なんてこったい! 2022大河『鎌倉殿の13人』のキャストが11/16から五日間連続で発表になっているのだそうな。すっかり出遅れてしまったが、以下、発表順に予習していこう。

※なお人名の後にある()内の数字は頼朝(鎌倉殿)が挙兵した治承四(1180)年時の年齢で、『国史大辞典』による。

 

■北条政子(24)

 演:小池栄子。まずは初代鎌倉殿=源頼朝(34)の嫁さんだ。鎌倉殿亡き後、外戚の地位を得て暴走気味の父・時政(43)を追放すると、主人公の義時(18)を姉として支え、尼将軍として、我が子を犠牲にしてまで鎌倉幕府と北条一族を守り抜いた。演じるのは、小池栄子さん。古風な母のイメージではないが、行動的で強い坂東の母像を築いてくれそうだ。

 

■北条宗時

 演:六代目片岡愛之助。鎌倉殿の没後が主な舞台となる、このドラマで頼朝の挙兵とほぼ同時に歴史の舞台から消え去った宗時が主要な登場人物に名をつらねているとは思わなかった。しかも、演じるのは六代目片岡愛之助さんだから、通行人のような軽い役であるはずもない。物語の開始早々に退場する宗時が主人公・義時に、そして我々視聴者に何を残してくれるのか、いまから楽しみだ。

 

■平清盛(63)

 演:松平健。武士の時代を切り拓いた平安末の巨人。陸の源氏に対し、海の平氏を率い、海上貿易により巨万の富を築く。天下三不如意で知られる白河法皇の御落胤とも噂される。1979大河『草燃える』では、純朴な青年から冷酷な政治家へと成長していく北条義時役を務めた松平健さんが演じるのも感慨深い。鎌倉殿に立ちはだかるマツケン清盛を早く見てみたい。

 

■比企能員

 演:佐藤二朗。人がいいだけの中年男が頼朝の乳母・比企尼の養子となった縁で、たまたま次期鎌倉殿(頼家の長男・一幡)の外戚になってしまう。はからずも権力に翻弄される悲劇を佐藤二朗さんがどう演じるのか。本当に楽しみでならない。性格俳優の本領をぜひ見せて下さい。


※キャスト発表はこちら

 

■前回(反撃の二百挺)の復習
(あらすじと感想) 

 元亀元(1570)年四月、京・二条城。光秀(43)から朝倉攻めの報告を聞く将軍義昭(34)と摂津晴門。織田の負けだという晴門と、引き分けだと主張する光秀。晴門が中座した後、戦場における将軍の存在は兵士のモラルに大きく影響するから、次の戦にはぜひ出馬してほしいと光秀。そこへ、信長(37)が訪れたとの知らせ。出迎える義昭。

 光秀が帰宅すると、次女のたま(8)が女中と庭に遊んでいた。光秀の帰宅に気がついて、父に挨拶するたま。光秀の出勤中、美濃にいた妻子も京に出てきたのである。これからは京で妻子や家臣たちとの新しい生活が始まる。その喜びをかみしめながら、天下を鎮め、京を、そして家族を必ず守って見せる。そう誓う光秀であった。

 金ヶ崎の撤退戦で多くの鉄炮を失い、その補充を信長に命じられた光秀と秀吉(34)は、その調達のために堺にいた。

 今井宗久の館で、鉄炮や火薬などの調達交渉をする光秀と秀吉。「三百挺の鉄炮をすぐに納めよ、とはさすがに無理があると宗久(51)。ちょうど今朝方、さる大名に二百五十挺が売れたばかりだという。その大名とは誰かと尋ねる光秀と秀吉に、営業情報だから教えられないと断る宗久。「織田に喧嘩売っとるん?」と脅しにかかる秀吉を制して、「ここは茶でも飲んで、落ち着いて話をしよまい」と二人を宥める光秀。「じつは…」と宗久。今晩、顕本寺で茶会があるが、そこで話をしないかと宗久は誘う。

 宗久は事前に茶会の出席者リストを寄越す。光秀は、「鉄炮の購買者は教えられないが、茶会の出席者なら教えられる」という宗久の意図を察したものの、リストを見て考え込んだ。出席者の中で、大量の鉄炮を必要とするのは一人しかいない。しかし、その一人とは大和で松永久秀と敵対する、三好三人衆方の筒井順慶(22)であった。すんなりと鉄炮を譲ってもらえるとは考えにくい。悔しがる秀吉。それにしても、出席者リストの末尾には我らがお駒ちゃんの名前も…。

 

 なんだかんだいっても、時間前には顕本寺に着く光秀と秀吉。二人に順慶を引き合わせる宗久。そして順慶に連れられてきた駒。え!? 駒は義昭とできてるらしいから、気をつけろと警告して、秀吉はそのまま離席する。鉄炮二百挺を譲ってほしいと切り出す光秀。すると「私からもお願いします。それが公方様の願いでもあるから」と横から駒の強力な助け船。意外にも光秀の頼みを受け容れてもいいという順慶だが、光秀と駒の二人にはそれぞれに条件があるという。駒には将軍義昭を、光秀には信長を引き合わせてほしいというのだ。

 同年六月二十八日、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を姉川に破った。

 戦勝に沸く近江横山城内では、信長が家康(29)の働きを大いに褒めていた。光秀は家康に呼び止められる。家康はこれから三河に帰り、今後、織田・徳川に立ちはだかるであろう

強大な敵・武田信玄(50)に備えるという。家康は、将軍義昭がしばしば信玄に上洛を促す御内書を送っているといい、義昭を食えない御方だといった。

 翌七月二十一日、三好長逸ら三人衆は阿波から摂津中嶋に進出する。これを知った信長は翌八月二十三日、岐阜を発して入京すると、同月二十六日には摂津天王寺に布陣した。同月三十日、将軍義昭が摂津に動座する。

 摂津海老江城。将軍義昭を陣中に迎えて、皆勇み立ち、必勝の思いだと信長。信長以下の諸将を鼓舞するように演説する義昭。いわれたとおりにやったが、うまくできたか、と問うように笑顔で光秀を見やる義昭。

 

 翌九月十二日、石山本願寺は信長に対して兵を挙げ、全国の門徒に蹶起を促す檄を飛ばした。これを見て、長政(26)と義景(38)も同月二十日、兵を南近江に動かす。

 京にある、望月東庵の屋敷。戦火を恐れて、銭を庭に埋めようとしている東庵。公方様の参陣で戦火に包まれるような心配はないんじゃないのかと尋ねる駒。石山本願寺が三好三人衆に味方し、それを見た越前の朝倉が挙兵したため、予断は許さないと東庵。駒の表情に不安が広がる。

 正面に石山本願寺と三好三人衆を抱え、背後には浅井・朝倉の軍が迫り、挟撃される形となって、窮地に陥った信長は同月二十三日、義昭を伴って帰京した。

 京・二条城。「信長があんなに脆いとは…」。義昭は憤慨していた。本願寺が三好三人衆方につき、越前の朝倉が背後を脅かそうと動きだすや、信長がたちまち弱腰になり、義昭を使って目の前の敵と和議を図ろうとしたからである。じぶんが将兵を鼓舞しにわざわざ摂津まで参陣しにいった意味がないではないかと義昭は嘆いた。「前代未聞のだらしなさ」。側にいた晴門がここぞとばかりに信長をディスり始める。晴門は信長無用論を打ち上げると、甲斐の武田、越後の上杉を上洛させて、天下の安寧を図ることこそ肝要だという。「朝倉はいまどこにいる」。義昭の問いに、晴門は比叡山だと答えた。

 そこへ駒が訪ねてくる。義昭の無事を喜ぶ駒。義昭の表情からそれまでの険しさが消え、一気に明るさが広がった。駒に土産がある。そういった義昭は竹籠を取り出して見せると、「蜻蛉だ」といって、無邪気な子どものように笑った、

 翌二十四日、いったん摂津から帰京した信長は、まずは南近江に侵入した朝倉を叩くべく近江坂本に転進していた。石仏を背負って唸る信長。浅井・朝倉は信長が迫るや、叡山に逃げ込んだのである。「なぜ叡山は朝倉を匿うのか」、「なぜ浅井はこの戦に関わろうとするのか」。信長は絞り出すような声で光秀に問う。信長は多くを奪い、朝倉は多くを与えるからだろう。そう光秀が答えると、「何をだ」と信長がさらに問う。金だと光秀。

 比叡山延暦寺の一室。三人の僧の前に、金の大判三枚が差し出される。天下を平定した暁には望みの土地を献上し、延暦寺の屋根を黄金で葺き替えてみせるゆえ、何卒、信長を倒すために力添えを願いたいという義景。きっと座主もお喜びになるだろう、と僧たち。叡山の頂には暗雲が垂れ込めていた。

※人名の後の()内は、『国史大辞典』(吉川弘文館)による元亀元(1570)年時点の年齢(数え)。但し、同辞典では生年不詳とされている明智十兵衛(光秀)のみ、『日本人名大辞典』(講談社)によった。

 

(史料から)

『朝倉記』に「(信長の代官である)森三左衛門尉長康宇佐山ニ城郭ヲ構テ、(中略)山門領ヲ悉押領ス」とあり、寺領の還付を命じられたとしている。また『総見記』には「当時濃州ニ有之處ノ、比叡山延暦寺ノ領地ヲバ、皆悉押領セシム、(中略)先年ヨリ山門ヘ寄附シ置キ、向後大檀那ト成テ、若シ越前難儀ノ事有ル時ハ、山門三千ノ衆徒等一同ニ、朝倉ヘ一味スベキ由契約ヲ以テ、寄附セシ地ナリ」とある。「信長は多くを奪い朝倉は多くを与え」のネタ元だろうか。

 

■予習:比叡山に棲む魔物
(背景と展望)

 各地の反信長勢力が活発化する中で、比叡山に立て籠もりつづける浅井・朝倉軍に業を煮やした信長は、将軍義昭、そして朝廷に働きかけ、浅井・朝倉との和議を図ろうとする。

 番組予告を見るかぎり、その役目を負った光秀の前に立ちはだかるのが春風亭小朝さん演じる叡山のボス(天台座主)・覚恕法親王(50)となるようだ。覚恕は異父兄・正親町天皇(54)に対して暗い情念の炎を燃やしつづける人物として描かれているようだから、小朝さんの演技も見ものだ。

■前回(逃げよ信長)の復習
(あらすじと感想) 

 永禄十三(1570)年四月、正親町天皇(54)から「天下静謐のため、一層励むように」との沙汰を受けた織田信長(37)は勅命の名の下に若狭の武藤氏討伐を掲げ、京を進発した。

 若狭下向と見せかけた信長は(粟屋勝久の)若狭国吉城まで来ると、集まってきた諸将に「朝倉を討つ」と真の目的を打ち明ける。

 その頃、京の二条城では、摂津晴門、三淵藤英、細川藤孝(37)の三人が膝を突き合わせていた。「信長の狙いはやはり越前(の朝倉)だったか」と晴門。まずは手筒山城が立ちはだかるが、目の前にある金ケ崎城の守備隊と「(朝倉氏の本拠地)一乗谷からの援軍に挟み撃ちされたら、ど・う・な・る・こ・と・か☆見ものじゃ」と、まるでコメディの悪党っぽく笑う晴門。鶴ちゃん、ちょっとやりすぎだ。

 織田軍は越前に侵入するや、忽ち手筒山、金ケ崎両城を攻略する。

 あっけなく越前敦賀郡を制圧した織田軍の諸将には楽勝ムードが漂う。

 越前金ケ崎城の庭では家康の少年時代以来となる再会に、互いを懐かしむ家康(29)と光秀(43)がいた。そこへ松永久秀(61)がやってきて、枝城の手筒山では激しく抵抗した朝倉勢が敦賀郡の根城である金ケ崎を簡単に捨てたのはどうも怪しいという。久秀の意見に同調する家康。

 信長は近江小谷城の城主で、妹・市(24)の婿でもある浅井長政(26)に背後を守らせて、一気に朝倉義景(38)の本拠・越前一乗谷を叩く計画なのだとナレーション。

 

 ところ変わって一乗谷の朝倉館。重臣の山崎吉家に向かい、「長政(の挙兵は)はまだか」と問う朝倉義景(38)。長政は信長の妹婿なんだから、朝倉方につくわけがないじゃないか、と訝しげな吉家。浅井・朝倉両家の絆は太く、長政の父・久政がいる限り、長政は信長の妹婿だからこそ、今この機会に安心しきった信長の背後をつくはずだ、と力説する義景の自信に満ちた表情に不敵な笑みが浮かんだ。

 近江小谷城では城主の長政と妻の市が何やら話している。長政は「市の兄(信長)と敵対するのは本意ではないが、信長は浅井の同盟国である朝倉には手出しをしないと約束しておきながら、それを反故にするから、敵対せざるをえなくなったのだ」という。朝倉が滅びたら、次に滅ぼされるのは浅井だ」と長政。「兄はそんなことはしない」と市。「おまえはもう、浅井の嫁なんだから、これ以上は信長のことをいうな」と長政は市に告げて、戦場へと向かうのであった。

 再び越前金ケ崎城。軍議中の光秀を明智秀満が呼び出し、早馬がもたらした書状を手渡す。小谷城の長政が大軍を率いて金ケ崎に迫っているという。改めて光秀が信長を別室に呼び出す。長政に援軍を頼んだ覚えはない、と信長。長政の叛旗は明らかだから、すぐに逃げよと光秀。いったんは逃げることを拒んだ信長だったが、ついに「天下静謐の責任を果たすため、死んではならない」という光秀の説得を受け入れる。

 軍議の席に戻った信長は諸将に長政の裏切りを告げ、「逃げる」と宣言。撤退戦の采配を光秀に任せ、じぶんは朽木越えから帰京する。

 諸将が次々と撤退していく中、自己PRが得意なはずの秀吉が主人の信長ではなく、こともあろうに幕臣の光秀に殿軍(しんがり)をさせてほしいと願い出る。他の諸将も見ていないけど、本当にこれでいいのか、秀吉。佐々木蔵之介さんの熱演も信長の前でなら、確実に名シーンとして語り継がれるだろうに、と少し残念な気もした。

 光秀と秀吉。二人の決死の撤退戦が始まった。

 

 光秀は激しい撤退戦のさなか、腹心の秀満に「平和は結局、戦って勝ち取るしかないのだ」と語る。

 京・二条城では晴門が将軍義昭に信長の敗戦を嬉しそうに報告していた。

 別室では「施薬処」、「非田処」と書き込まれた図面を前に義昭を待つ駒がいた。部屋に入ってきた義昭は朝倉攻めは信長の負けに終わったと教える。三か月ほど前の、正月二十三日に信長は條書五箇条を呈出し、これを義昭に承認させた。その一条に「天下の儀、誰々によらず、上意を得るに及ばず」とある。つまりは将軍の許しがなくても、信長はおのれの意のままにできる。じぶんはまだ、真の将軍にはなっていないのだ、と義昭はいう。「御所の屋根や塀の修理も大事かもしれないが、病気で苦しむ人々や、貧しい民衆を救うことこそ、真っ先にすべきことではないか」と。駒が小さくうなづく。「私が真の将軍になったら、いつの日にか必ず戦をなくしてみせる」。そのためには、諸侯が将軍や幕府をリスペクトする世の中でなければならないと義昭。「私は兄上の轍は踏まない」。駒は悲しそうな目で、義昭の話に耳を傾けていた。それぞれの正義が理想と現実の狭間で次第に独り歩きを始めていた。

 越前から撤退した織田軍の将兵でごった返す妙覚寺。

 ようやく京にたどり着いた光秀。そこへ血と汗と涙で顔をくしゃくしゃにした秀吉が駆け寄ってきた。撤退戦のさなか、二手に分かれたものの、互いの消息が分からず案じていたと光秀が再会を喜ぶ。じぶんが殿軍を務めたことを誰も信じてくれない、と咽び泣く秀吉。それを聞いて、義憤にかられた光秀は諸将の集まっている休憩所へ行き、「木下殿の殿軍での働きぶりは見事だった」と証言する。信長はどうしているかと光秀が問うと、部屋に引きこもったまま誰にも会わないと秀吉が心配そうに答える。

 部屋でやさぐれる信長。じぶんに期待してくれた帝や妻の帰蝶に何といえばよいのか、と思い悩む信長。ありのままをいえばよいと光秀。負けは負けでも、信長が生きている以上は、大きな成功への重要な一歩なのだから、ありのままを報告すればよい。麒麟がそういう声を聞いたと光秀は嘯いて笑った。

※人名の後の()内は『国史大辞典』(吉川弘文館)による元亀元(1570)年時点の年齢。但し、明智十兵衛(光秀)のみ、『日本人名大辞典』(講談社)による。

 

(史料から)

 金ヶ崎の撤退戦について、

〇『原本信長記』は、「金崎之城にハ、木下藤吉郎残し置せられ」た、という。、

〇また『武家雲箋』の、一色藤長から波多野秀治に宛てた書状には、「金崎城ニ木藤(木下藤吉郎)、明十(明智十兵衛)、池筑(池田筑後守)其外被残置」とある。

〇これが『当代記』では、「金崎二誰ヲカ可被残トノ議也、茲ニ木下藤吉郎、吾ヲ可被残之由言上、信長快気也、各莫不美談」とやや芝居がかってくる。

〇一方、『(校訂)松平紀』には、「早々家康を跡に置て、同廿七日、宵の間に引取給ふ、家康是をは不知、木下藤吉を御同道被成、静にのかせ給へとも」とあり、信長が黙って先に撤退してしまったため、図らずも後に残された家康は藤吉郎とともに撤退するはめになったという。『朝倉家記』はこれを「信長ハ寵臣木下藤吉郎秀吉ヲ金崎ノ城ニ残シ、三州ノ徳川殿ニ後殿ヲ頼ミ置、廿八日ノ夜ニ入テ、敦賀表ヲ引拂ヒ」と記し、一応の筋は通したことになっている。
 また、長政が信長を裏切った理由として、

〇『朝倉家記』は、「江州北ノ郡小谷ノ城主浅井長政ハ、先年ヨリ世々ヲ経テ、越州朝倉ニ入魂也、然處此ノ比公方ノ御方申テ、信長隋逐ス、長政カ内室ハ前弾正忠信秀ノ息女ニシテ、信長ノ妹也ケレハ、常ニ信義ハ一味同心ノ思ヲナシ、今度モ催促ニ応シテ、討立ントシケル時、親父下野守久政再三諌申サレケルハ、縁者ナカラモ、信長ハ親疎ヲ不知荒夷ニテ、豺狼ノ野心アリ、今コソ兄弟ノ好シミヲナストモ、終ニ当家ヲ危ンテ滅サレンハ此人也、越州ノ朝倉ハ当家数代ノ昵懇ニテ、互ニ頼ミ頼マルゝ、今当家織田ニ組シテ朝倉ヲ亡サハ、古人ノ所謂唇亡則歯寒キカ如ニテ、当家モ終ニ亡ヘシ、(中略)朝倉一味ノ旗ノ手ヲ揚ラルヘシトソ申サレケル」と記している。

 つづけて、有名なお市の方の小豆の話。

〇「長政ノ北ノ方ハ信長ノ妹ナレハ、此事ヲ聞玉ヒテ、扨イカニモシテ、信長ニ告知ラセ度思ハレケレトモ、(中略)文ヲハ不遣サ、口上ノ旨趣ノミ述ヘ、陣中ノ御菓子ニ可被成候トテ、袋ヘ小豆ヲ入、其袋ノ跡先ヲ縄ニテ結切リ、封ヲ付テ信長ヘソ贈ラレケル、信長ハ元来聡明英武ニシテ、活智ヲ得ラレシ名将ナレハ、其進物ヲ見ルヤ否ヤ、目ヲ塞キ思案セラレケルカ、暫ク有テ、家老ヲ召シ、密ニ宣ケル様ハ、是見給ヤ各々、(中略)跡先ヨリ挟立テ、朝倉浅井両端ヨリ、我軍勢ヲ一騎モ不残可討取トノ策、(略)是ヲタトフルニ、タトヘハ袋ヘ小豆ヲ入、跡先ヲ結切テ一粒モゝレサル如クナルヘシ、長政カ室家我ニ此事ヲ悟レト思フハカリコトニ、此小豆ヲハ送レル也、妹ナカラモ、此智慮ハ、男子ノ及フ業ニアラスト、涙クミテ申サレケレハ、一族家老ノ面々モ、兄弟ノナサケヲ感シ、鎧ノ袖ヲソヌラシケル」

 

■予習:反撃の二百挺
(背景と展望)

 金ケ崎の戦いで失った鉄炮を調達・補充するのがミッションとなる話のようだ。

 久しぶりに登場する今井宗久や、若い筒井順慶の活躍も見ものだろうか。

 タイトルのエピソードがどんな出来事に基づいているのかよくわからないが、三か月後には姉川の戦いもあることだし、そのあたりの話になるのだろう。そんなわけで、今回は予習の材料もなく、お休み。

 信長の正義、秀吉の正義、家康の正義、義昭の正義そして光秀の正義、駒の正義等々。

本能寺の大義名分もそろそろ垣間見えてくるころだろうか。