『鎌倉殿の13人』妄想企画書

 

1.コンセプト

 鎌倉殿の嫁の弟というだけで、バトルロイヤルの参加資格を得た最年少プレイヤーの江馬小四郎(義時)が姉に見守られながらも熾烈な戦いに身を投じ、勝ち抜いていく中で、少しずつ成長し、じぶんなりの理想を見つけていく。

 

2.ストーリー概要

 鎌倉殿亡き後、坂東武者の実質的な棟梁の座をめぐって、有力御家人がバトルロイヤルを繰り広げる。これを勝ち抜いたチャンピオンの義時は坂東武者を率いて、後鳥羽上皇の率いる公家勢力と激突する。

 

3.エピソード制作における基本方針

 北条氏に都合よく描かれてきた歴史記述に捉われることなく、大人のエンターテイメントを志向し、次の基本方針に沿って、エピソードを制作する。

 すなわち、この物語は、

 1)江馬小四郎(義時)の成長の物語である。

 2)義時は単純な善人でも悪人でもなく、光と闇を抱えたリアルな人間である。

 3)新しい(武家の)時代を切り拓くために、義時は決してあきらめずに挑戦をつづけていく。

 

4.章立て(仮)

(1)天下草創(1、2月)

  鎌倉殿の死(プロローグ)

  13人との出会い:挙兵、鎌倉開府、天下草創

(2)鎌倉盛衰記:有力御家人によるバトルロイヤル

 ・謀臣:梶原景時(3、4月)

 ・外戚:比企能員(5、6月)

 ・父と子:北条時政(7、8月)

 ・侍所別当:和田義盛(9、10月)

(3)承久の乱:後鳥羽上皇(11、12月)

 ※()内は想定される放映時期

 

5.13人以外の主な登場人物

  源頼朝、源頼家、源実朝、公暁、阿野全成

  北条政子、北条政範、北条泰時、牧の方、平賀朝雅

   梶原景季、三浦義村、結城朝光、天野遠景、仁田忠常

  畠山重忠、朝比奈義秀、千葉常胤、上総介広常

  後鳥羽上皇ほか

 

 

 『麒麟がくる』でいま注目の足利義輝・義昭兄弟が主題の番組だ。

 室町幕府十二代将軍足利義晴の嫡男に生まれ、京都政界のプリンスとして育った義輝と、六歳で母方の実家である近衛家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室し、仏門で育った義昭。この一つ違いの兄弟は従来、かなり対照的なイメージで語られてきたように思う。

 

 戦国のショッカー(※1)こと三好三人衆らに襲撃され、壮絶な最期を遂げた悲劇の剣豪将軍(義輝)と、戦国のスーパースターこと織田信長に将軍にしてもらいながら、周囲の諫言をも顧みず、陰謀の限りを尽くして信長の足を引っ張り、最後は秀吉の御伽衆として生きながらえた僧侶出身の軟弱将軍(義昭)。そんなイメージではないだろうか?

 でも、それが二人の本当の姿なのだろうか。むしろ、それらは敵対した相手の強烈なイメージによって形成されたものではないだろうか。

※1)仮面ライダーに出てくる悪の秘密組織

 

1.足利義輝(戦国を斬る)

 天文十五(1546)年十二月、細川晴元と六角定頼の後押しにより、若干十一歳で将軍となった義輝は自ずと細川京兆家の家督争いに巻き込まれていく。同十八年、江口の戦いで晴元の寵臣・三好政長(42)が三好本家の長慶(28)に敗れると、細川晴元(36)や父・義晴とともに近江へ亡命することになる。

 翌十九年、父・義晴が亡くなると、同二十一年、義輝(17)は三好長慶(31)と和睦し、二年半ぶりに帰洛する。しかし、翌二十二(1553)年八月、幕府内の反三好派勢力に引きずられるようにして再び長慶と不和になった義輝は東山霊山城を失陥すると、近江国朽木谷への亡命を余儀なくされる。番組はここから始まる。

 

 それから五年余に及ぶ粘り強い御内書外交とゲリラ戦に、教養人の長慶は根負けしたのかもしれない。永禄元(1558)年十一月二十七日、長慶(37)は畿内をほぼ掌握していたものの、義輝(23)に決定打を与えることはできず、六角義賢(38)の斡旋により、ついに義輝と和睦する。玉虫色の足利三好連合政権が発足し、長慶は中原の覇者たる立場から、妥協的な連合政権の事実上の首班へとおさまる。戦いを優勢に進めていながら妥協の道を選んだ長慶と、驚異の粘り腰でその長慶を名目上でも臣従させてしまった義輝。本当の勝者はどちらだったのだろうか。ともかくも、両者の和睦により、天下の静謐は果たされたかに見えた。

 

 翌二年、義輝(24)は上洛した織田信長(26)、そして長尾景虎(30.。後の上杉謙信)をそれぞれに引見する。番組では長慶と景虎こそが義輝=長慶政権の二枚看板だったという。しかし、永禄七(1564)年、その長慶が有能な弟たち、更には嫡男の義興までも相次いで失い、懊悩する中で自らも病没してしまう。稀代の英主を喪失した三好家を継いだのは、まだ十六歳の養嗣子・義継であった。若い義継は義輝の外交力を恐れたのだと番組はいう。

 

 剣豪将軍といわれる義輝だが、そのいわれは彼が剣聖と称される塚原ト伝から、奥義である「一の太刀」を授けられた、という伝承によるところが大きいだろう。『本朝武藝小傳』によれば、卜伝は将軍義輝および義昭に刀槍之術を授けたとある。鹿嶋市の公式サイトによれば、卜伝最後の廻国修行は弘治三(1557)年から永禄九(1566)年頃とされ、義輝たちが卜伝に弟子入りするとしたら、それが唯一のチャンスであった。それでも卜伝が鹿嶋を発ったのが六十九歳の時だから、どこまでも伝承の域を出ない子弟関係だったという他ない。

 

 永禄八(1565)年五月十九日、三好義継(17)、松永久通(23)、三好三人衆らは二條御所を襲撃し、義輝(30)を弑逆する。「御生害」「切腹」「御自害」などとのみ記す諸書が多い中で、『足利季世記』は次のように語っている。「扨テ公方様御前ニ利劔ヲアマタ立ラレ。度々トリカヘ切崩サセ玉フ。(中略)然ルニ三好方池田丹後守カ子。コサカシキヤカラニテ戸ノ脇ニカクレテ。御足ヲナキケレハ。コロヒ玉フ上ニ。障子ヲ倒カケ奉リ。上ヨリ鑓ニテ突奉ル」と。この番組や『麒麟がくる』の描写に近く、悲劇の剣豪将軍らしい最期でもあった。

 

 また、『訂正増補日本西教史』は「刃ヲ手ニシテ宮ヲ出テ左右ニ奮戦シ死屍ヲ踏テ以テ囲ヲ脱セント進ミタルニ。逆臣等之ヲ囲ミ刀槍矢箭交其身ニ集ツマル。公方ハ先一箭ヲ頭上ニ受ケ。面ニニ刀瘡ヲ被リ全身血ヲ流スモ敢テ屈セス。奮撃突戦恰モ怒獅ノ如シ。終ニ一逆徒ニ胸ヲ刺サレテ斃レタリ」と、その壮絶な死に様を伝えている。義輝、享年三十。

 

2.足利義昭(志を継げ)

 義輝の弟・一乗院門跡覚慶(後の義昭)は義輝弑逆の後、三好方によって興福寺に幽閉されていたが、細川藤孝(32)は朝倉義景(33)と覚慶救出計画を練り、永禄八(1565)年七月二十八日、これを実行に移した。

 覚慶(29)は南都を脱するや早速、逃亡先から兄・義輝が頼りにしていたという上杉輝虎(36)に足利家の再興を依頼、その後も度々上洛を求めている。翌九年二月十七日、覚慶は還俗して、名を義秋と改めた。

 

 還俗してからおよそ二年。その間も義秋は熱心に各地の大名へ上洛等の要請を続けてきたが、永禄十一(1168)年二月八日、三好三人衆の擁するライバル足利義栄(31)が征夷大将軍に任じられた。いったんは失望した義秋だったが、同年四月十五日、越前一乗谷城で元服し、名を義昭と改める。越前で幕府再興の夢を諦めない義昭(32)の元へ朗報がもたらされる。ついに上洛要請に応じる大名が現れたのだ。織田信長(35)である。同年七月二十五日、義昭は美濃に入ると、立政寺に迎えられた。

 

 同年九月二十六日、信長は義昭を奉じて入京した。翌十月十八日、義昭はついに念願の征夷大将軍に任じられる。翌十二年正月五日、三好三人衆が京都の将軍御座所となっていた六条本圀寺を取り囲むが、池田筑後守(勝正)、伊丹兵庫頭(親興)、三好左京大夫(義継)らが救援に駆け付け、これを撃退する。皮肉にも、彼らは四年前、三好三人衆とともに、義昭の兄・義輝を弑逆した面々であった。

 軟弱な陰謀家の印象が強い義昭だが、このとき、義昭自らが敵に切り懸っていったので、三好三人衆は天罰に当たったのか、多くの者どもが討ち取られて敗走した、という話を三木良頼が上杉輝虎(謙信)宛ての書状に書いている(上杉家文書)

 

 兄の義輝がそうであったように、義昭もまた、傀儡の将軍に甘んじるような性格ではなかった。武家の棟梁として、諸大名を束ね、天下に号令する。信長に感謝はしても、主体性を失ってまで、安逸を貪る気は義昭になかったのであろう。義昭は義輝譲りの御内書外交を開始する。

 本圀寺の変の直後、すなわち永禄十二(1169)年正月十四日、信長は殿中御掟九箇条、二日後の十六日には追加の七箇条を義昭に認めさせた(『仁和寺文書』)。義昭と信長の協調関係はうまくいっているように見えたが、信長は働き者の公方を決して喜ばなかった。同年十月十七日には、信長が突然京都を発ち、岐阜に帰ったことから、都は騒然となり、義昭との不和が囁かれた。

 

 翌十三年正月二十三日、信長は條書五箇条を義昭に突き付け(※2)、これを認めさせた(『徳富猪一郎氏所蔵文書』)。濫発したとされる御内書の発給にも掣肘を加えている。しかし、その後も二人の協調関係は完全に失われたわけではなく、義昭の御内書外交も継いた。

 二人のあいだの亀裂が決定的となったのは、元亀三(1572)年九月、信長から義昭に対する異見十七箇条が呈出されたときだとされている(『年代記抄節』)。武田信玄、浅井・朝倉、石山本願寺を基軸とする、いわゆる信長包囲網との対決が不可避となり、その背後に義昭がいることははっきりしていたからである。

 

 同年十月三日、武田信玄は自ら大軍を率いて甲府を発ち、遠江に侵入して諸城を次々攻略すると、十二月二十二日には三方ヶ原で信長の盟友・徳川家康を鎧袖一触に蹴散らした。三方ヶ原の捷報を聞いた義昭は、もはや信長への敵意を隠そうともせず、信長から和議を請われるもこれを拒絶し、二条城に籠っていたが、翌天正元(1573)年四月七日、勅命により両者はようやく和睦した。

 

 一方、遠江国刑部で越年した信玄は三河に入り、野田城を包囲中に病を得、甲府への帰国途上の四月十二日に帰らぬ人となった。享年五十三。

 同年七月三日、信玄の死を知らない義昭は、再び槇島城で挙兵するが、同月十八日には降伏した。信玄の死によって、さしもの信長包囲網もあえなく潰えたのである。池田本『信長記』によれば、このとき、信長は敵対した義昭の命を助け、「怨をは恩を以て」報いるといったという。

『信長記』画像

■池田家文庫本『信長記 巻第六』(岡山大学附属図書館所蔵)より

 

 京を追われ、誰もが室町幕府の命脈は尽きたと思った。

 それでもなお、義昭はあきらめなかった。

 天正四(1576)年二月八日、義昭は備後国鞆に移ると、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺を新たな軸とした信長包囲網を築き上げる。同年七月十三日、毛利水軍は摂津木津川口で織田水軍に大勝し、石山本願寺へ兵糧を入れることに成功する。

 

 一方、北陸方面では、翌五年九月十五日、能登七尾城を陥れた上杉謙信が、七尾城の救援に向かっていた織田方の将・柴田勝家と合戦になり、これを大いに破ったという。しかし、謙信は翌六(1578)年三月九日、卒中風で倒れると、人事不正のまま、同月十三日に卒去する。享年四十九。

 同年十一月六日、信長の命により、前代未聞の鉄甲船を擁する織田方の九鬼水軍は摂津木津川口で毛利水軍を破り、石山本願寺の海上封鎖に成功する。以後、信長包囲網の参加勢力は連携もままならないまま、次々と各個撃破されていく。孤立した本願寺は同八年閏三月五日、ついに信長と和睦し、顕如は石山城から退去した。

 

 同十年六月二日、信長が明智光秀の謀反により、本能寺で横死すると、義昭は室町幕府の再興を期して、諸大名に働きかけるが、もう彼の要請に応じる大名はいなかった。

 慶長二(1597)年八月二十八日、准三宮從三位足利義昭は大坂で薨去した。享年六十一。

※2)宛名は日乗上人と明智十兵衛尉(光秀)

■前回(朝倉義景を討て)の復習
(あらすじと感想) 

 永禄十二(1569)年夏、京都二条城の一角で、出張の準備をする十兵衛。岐阜で朝倉攻めに関する会議があるようだ。手にしていた『公事根源』という書物を机に置かれた『吾妻鑑』の上に重ね置く十兵衛。「公事」とあるから、判例集のようなものかと思ってぐぐってみたら、一条兼良の著した、年中行事とその起源に関する解説本だとか。なるほど、室町幕府には欠かせない書物という気もしないではない。

 そこへやってきたのが木下藤吉郎。気安い調子で、妻の寧々がつくった弁当を十兵衛に差し入れながら、岐阜での会議内容を聞き出そうとする。朝倉攻めに話が及ぶと、十兵衛は相手が朝倉となると「相当の兵力と金がいるから(それはない)」と暗に否定する。「ふーむ」。藤吉郎は何やら考え込む様子であった。

 

 何はともあれ、将軍義昭と我らがお駒ちゃんとの距離がうんと縮まっている。御座所の外でこっそり待ち合わせて、蛍狩りと洒落込む二人。そういえば、この二人「R18+」の映画で共演していなかったっけ。でも、ご安心を。義昭と駒は無邪気に夢を語っている方が似合う。さすがはNHKだ。こうして、駒に絡むことで、義昭の善良で「良い人」のイメージが増幅されていく。、

 二人の言動を部下に見張らせていた摂津晴門。蛍狩りで逢引と聞いて、「困ったお方じゃのう」と呆れる晴門。信長が主だったメンバーを岐阜城に招集して、何やら会議を開くらしいと聞くや、その中身を探り出して来いと部下に命じる。内容次第では、何やら考えがあるようだ。 

 

 ところ変わって岐阜城。十兵衛は松永久秀や三淵藤英、帰蝶らと再会し、朝倉攻めに義昭や藤英が反対であること、帰蝶や久秀は賛成であることを知る。信長に呼ばれた十兵衛は、内裏(御所)の崩れ落ちていた壁が修築されて、すっかりきれいになっていたことを話すと、信長は天子を崇敬していた父・信秀への供養のつもりでじぶんが修理したのだと話す。

 信長は十兵衛に朝倉攻めについて迷いがあることを打ち明ける。このままでは、おのれ独りで朝倉と戦うことになってしまう。将軍義昭にその気がなければ、諸侯を朝倉攻めに駆り出す大義名分が立たないからだ。何か良い方法はないか、と信長は問う。

 

 帝の許しを戴いてはどうかと十兵衛はいう。

 天下の静謐のため、室町将軍にかわって朝倉を討伐する許しがあれば、諸侯は信長の号令に従うであろう、と、

 久しぶりに妻の熙子や娘たちとの団らんを楽しむ十兵衛。京に戻ることを告げると、じぶんたちも京に連れていってほしい、という熙子。「パパを単身赴任させておくなんてつらい」と幼い娘たちがいうらしい。「一緒に京都へ行こう」と十兵衛。うなづく熙子。

 

 縁側で碁を指す老人がふたり、

 信長に拝謁を許すべきかを問う正親町天皇。「お会いになればよろしい」、答える望月東庵。

 東庵先生、ただの博奕好きかと思いきや、帝の碁仲間兼相談役でもあったらしい。

 上杉輝虎(謙信)は「上洛して天下の静謐を果たして見せる」と豪語していたが、口だけ番長だった。一方、信長は今のところ有言実行だから、「押し」だと薦める東庵先生。

 蚊帳を張った中で蛍を放す駒、駒の手を取り、握りしめる義昭。

 

 年が明けて、永禄十三年二月。

 信長は上洛すると、すぐさま参内する。

 帝に褒めてもらったと、有頂天で十兵衛に参内の成果を報告する信長。天下静謐を果たすべしとの勅命が下って、そのための戦なら、し放題だと信長は喜ぶ。

 朝倉義景のもとに、重臣の山崎吉家が来て、信長が戦の準備を進めていると、摂津晴門からの報せがあったことを伝える。ターゲットは越前(朝倉)に間違いないと吉家はいう。義景は受けて立つ気満々で、戦の準備をするよう、吉家にいう。

 

 義昭に朝倉攻め(表向きは若狭の武藤友益討伐)の決定事項を伝える十兵衛。幕府総出でかかれとの信長の意向に反して、消極的な幕府の面々。「将軍の務めは仲裁役」だから、同行まではしないといって、席を立つ義昭。あからさまに批判的で、出陣を拒む晴門は、義景の嫡男・阿君丸の毒殺を図ったのが三淵藤英であることまで十兵衛に明かしてしまう。

 驚く十兵衛、俯く藤英、得意げに毒を調達したのはじぶんだといってのける晴門。

 同年四月、妙覚寺に集結した織田軍は若狭に向けて進発した。

 

(史料から)

〇『御湯殿上日記』には、元亀元(1570)年二月三十日、上洛した信長は参内して、馬と太刀を献上した、とある。

〇『言継卿記』には、翌三月一日、信長は宮中に祗候し、内裏の修築状況を視て回った、とある。

〇同年四月二十日早朝、信長は若狭に向けて出発した。三万余の軍勢は三日ほど前、既に先発しており、この日は信長だけの出発であった(『言継卿記』、『継芥記』)

 

■予習:逃げよ信長
(背景と展望)

 「逃げよ信長」のタイトルからして、次回が金ヶ崎の撤退戦を描くエピソードになるのは明らかだろう。従来になくナイーブな信長が信頼する妹婿の浅井長政に裏切られたショックでどんな反応を示すのかが最大の見どころとなる。

 注目はこんな感じかな?

 

・織田信長(37)[染谷将太]:愛する妹・市の婿でもあり、信頼する義弟・長政に裏切られた信長がショックのあまりにどう心のバランスを失い、取り戻していくのか。らしくなかった信長は結局、らしくなってしまうのだろうか。

・朝倉義景(38)[ユースケ・サンタマリア]:北の義元はやっぱり殺られるだけなのか。

 

・お市の方(24)[井本彩花]:兄・信長と夫・長政との間で板挟みに苦しむ。小豆のエピソードは今回もあるのだろうか。

・浅井長政(26)[金井浩人]:妻の市と父・久政との間で板挟み。妻子を残して、朝倉との同盟に殉じるのか。

・松平元康(29)[風間俊介]:「木下殿を殺してはならぬ」とおいしいところにしっかり顔を出す。ちゃっかり家康は今回も健在か。

・木下藤吉郎(34)[佐々木蔵之介]:撤退戦の主役。墨俣の一夜城とならぶ、藤吉郎の、前半の見せ場。

 

・明智十兵衛[長谷川博己]:従来なら、「木下殿を死なせてはならぬ」と引き返して、藤吉郎と共闘するのがお約束だが、今回は主役として、どう存在感を示すのだろうか。

※年齢:元亀元(1970)年時点