胆大小心録 その115
百十五
釈迦も孔子も(弟子の数が)三千人とは同じ数で訝しい。
また、十哲、十六羅漢も似た数だ。
こんな事は後世の人の細工だろう。
前回の続きです。
釈迦・孔子共に3000人の弟子がいたと言われています。
十哲は孔子の、十六羅漢は釈迦の特に優れた弟子たちで、
偶然にしては数が似過ぎている事を怪しんでいるわけです。
十哲は十六羅漢を意識して名前を付けたのかも知れませんが、
3000人というのは確かに偶然合うような数では無いですね。
キリスト教にも十二使徒というのがありますし、
同じような発想をしているのかも知れませんね。
釈迦も孔子も(弟子の数が)三千人とは同じ数で訝しい。
また、十哲、十六羅漢も似た数だ。
こんな事は後世の人の細工だろう。
前回の続きです。
釈迦・孔子共に3000人の弟子がいたと言われています。
十哲は孔子の、十六羅漢は釈迦の特に優れた弟子たちで、
偶然にしては数が似過ぎている事を怪しんでいるわけです。
十哲は十六羅漢を意識して名前を付けたのかも知れませんが、
3000人というのは確かに偶然合うような数では無いですね。
キリスト教にも十二使徒というのがありますし、
同じような発想をしているのかも知れませんね。
胆大小心録 その114
百十四
昔の俳諧師は、京も田舎も家格があり、もっともらしい物であった。
その中の(松木)淡々と言う者は、
大阪の材木屋の息子であったが、江戸の(榎本)其角の弟子になり、
京へ戻って、大商人になり、
また大阪へ移り、俳風を変えた。
弟子が上手になると収入が無くなるからと、
みなし栗に手心を加えて、
小難しくもっともらしい事を言って、弟子をとったが、
今は三千人に及ぶと言って、午庵という僧に自慢したら、
「これは滑稽だ。釈迦や孔子の弟子の一人にも当たらぬ弟子だ」
とやっつけられた。
(秋成は)その午庵と仲良くなり、その話を聞いた。
第21条にも出てきた松木淡々の話です。
淡々は榎本もしくは宝井其角の弟子だそうで、
其角は言わずと知れた松尾芭蕉の高弟、蕉門十哲の筆頭です。
秋成は芭蕉を批判していたこともあり、
孫弟子にあたる淡々も気に食わなかったのでしょう。
そもそも淡々は作風が独特過ぎて、批判者も多く、
性格的にも贅沢を好み俗っぽい人間だったそうで、
秋成がもっとも嫌う人種であったろうと思われます。
みなし栗(虚栗)というのは其角が編集した句集の事で、
解説によると、格調高いが理解しにくい作風だそうです。
それを真似て、上っ面だけ難しげに装ったのが淡々のやり方でしょうね。
釈迦や孔子は弟子が三千人いたと言われていますが、
淡々はそれに準えて自慢したのでしょう。
それらの弟子の一人分にも及ばないと痛烈に叩かれていますが。
昔の俳諧師は、京も田舎も家格があり、もっともらしい物であった。
その中の(松木)淡々と言う者は、
大阪の材木屋の息子であったが、江戸の(榎本)其角の弟子になり、
京へ戻って、大商人になり、
また大阪へ移り、俳風を変えた。
弟子が上手になると収入が無くなるからと、
みなし栗に手心を加えて、
小難しくもっともらしい事を言って、弟子をとったが、
今は三千人に及ぶと言って、午庵という僧に自慢したら、
「これは滑稽だ。釈迦や孔子の弟子の一人にも当たらぬ弟子だ」
とやっつけられた。
(秋成は)その午庵と仲良くなり、その話を聞いた。
第21条にも出てきた松木淡々の話です。
淡々は榎本もしくは宝井其角の弟子だそうで、
其角は言わずと知れた松尾芭蕉の高弟、蕉門十哲の筆頭です。
秋成は芭蕉を批判していたこともあり、
孫弟子にあたる淡々も気に食わなかったのでしょう。
そもそも淡々は作風が独特過ぎて、批判者も多く、
性格的にも贅沢を好み俗っぽい人間だったそうで、
秋成がもっとも嫌う人種であったろうと思われます。
みなし栗(虚栗)というのは其角が編集した句集の事で、
解説によると、格調高いが理解しにくい作風だそうです。
それを真似て、上っ面だけ難しげに装ったのが淡々のやり方でしょうね。
釈迦や孔子は弟子が三千人いたと言われていますが、
淡々はそれに準えて自慢したのでしょう。
それらの弟子の一人分にも及ばないと痛烈に叩かれていますが。
胆大小心録 その113
百十三
六条の三筋町の遊女屋が、朱雀野へ移転しろと言われた為、
とても慌しい様子で、
太夫も端女郎も、手ぬぐいを被って荷物を運んだという事があった。
その折は島原の乱で九州が騒いだ時であったので、
(移転先の遊郭は)島原という綽名を付けられたのだ。
大阪の北野に新開地が出来て、
野中に色茶屋街があったのを、梅が枝新地と名付けた。
ここに三軒かしこに五軒、是は俳諧だ
京都の公娼街として有名な島原の名前の由来だそうです。
その由来には遊郭の外観が島原城に似ているからという説と、
島原の乱のように大騒ぎだったという説があるそうですが、
秋成は後者を推しているようです。
最後の一言は、
浄瑠璃のひらかな盛衰記に出てきた台詞をもじったそうですが、
全く意味がわかりません。
六条の三筋町の遊女屋が、朱雀野へ移転しろと言われた為、
とても慌しい様子で、
太夫も端女郎も、手ぬぐいを被って荷物を運んだという事があった。
その折は島原の乱で九州が騒いだ時であったので、
(移転先の遊郭は)島原という綽名を付けられたのだ。
大阪の北野に新開地が出来て、
野中に色茶屋街があったのを、梅が枝新地と名付けた。
ここに三軒かしこに五軒、是は俳諧だ
京都の公娼街として有名な島原の名前の由来だそうです。
その由来には遊郭の外観が島原城に似ているからという説と、
島原の乱のように大騒ぎだったという説があるそうですが、
秋成は後者を推しているようです。
最後の一言は、
浄瑠璃のひらかな盛衰記に出てきた台詞をもじったそうですが、
全く意味がわかりません。