音大にこだわっていましたが、子どもの夢が、アーティストになりたいとなったので、ブログのタイトル変えました。
よろしくお願いします。

注意欠陥ぎみのアラフィフの母親と、自閉症スペクトラムの10歳の娘との日々を書いています。

娘は、この春情緒の方の支援学級の4年生になりました。


新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。


元旦の突然の地震、びっくりしました。

私の住んでいる地域でも、揺れました。

こちらは、大した被害はなかったのです。

被害にに遭われた方々に、お見舞い申し上げます。


私は、この地震が起こる数時間前、旦那とるぅちゃんに、

「自由時間をいただきます。」 

と宣言して、うちを出て、映画を観に行きました。


いつもの元旦は、私の実家で過ごすのですが、今年は父が熱を出してしまい、実家に行かずにすんだのです。


私は、原作を読んで気になっていた「正欲」か、原作は読んでいなかった「月」のどちらか悩んで、お正月そうそうに「月」を観てきました。


「月」は、本では読めないと思ったからです。読み終わる間、もう無理ってなってしまうと思ったからです。


映画が終わったあと、いろいろと今までのことを思い出したり、単純に観て良かったなぁと言えない感じでした。


思い出したことの一つ  


るぅちゃんを妊娠中、7ヶ月ぐらいのときに、子宮内発育不全ということで、入院するように言われ、


入院についての説明が、主治医の若い先生からあり、母が付き添ってくれたのですが。


先生から、赤ちゃんが育ってないこと、脳に血流が巡ってないといったようなことを言われて、

母が

「今回は諦めたら。」と言い出して。

先生が、

「もう7ヶ月なので、無理です。」

と冷静に答えていて。


私は、2度の流産に経験して、やっとここまで育ったのに、障がいがある子どもということなのかなぁ。でも、生まれてくれるならば、それだけでいいとか、その時はそう思うしかなかった。


でも、母は自分の孫に障がいがあるなんて、耐えられないんだろうなぁ。


その後、脳に血流がどうのこうのというのは、違う先生に確認したら、大丈夫だったと言われて、えーとなりました。


私は、障がいのある子どもを育てるということを、ほんとに理解していなかったわけではありません。


結婚前、障がい児の通所施設で働いたことがあります。コミュニケーションがとれない子たち、突然走り出してしまったり、またずっと動かない子どもたちなど関わったことがあります。


その時は、送迎している親御さんのことを、可哀想そうだなぁって。なんか、私とは関わりのない感じに、人ごとのようにみてました。


るぅちゃんを1600g少しで産み、管だらけの姿を見て、病院で毎晩泣いていました。

育てられるんだろうか、不安でいっぱいでした。


退院するときに、NICUの先生から、

発達障がいになる可能性が高いと、言われて、障がいというのが、いつも私の中にありました。


障がい者となってしまったら、支援という名目で、管理されてしまう人生になるのでは、と。


今でも、福祉制度を利用しようとは思わないのは、そういう考えがあるからです。


私は、福祉施設で働いていたので、よく知っているからです。田舎の入所施設は、本当に山の中にあって、隔離されてるのです。


1歳半検診でひっかかったとき、将来は福祉にお世話になるのかなぁ。いろいろと勉強してきても、それは綺麗事で、普通に生きてほしいって思ってしまいました。


私は、障がい者に寄り添いたい、勤めていた施設の粗探ししたり、この人の考え方はおかしいとか思ったりしたけれど、一番の偽善者は私だったんだなぁって。


訳の分からない、ダラダラした長文になってしまいました。すみません。


「月」、この映画は、私の記憶と心に刺激を与え、ずっと波紋を残し続けています。