■前回(訣別)の復習
(あらすじと感想)
元亀三(1572)年・冬、三条西実澄(62)の館で待ち合わせた光秀(45)は実澄の供として参内した。むむ、番組中程で元亀三年四月を「げんきさんねんはる」とナレーションしていることから察するに、冒頭のシーンは最初、十~十二月ごろかと思っていたのだが、冬というのは「正・ニ月」のことだったらしい。一年近くずれているじゃないか。今までも何かおかしいとは思っていたけど、そういうことかぁ。旧暦の一・二月を「冬」といわれると、さすがに混乱してしまう。時系列の感覚がおかしくなるのもやむをえないか……。
京・内裏で正親町天皇(56)と心を通わせた光秀が帰宅すると、織田家の重臣・柴田勝家(51)と佐久間信盛(46)、木下秀吉(36)の三人が訪ね来て、待っていた。いったんは和睦した松永久秀(63)と筒井順慶(24)ではあったが、水と油の二人に和平が長くつづくはずもなく、再び上がった戦火は大和から河内にも広がりつつあった。将軍義昭(36)は、順慶に肩入れし、久秀を討つべく信長(39)にも出兵を促し、勝家ら三人は信長の命で久秀を鎮圧しにきたのだという。酔いにまかせて秀吉が不満をまき散らしていた。久秀と戦うぐらいなら近江の浅井を討つのが先決だ、と秀吉はいう。浅井朝倉を使って、出撃した織田軍の背後を衝くのが公方様(義昭)の狙いなのだ、と秀吉はいう。信盛は帰り際、叡山焼討ちの際の光秀の命令違反(撫で斬り命令に反して女子供の命を救ったこと)に触れ、いまや信長に物申せるのは光秀だけだから、万一の際には信長を諫言してくれといった。
京・二条城、三淵藤英に案内されて、義昭に拝謁する光秀。剣の立ち合いを義昭に所望され、いったんは断るものの、やむなく立ち合う仕儀となった光秀。むきになって挑みかかるも、簡単にあしらわれる義昭。かつての実直で飾らない義昭と、虚勢を張り、かたくなに我をとおし、周囲の意見に耳を貸さない、今の義昭とを対比させることが番組の意図だろうか。
光秀が自宅の庭で月を見上げながら考え込んでいる。「あした、坂本城を見せてやろう」。光秀は妻の煕子(38)にそういった。
近江坂本城の天守に煕子を案内する光秀。琵琶湖、そして対岸を眺める二人。必ず家族みんなをここに呼び寄せる、と光秀は煕子に誓う。人質として、妻子を京に置いていけとか、パワハラ野郎のいうことなんて糞食らえだ、と光秀は言い切った。
同年四月、信長(39)は、久秀鎮圧のため、勝家らを河内に遣わしたが、久秀を取り逃がして、戦を終えた。
甲斐躑躅ヶ崎館では、武田信玄(52)が評定の場で重臣たちに、公方から上洛せよとの矢の催促があり、戦機も熟したことから、出陣したい旨を告げる。重臣たちに異存はない。同年十月、信玄は自ら大軍を率いて甲府を進発した。
美濃岐阜城では、信長が光秀に、見た夢の話をしていた。夢の中で信玄に捕らえられた信長は義昭の前に突き出され、鼻と耳を削がれた上に晒し首にされたという。これは公方様に最近冷たく接してきた報いに違いないといい、公方様に呈上した異見十七箇条は遠慮もなく、やり過ぎだったと告げ、公方様の機嫌を取り繕うために「鵠(くぐい)=白鳥」を献上したいと信長はいった。公方様に対してはこれでもじぶんなりに気を使っているのだ、と信長はいう。すると、気を使うなら、もっと他に使うべきだと光秀はいう。いままさに信玄の大軍と激突しようとしている徳川家康(31)にこそ、もっと気を使って然るべきであり、もっと援軍を出すべきだ、と光秀は訴える。そこへ、三方ヶ原における家康の敗報が届いた。
駒のもとへ義昭からの書状が届く。義昭が構想する福祉事業に対する、駒の献金を鉄炮購入のための軍資金に充てたいというのだ。借りた資金は、戦に勝ったら返す、という。駒の目に、失望と悲しみの色が浮かんだ。
光秀が持参した「鵠」を見て、「届くのが遅すぎた。これを受け取ることはできぬ」と義昭は呻くようにいった。何故か、という光秀の問いに対し、じぶんはもう、信長との戦を覚悟したのだ、と義昭はいった。義昭は、信長が九月に義昭へ呈出した異見十七箇条の書状を畳に叩きつけると、このような罵詈雑言にはもう我慢がならない、といった。いま信玄が上洛の途上にあり、浅井朝倉は信玄に呼応して出撃し、久秀も信長包囲網に加わった、と義昭はいう。藤英が「明智殿にもこの包囲網にぜひ加わってほしい」と光秀を誘う。しかし、光秀は涙ながらに義昭へ再考を迫り、改めて義昭の決意が固いことを知ると、藤英の誘いを断り、義昭の前から去るのであった。「明智殿っ」、光秀を追いかけようとする藤英を義昭が呼び止めた。「追うな。光秀は籠を出た鳥だ」。涙に濡れた義昭の視線の先には籠の中の「鵠」の姿があった。「いつかまた、飛んで戻ってくる日があるかもしれない」。ついに光秀は義昭と訣別したのである。
同四(1573)年三月、将軍足利義昭は西近江に挙兵した。
※()内の数字は、元亀三(1572)年時の年齢
(史料から)
〇『兼見卿記』によれば、元亀三年四月十六日、信長は、信盛・勝家ら兵二万を久秀軍との戦闘のため、河内に遣わしている。光秀や藤孝、藤英らも幕臣として出陣している。
〇『御湯殿上日記』には、元亀三年四月八日条に信長が(正親町天皇に)「鵠」を献上した旨の記事もある。
■予習:信長公と蘭奢待
(背景と展望)
天正元(1573)年四月十二日、信長にとって最大の脅威であった武田信玄が病没すると、信長包囲網は破綻した。将軍義昭を京都から追放し、権力の頂点を極めた信長は、正倉院御物である名香木「蘭奢待」の截り取りを望む。
信長はまだ誰も見たことがない地平に足を踏み入れようとしていた。