■前回(摂津晴門の計略)の復習
(あらすじと感想)
二条城の普請現場。信長(36)が陣頭指揮をとっている。各地の寺社から徴発された資材の数々。貴重な芸術品も含まれているようだ。十兵衛と藤孝(36)が摂津晴門主導の幕政を憂慮している。一方、義昭(33)の御座所となっている本圀寺の一角だろうか。幕府の政所と思しき一室に、将軍義昭、摂津晴門と幕府の官人たち、多額の賂(まいない)と思われる袋の山をはさんで、寺社の訴人一行が集まっている。これからも信長の強引なやり方が続けば、幕府の評判はますます悪化し、ひいては公方が批判にさらされかねないとの懸念を露骨ににおわす晴門。それを聞いて、恐れ戦く義昭。
訴人からの突き上げにもしどろもどろの義昭。信長のメンツをどこまでも気にしつつ、晴門や訴人が満足するまで、妥協に妥協を重ねていく義昭。訴人の満足した顔を見て、一安心して席を立った義昭はお駒ちゃんが待つ部屋へ。
つい先ほどまで口元をこわばらせていた義昭が一転、駒の前では雄弁になり、嬉しそうに夢を語る。二人が見入っている図面には、「施薬処」(病人に投薬・治療を行う施設か)、そして「悲田処」(貧民の収容・救済のための施設か)の文字が見える。義昭はひとしきり熱弁を振るった後、資金繰りがボトルネックなのだと苦衷を明かす。将軍になったからこそできるようになったこともあれば、将軍になっても(資金調達のように)どうにもならないこともあると義昭はいい、信長が問題を解決してくれたと打ち明けた。
伊呂波太夫の仲立ちで、前関白近衛前久(34)に出会う十兵衛。(三好三人衆が擁立する前将軍義栄の誕生に一役買ったからだろうか)前久は、義輝を弑した三好三人衆に加担したものとみなされ、摂津晴門に追われているという。近衛家を敵視する二條晴良(44)が義昭と晴門を抱き込んで、讒言したのが原因であるといい、その目的は、晴良と晴門が裏で共謀して、近衛家の所領を押領するためだという。前久は、「今の幕府(の役人に)は私利しか頭になく、天下のために働く者がいない」という、上杉輝虎の幕政批判に触れ、いま幕政改革を断行できるのは信長だけだと述べた後、義昭の側にいて、信長にもの申せるのは十兵衛だと聞いたから、こうして話しているのだと、十兵衛への期待を露わにする。
「言いたいことは言った。あとは任せる」と大夫にいい残して、前人が立ち去った後、伊呂波太夫が言葉を継いで、京都には帝がいて、それを援けるのが幕府の役目だという。
妙覚寺(信長の宿所)の廊下で藤吉郎が十兵衛に駆け寄り、
「公家衆は必ず寺社やどこかの大名と繋がっているので、足もとを掬われないよう、油断するな」と警告する。
信長に拝謁する十兵衛。
この世で一番偉いのは誰か、と問う信長に、父・信秀は次のように答えたという。
一番はお日様、次が天子、その次が天子を守る将軍、つまり将軍は天子の門番にすぎないが、我らはその門番の城をつくっているのだと信長は自嘲気味に笑う。
その後、十兵衛が東寺八幡宮領を押領したとして訴えられたことを藤孝が十兵衛に知らせる。上洛に尽力したことへの褒賞として、義昭からもらった所領だと十兵衛は藤孝に説明する。何者かが押領した土地を政所が確認もせずに、十兵衛への褒賞にしたのだろう。早急に調査して、然るべき措置をとるようにと晴門に詰め寄る十兵衛。扱いにくい奴だ。そういわんばかりの目つきで、晴門の忌々しげな視線が十兵衛の背を追った。十兵衛と晴門の考え方の違いが次第に浮き彫りになっていく。
内裏の有り様を見に来た十兵衛は、伊呂波太夫と鉢合わせする。大夫は、幼い頃の帝(正親町天皇(53))との邂逅を懐かしみ、荒れ果てた内裏を見ていられないと語る。二人の前には無残にも崩れ落ちた内裏の壁が打ち捨てられたままになっていた。
永禄十二(1569)年四月、信長が総力を上げて取り組んだ二条城が完成し、将軍義昭はすぐさま動座した。都の人々は信長の実力を大いに知ったが、帝の権威は内裏の壁のように、地に落ちたままであった。本来の使命を忘れた幕府の姿そのものをそこに見た十兵衛は、新しく美しい二条城の壁を見つめながら、改めておのれの使命を自覚し、幕政改革に賭ける決意を新たにするのだった。
(史料から)
〇『原本信長記』によれば、二條城の完成を祝って、太刀と馬を献上した信長は、将軍(義昭)の御前に呼び出され、恐れ多くも三献(室町期の酒宴の儀礼)の上、義昭自らの酌で盃を賜り、剣を拝領し、面目を施したことはいうまでもない、とある。
〇この頃(永禄十二年四月十五日の条)、信長は内裏の修理も行っていたが、それらが概ね終わり、「織田弾正忠(信長)の行いが奇特なことは、筆舌に尽くしがたいほどだ、と都鄙貴賤男女の別なく(人々は賞賛している)」と『言継卿記』にある。
〇『言継卿記』によれば、二條晴良が勧修寺晴右の所領である加賀国井家荘を押領し、晴右から訴えがあったため、帝は将軍義昭に対し、晴良の押妨(他人の所領で不当に権利を侵害すること)をやめさせ、(所領を)返還させるように、伝えた。しかし、かつて晴右は義昭のライバルだった前将軍義栄のために働き、一方で晴良は義昭のためにわざわざ越前まで来て尽力してくれたことから、義昭はこれに応じなかったという。今回の前久のエピソードはこれをモデルにしたものだろうか。
〇元亀元(1570)年四月十日、東寺は、明智光秀による同寺八幡宮領山城下久世荘への押妨をやめさせるよう、幕府に懇請している(東寺百合文書)
■予習:朝倉義景を討て
(背景と展望)
次回の御題は「朝倉義景を討て」ということで、十兵衛にとっては恩人であることに間違いはないし、ドラマのストーリー的には十兵衛が担ぐ義昭の上洛を確実にするため、義景の幼い嫡男を毒殺までしているのだから、十兵衛の心中を察するに余りある(って、十兵衛は毒殺のことまで知らないか。知ってたら、逆に怖いよね)
とりあえず、まずは基本的なことを確認しておこう。
この時点で、義昭と信長は、天下に静謐をもたらすため、まだ良好な協調関係にある。つまりは「(この国を)平和な、良い国にしていくため、互いに協力しあって行きましょう」という方向性では一致し、ともに行動していた時期であった。しかし、言い換えれば、後々の不和の種が撒かれ、すれ違いが生じ始める時期でもあった。
ひとつ注目しておくべきことがあるとすれば、三好三人衆による本圀寺への襲撃(第二十八回。10/18放送)から十日もたたない永禄十二年正月十四日に定められた九箇条から成る殿中御掟だ。二日後の十六日には、追加の七箇条も加えられている(『仁和寺文書』)、二人の距離感を知る上では重要なポイントとなるだろう。
信長は義昭を奉じて上洛する際、義景にも出兵を求め、上洛した後も義景の上洛を催促していたが、義景は織田の風下に立つことを嫌い、いずれも拒絶していた。以来、織田・朝倉の仲は険悪化していた。それが朝倉征伐につながったとされるが、ドラマではどう描かれるだろうか。元亀元年四月二十日、信長は三万余の大軍を率いて京都を進発した。これを見ようと多くの人が集まったという(『言継卿記』、『継芥記』)