■前回(逃げよ信長)の復習
(あらすじと感想)
永禄十三(1570)年四月、正親町天皇(54)から「天下静謐のため、一層励むように」との沙汰を受けた織田信長(37)は勅命の名の下に若狭の武藤氏討伐を掲げ、京を進発した。
若狭下向と見せかけた信長は(粟屋勝久の)若狭国吉城まで来ると、集まってきた諸将に「朝倉を討つ」と真の目的を打ち明ける。
その頃、京の二条城では、摂津晴門、三淵藤英、細川藤孝(37)の三人が膝を突き合わせていた。「信長の狙いはやはり越前(の朝倉)だったか」と晴門。まずは手筒山城が立ちはだかるが、目の前にある金ケ崎城の守備隊と「(朝倉氏の本拠地)一乗谷からの援軍に挟み撃ちされたら、ど・う・な・る・こ・と・か☆見ものじゃ」と、まるでコメディの悪党っぽく笑う晴門。鶴ちゃん、ちょっとやりすぎだ。
織田軍は越前に侵入するや、忽ち手筒山、金ケ崎両城を攻略する。
あっけなく越前敦賀郡を制圧した織田軍の諸将には楽勝ムードが漂う。
越前金ケ崎城の庭では家康の少年時代以来となる再会に、互いを懐かしむ家康(29)と光秀(43)がいた。そこへ松永久秀(61)がやってきて、枝城の手筒山では激しく抵抗した朝倉勢が敦賀郡の根城である金ケ崎を簡単に捨てたのはどうも怪しいという。久秀の意見に同調する家康。
信長は近江小谷城の城主で、妹・市(24)の婿でもある浅井長政(26)に背後を守らせて、一気に朝倉義景(38)の本拠・越前一乗谷を叩く計画なのだとナレーション。
ところ変わって一乗谷の朝倉館。重臣の山崎吉家に向かい、「長政(の挙兵は)はまだか」と問う朝倉義景(38)。長政は信長の妹婿なんだから、朝倉方につくわけがないじゃないか、と訝しげな吉家。浅井・朝倉両家の絆は太く、長政の父・久政がいる限り、長政は信長の妹婿だからこそ、今この機会に安心しきった信長の背後をつくはずだ、と力説する義景の自信に満ちた表情に不敵な笑みが浮かんだ。
近江小谷城では城主の長政と妻の市が何やら話している。長政は「市の兄(信長)と敵対するのは本意ではないが、信長は浅井の同盟国である朝倉には手出しをしないと約束しておきながら、それを反故にするから、敵対せざるをえなくなったのだ」という。朝倉が滅びたら、次に滅ぼされるのは浅井だ」と長政。「兄はそんなことはしない」と市。「おまえはもう、浅井の嫁なんだから、これ以上は信長のことをいうな」と長政は市に告げて、戦場へと向かうのであった。
再び越前金ケ崎城。軍議中の光秀を明智秀満が呼び出し、早馬がもたらした書状を手渡す。小谷城の長政が大軍を率いて金ケ崎に迫っているという。改めて光秀が信長を別室に呼び出す。長政に援軍を頼んだ覚えはない、と信長。長政の叛旗は明らかだから、すぐに逃げよと光秀。いったんは逃げることを拒んだ信長だったが、ついに「天下静謐の責任を果たすため、死んではならない」という光秀の説得を受け入れる。
軍議の席に戻った信長は諸将に長政の裏切りを告げ、「逃げる」と宣言。撤退戦の采配を光秀に任せ、じぶんは朽木越えから帰京する。
諸将が次々と撤退していく中、自己PRが得意なはずの秀吉が主人の信長ではなく、こともあろうに幕臣の光秀に殿軍(しんがり)をさせてほしいと願い出る。他の諸将も見ていないけど、本当にこれでいいのか、秀吉。佐々木蔵之介さんの熱演も信長の前でなら、確実に名シーンとして語り継がれるだろうに、と少し残念な気もした。
光秀と秀吉。二人の決死の撤退戦が始まった。
光秀は激しい撤退戦のさなか、腹心の秀満に「平和は結局、戦って勝ち取るしかないのだ」と語る。
京・二条城では晴門が将軍義昭に信長の敗戦を嬉しそうに報告していた。
別室では「施薬処」、「非田処」と書き込まれた図面を前に義昭を待つ駒がいた。部屋に入ってきた義昭は朝倉攻めは信長の負けに終わったと教える。三か月ほど前の、正月二十三日に信長は條書五箇条を呈出し、これを義昭に承認させた。その一条に「天下の儀、誰々によらず、上意を得るに及ばず」とある。つまりは将軍の許しがなくても、信長はおのれの意のままにできる。じぶんはまだ、真の将軍にはなっていないのだ、と義昭はいう。「御所の屋根や塀の修理も大事かもしれないが、病気で苦しむ人々や、貧しい民衆を救うことこそ、真っ先にすべきことではないか」と。駒が小さくうなづく。「私が真の将軍になったら、いつの日にか必ず戦をなくしてみせる」。そのためには、諸侯が将軍や幕府をリスペクトする世の中でなければならないと義昭。「私は兄上の轍は踏まない」。駒は悲しそうな目で、義昭の話に耳を傾けていた。それぞれの正義が理想と現実の狭間で次第に独り歩きを始めていた。
越前から撤退した織田軍の将兵でごった返す妙覚寺。
ようやく京にたどり着いた光秀。そこへ血と汗と涙で顔をくしゃくしゃにした秀吉が駆け寄ってきた。撤退戦のさなか、二手に分かれたものの、互いの消息が分からず案じていたと光秀が再会を喜ぶ。じぶんが殿軍を務めたことを誰も信じてくれない、と咽び泣く秀吉。それを聞いて、義憤にかられた光秀は諸将の集まっている休憩所へ行き、「木下殿の殿軍での働きぶりは見事だった」と証言する。信長はどうしているかと光秀が問うと、部屋に引きこもったまま誰にも会わないと秀吉が心配そうに答える。
部屋でやさぐれる信長。じぶんに期待してくれた帝や妻の帰蝶に何といえばよいのか、と思い悩む信長。ありのままをいえばよいと光秀。負けは負けでも、信長が生きている以上は、大きな成功への重要な一歩なのだから、ありのままを報告すればよい。麒麟がそういう声を聞いたと光秀は嘯いて笑った。
※人名の後の()内は『国史大辞典』(吉川弘文館)による元亀元(1570)年時点の年齢。但し、明智十兵衛(光秀)のみ、『日本人名大辞典』(講談社)による。
(史料から)
金ヶ崎の撤退戦について、
〇『原本信長記』は、「金崎之城にハ、木下藤吉郎残し置せられ」た、という。、
〇また『武家雲箋』の、一色藤長から波多野秀治に宛てた書状には、「金崎城ニ木藤(木下藤吉郎)、明十(明智十兵衛)、池筑(池田筑後守)其外被残置」とある。
〇これが『当代記』では、「金崎二誰ヲカ可被残トノ議也、茲ニ木下藤吉郎、吾ヲ可被残之由言上、信長快気也、各莫不美談」とやや芝居がかってくる。
〇一方、『(校訂)松平紀』には、「早々家康を跡に置て、同廿七日、宵の間に引取給ふ、家康是をは不知、木下藤吉を御同道被成、静にのかせ給へとも」とあり、信長が黙って先に撤退してしまったため、図らずも後に残された家康は藤吉郎とともに撤退するはめになったという。『朝倉家記』はこれを「信長ハ寵臣木下藤吉郎秀吉ヲ金崎ノ城ニ残シ、三州ノ徳川殿ニ後殿ヲ頼ミ置、廿八日ノ夜ニ入テ、敦賀表ヲ引拂ヒ」と記し、一応の筋は通したことになっている。
また、長政が信長を裏切った理由として、
〇『朝倉家記』は、「江州北ノ郡小谷ノ城主浅井長政ハ、先年ヨリ世々ヲ経テ、越州朝倉ニ入魂也、然處此ノ比公方ノ御方申テ、信長隋逐ス、長政カ内室ハ前弾正忠信秀ノ息女ニシテ、信長ノ妹也ケレハ、常ニ信義ハ一味同心ノ思ヲナシ、今度モ催促ニ応シテ、討立ントシケル時、親父下野守久政再三諌申サレケルハ、縁者ナカラモ、信長ハ親疎ヲ不知荒夷ニテ、豺狼ノ野心アリ、今コソ兄弟ノ好シミヲナストモ、終ニ当家ヲ危ンテ滅サレンハ此人也、越州ノ朝倉ハ当家数代ノ昵懇ニテ、互ニ頼ミ頼マルゝ、今当家織田ニ組シテ朝倉ヲ亡サハ、古人ノ所謂唇亡則歯寒キカ如ニテ、当家モ終ニ亡ヘシ、(中略)朝倉一味ノ旗ノ手ヲ揚ラルヘシトソ申サレケル」と記している。
つづけて、有名なお市の方の小豆の話。
〇「長政ノ北ノ方ハ信長ノ妹ナレハ、此事ヲ聞玉ヒテ、扨イカニモシテ、信長ニ告知ラセ度思ハレケレトモ、(中略)文ヲハ不遣サ、口上ノ旨趣ノミ述ヘ、陣中ノ御菓子ニ可被成候トテ、袋ヘ小豆ヲ入、其袋ノ跡先ヲ縄ニテ結切リ、封ヲ付テ信長ヘソ贈ラレケル、信長ハ元来聡明英武ニシテ、活智ヲ得ラレシ名将ナレハ、其進物ヲ見ルヤ否ヤ、目ヲ塞キ思案セラレケルカ、暫ク有テ、家老ヲ召シ、密ニ宣ケル様ハ、是見給ヤ各々、(中略)跡先ヨリ挟立テ、朝倉浅井両端ヨリ、我軍勢ヲ一騎モ不残可討取トノ策、(略)是ヲタトフルニ、タトヘハ袋ヘ小豆ヲ入、跡先ヲ結切テ一粒モゝレサル如クナルヘシ、長政カ室家我ニ此事ヲ悟レト思フハカリコトニ、此小豆ヲハ送レル也、妹ナカラモ、此智慮ハ、男子ノ及フ業ニアラスト、涙クミテ申サレケレハ、一族家老ノ面々モ、兄弟ノナサケヲ感シ、鎧ノ袖ヲソヌラシケル」
■予習:反撃の二百挺
(背景と展望)
金ケ崎の戦いで失った鉄炮を調達・補充するのがミッションとなる話のようだ。
久しぶりに登場する今井宗久や、若い筒井順慶の活躍も見ものだろうか。
タイトルのエピソードがどんな出来事に基づいているのかよくわからないが、三か月後には姉川の戦いもあることだし、そのあたりの話になるのだろう。そんなわけで、今回は予習の材料もなく、お休み。
信長の正義、秀吉の正義、家康の正義、義昭の正義そして光秀の正義、駒の正義等々。
本能寺の大義名分もそろそろ垣間見えてくるころだろうか。