■前回(丹波攻略命令)の復習
(あらすじと感想)
 天正二(1574)年の夏が過ぎた頃、坂本城には信長(41)の命令を帯びた使者が訪れていた。一両日中に、光秀(47)が預かり置いた三淵藤英を自害させよというのである。藤英は中庭で光秀の次女・たま(12)に花の活け方を教えていた。藤英は光秀の顔を見て、その用件を察する。藤英と、紀伊国由良にいる足利義昭(38)との間に音信があり、信長打倒の企てが発覚したため、切腹の処断が決まったのだと光秀がいう。光秀は、信長への助命を申し出るが、余計なお世話だと藤英に断られる。厳しい残暑の頃、藤英は坂本の月の下で自害して果てた。


 同年秋、光秀は佐久間信盛(48)、細川藤孝(41)らとともに河内へ攻め込み、三好一党と本願寺の連合軍を打ち破った。一方、信長は伊勢長島一向一揆を討ち滅ぼしていた。光秀が河内国から帰還すると、稲葉良通(60)の家臣・斎藤利三(41)が光秀の館に駆け込んでいた。光秀が利三に駆け込みの理由を尋ねると、次から次へと主を乗り換える良通に愛想を尽かしていたところ、耐え難いパワハラを加えられたため、どうせ転職するならば、信長に対しても言うべきことを言える光秀の下で働きたいと思ったのだという。

 京・妙覚寺では、信長から呼び出された光秀が廊下でバテレンたちとすれ違っていた。彼らはここから来たのだ。そういいながら、信長は床に広げた世界地図のイベリア半島を指し示した。利三を良通に返してやれ、と信長はいった。良通は美濃の国衆のキーマンだから、臍を曲げられると面倒なのだ、と信長はいう。もし利三を返せば、良通は見せしめのために利三を殺してしまいかねない、と光秀は懸念を口した。一人の命ぐらい、是非もあるまい、と信長。一人の命を大切にすることを知れば、国衆たちは信長様に心服するだろう、と光秀はいう。わしが一人の命を大切にしていないとでも? 信長は不本意そうに光秀を見やると、そういった。公方様(将軍義昭)のときだって、敵対した義昭を殺すこともせずに、わざわざ若江城まで送り届けてやったじゃないか、と信長は主張する。あのときは、秀吉が、信長様の指図と称し、義昭を裸足で歩かせ、宇治から若江城まで連行して、さんざん笑い者にしたそうじゃないか、と光秀は突っ込み、あれが武家の棟梁に対する仕打ちだろうか、きっと諸大名も呆れているに違いない、と指摘した。信長は赤面すると、返せといったら返せよな、と面倒臭そうに声を荒げた。やだね、と光秀が即座に拒否すると、青筋立てた信長は、光秀に向かって、帰れ!と怒鳴りつけた。これには光秀も売り言葉に買い言葉で、あ・ば・よ!と言い残すと、部屋を出て行った。しばらく考え込んでいた信長はニヤリと笑うと、いますぐに(光秀を)呼び戻せ、と近習に命じた。光秀が部屋に戻ると、バテレンからのプレゼントだといって、信長は一着の外套を差し出し、光秀に与えると、丹波国の攻略を命じた。信長は、光秀の与力として藤孝をつけてやるといい、利三の件もじぶんが良通に話をつけてやる、と約束した。

 坂本城では、光秀が信長にもらった外套を早速、身にまとって妻子に披露していた。

 

 一方、京・若宮御殿の庭では、誠仁親王(23)が蹴鞠に興じていた。関白の二条晴良(49)が同席していた信長に声をかけ、別室に誘った。正親町天皇(58)が誠仁親王への譲位を希望しているので、早急に準備を進めたいが、どうだろうか、と晴良が信長の顔を覗き込んだ。信長殿には敵も多く、多額の戦費も必要だろうから、金が必要な譲位を急ぐことはないんじゃないか、と三条西実澄(64)が口を挟んだ。帝が希望しているなら、速やかにやるべきだね、と信長はいった。

 帝と実澄が話している。二条関白は将軍義昭が失脚して以来、保身のため、信長に接近しているようだ、と帝はいう。信長は、公家の生活支援に尽力してくれているから助かるが、関白に近づきすぎると、怪我をしかねない、と信長のことを案じた。そういや、光秀はどうしている?と帝は実澄に尋ねた。光秀と話したい、と帝はいった。

 光秀は伊呂波太夫を訪ねていた。前関白の近衛前久に丹波のことを聞きたいから、前久に会わせてくれ、と光秀は太夫に頼んだ。前久が京都に戻れるよう、信長に取りなしてくれれば、前久に会わせてもいい、と太夫はいった。セッティングするから、丹波の園部に来い、と太夫はいう。誰か適当な道案内を紹介してほしい、と光秀がいうと、太夫は駒のところに適当な人物がいる、と教えた。

 果たして、その人物は菊丸であった。光秀は、菊丸の筆跡を見て、以前、信玄死すの風説があることを知らせてくれたのが菊丸であったことを知る。光秀は、菊丸が丹波の国内事情に詳しいようだから、といって、誰か丹波で協力を得られそうな国衆はいないか、と尋ねた。菊丸は、小畠永明様なら、と答えた。

 太夫の仲介で前久に面会した光秀は、前久が織田の敵対勢力に与してきたことを指摘し、今後も敵対するつもりか、と尋ねた。そもそも、じぶんは織田に敵対するつもりなど最初からなく、近衛家を敵視する二条関白と信長が手を組んだ成り行きで敵認定されてしまっただけで、一方的に敵視されなければ、いつでも信長に協力するつもりだ、と前久はいった。それなら、船井郡の小畠永明に会わせてほしい、と光秀はいう。そんな小者に会っても意味ないんじゃね?と前久はいうが、丹波の民情を知るためには、ぜひ会って話を聞きたいのだ、と光秀はいった。丹波は京都に近く、利害関係も複雑なため、対話なんてまどろっこしいことをしようという者はいない。戦こそがすべてなのだ、と前久は言い切った。

 天正三(1575)年の夏、丹波の国衆は信長に従わず、光秀は丹波攻略に取り掛かった。長い戦いの始まりであった。

※()内の数字は、天正ニ(1574)年時の年齢

(史料から)

 『信長記』(池田家文庫本)によれば、元亀四(1573)年七月、槙島城に挙兵し、降伏した将軍義昭に対して、本来ならば切腹させるところを信長は助命し、「怨をは恩を以て被報」として、羽柴藤吉郎(秀吉)に河内若江城まで護送させた、という。その有様を見て「貧報公方と上下指をさし嘲哢を成」したといい、「御自滅と乍申、哀成有様目も当られす」と記述している。

■予習:本願寺を叩け
(背景と展望)

 うーん。ここまで来ても、いまだに光秀の人物像は輪郭がぼんやりしたままだ。光秀自身の志がいま一つ曖昧でわかりにくく、他人の値踏みばかりしている印象が強いからかもしれない。丹波攻略で大きな挫折でも味わって、一皮むけたりするのだろうか。

 次回はタイトルからして、本願寺の逆襲っぽい感じになるのだろうか。信仰のためなら、死をも怖れない本願寺門徒衆は、敵にまわしたら本当に怖かっただろうと思う。その本願寺を相手にしつつ、西からは大毛利、東からは越後の龍・上杉謙信(45)も迫ってくる。義昭の御内書外交はまだ終わってはいない。彼は誠に勤勉なのである。

 

 

物語はいつ始まり、どこまでが描かれるのか

 

 まずはドラマでどこからどこまでが描かれるのかを考えてみたい。
 本題が北条義時を主人公にした鎌倉バトルロイヤルであるからには、頼朝(鎌倉殿)死後が主要な舞台になるはずだが、キャストを見るかぎりでは、かなり早い時期に活躍する人物たちも登場するようだ。物語の語り始めも相当に遡ることが予想される。
 頼朝(鎌倉殿)と13人それぞれとの出会い、そして13人がどうやって13人足りえたのかがかなり丁寧に描かれると見るべきだろう。鎌倉バトルロイヤルにおいて、義時と渡り合う主な敵役が仮に(1)謀臣・梶原景時、(2)外戚・比企能員、(3)執権・北条時政、(4)侍所別当・和田義盛の四人だとするなら、配役を見ても分かるように、頼朝の流人時代や石橋山での逃亡劇も欠かすことはできないという判断なのだろう。
 終わりについては、どうだろうか。父・時政を乗り越えるまでというのも、義時の成長物語なら、ドラマとしてはアリだろうが、ここは鎌倉バトルロイヤルを勝ち抜くまでは描かれるものと考えたい。後は鎌倉のチャンピオンとして、克服した御家人たちを束ね、承久の最終決戦に挑むかどうかだ。義時の生涯を描くことに比重を置くなら、承久の乱も描かれることになるだろう。
 とりあえず本稿では、予想されるパートごとに、一次発表で判明したキャストを当てはめ、全体構成を概観してみようと思う。

 

■第一部
 第一部では、頼朝(鎌倉殿)・政子夫妻を中心に、鎌倉殿と13人との出会い、そして13人が13人足りえた経緯が描かれるだろう。


 1.挙兵

  頼朝挙兵前後における、頼朝と13人との出会いが描かれる。

  ( 1)頼朝の流人時代を支援する比企尼たち [比企能員、安達盛長]

  ( 2)頼朝と政子の出会い、頼朝と北条時政・義時父子の出会い [北条時政、北条義時]

  ( 3)以仁王の令旨、三善康信の急報、挙兵 [三善康信]

  ( 4)石橋山、梶原景時の機転 [梶原景時]

  ( 5)三浦大介の最期 [三浦義澄、和田義盛]

  ( 6)千葉介と上総介、鎌倉開府 [足立遠元、八田知家]

  ( 7)富士川、義経参陣

  ( 8)清盛死す


  〇頼朝・政子夫妻と北条家の人々  主人公・義時との関係
   源頼朝(34):大泉洋さん  義兄
   北条政子(24):小池栄子さん  実姉
   北条義時(18):小栗旬さん (本人)


   北条時政(43):坂東彌十郎さん  実父
   牧の方(-):宮沢りえさん  義母

   北条宗時(-):六代目片岡愛之助  実兄

   阿波局(-):宮澤エマさん  実姉

   阿野全成(28):新納慎也さん  義兄

 

  〇頼朝の血縁者たち

   源範頼(-):迫田孝也さん
   源義経(22):菅田将暉さん
   源行家(-):杉本哲太さん

 

  〇頼朝の支援者たち

   比企尼(-):●

   比企能員(-):佐藤二朗さん

   安達盛長(46 :野添義弘さん

 

   三善康信(41):小林隆さん
 

  〇三浦党の人々

   三浦義明(89):●

   三浦義澄(54):●

   三浦義村(-):山本耕史さん
   和田義盛(34):横田栄司さん

 

  〇御家人たち

   梶原景時(-):二代目中村獅童
   畠山重忠(17):中川大志さん

   土肥実平(-):阿南健治さん
   千葉常胤(63):●

   上総広常(-);●

   足立遠元(-):●

   八田知家(-):●

 

  〇平家方の人々

   平清盛(63):松平健さん
   平宗盛(34):小泉孝太郎さん
 

   伊東祐親(-):辻萬長さん
   大庭景親(-):●

 

  ※()内は頼朝挙兵(治承四年)時の年齢

  ※●印はキャスト未定

 

 2.源平争乱

  頼朝と、木曽義仲、平家、義経と奥州藤原氏との戦いを通じ、13人の活躍が描かれる。

  また、頼朝と義経、梶原景時と義経の相克がクローズアップされ、第二部のプロローグを成す。

  ( 9)武士の国、広常誅殺

  (10)義仲没落、一の谷、京下りの官人 [大江広元、中原親能、二階堂行政]

  (11)義経任官、屋島・壇ノ浦、義経襲撃

  (12)秀衡の死、衣川、奥州征伐

 

  〇頼朝・政子夫妻と北条家の人々
   源頼朝(39):大泉洋さん
   北条政子(29):小池栄子さん

   大姫(8):●

   北条義時(23):小栗旬さん


   北条時政(48):坂東彌十郎さん
   牧の方(-):宮沢りえさん

   阿波局(-):宮澤エマさん
   阿野全成(33):新納慎也さん

 

  〇頼朝の血縁者たち

   木曽義仲(-):● ※享年31(1184年)

   源義高(-):● ※享年12(1184年)

 

   源範頼(-):迫田孝也さん
   源義経(27):菅田将暉さん
   源行家(-):杉本哲太さん

 

  〇義畝をめぐる人々

   静御前(-):●

   弁慶(-):●

 

  〇奥州藤原氏の人々

   藤原秀衡(64):●

   藤原奏衡(31):●

   藤原国衡(-):●

 

  〇三浦党の人々

   三浦義澄(59):●

   三浦義村(-):山本耕史さん
   和田義盛(39):横田栄司さん

 

  〇御家人たち

   比企能員(-):佐藤二朗さん
   安達盛長(51 :野添義弘さん
   梶原景時(-):二代目中村獅童
   畠山重忠(22):中川大志さん

   土肥実平(-):阿南健治さん

   千葉常胤(68):●

   上総広常(-);●

   八田知家(-):●

 

  〇幕府の文官たち

   三善康信(46):小林隆さん

   足立遠元(-):●

   大江広元(38):栗原英雄さん

   中原親能(43):●

   二階堂行政(-):●

 

  〇平家の人々

   平宗盛(39):小泉孝太郎さん
   平知盛(34):●

   平教経(-):●

 

  〇宮廷の人々

   後白河法皇(59):●

   九条兼実(37):●

   一条能保(39):●

 

  ※()内は平家滅亡(文治元年)時の年齢

  ※●印はキャスト未定

 

 3.天下草創

  天下草創期における、主な出来事と13人の活躍が描かれる。

  (13)頼朝の上洛、盟友・九条兼実、日本一の大天狗

  (14)法皇崩御、征夷大将軍  

  (15)再上洛、大姫入内問題、建久七年の政変

 

  〇頼朝・政子夫妻と北条家の人々
   源頼朝(46):大泉洋さん
   北条政子(36):小池栄子さん

   大姫(15):南沙良さん

   北条義時(30):小栗旬さん


   北条時政(55):坂東彌十郎さん
   牧の方(-):宮沢りえさん

   阿波局(-):宮澤エマさん
   阿野全成(40):新納慎也さん

 

  〇頼朝の血縁者たち

   源範頼(-):迫田孝也さん
 

  〇三浦党の人々

   三浦義澄(66):●

   三浦義村(-):山本耕史さん
   和田義盛(46):横田栄司さん

 

  〇御家人たち

   比企能員(-):佐藤二朗さん
   安達盛長(58 :野添義弘さん
   梶原景時(-):二代目中村獅童
   畠山重忠(29):中川大志さん

   土肥実平(-):阿南健治さん

   千葉常胤(75):●

   上総広常(-);●

   八田知家(-):●

 

  〇幕府の文官たち

   三善康信(53):小林隆さん

   足立遠元(-):●

   大江広元(45):栗原英雄さん

   中原親能(50):●

   二階堂行政(-):●

 

  〇宮廷の人々

   後白河法皇(66):●

   九条兼実(44):●

   一条能保(46):●

   土御門通親(44):●

 

※()内は頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年時の年齢

※●印はキャスト未定

 

 4.巨星墜つ

  晩年の鎌倉殿(頼朝)と13人が描かれる。

  (16)大姫の死

  (17)巨星墜つ

 

■第ニ部
 第ニ部では、頼朝(鎌倉殿)死後、主人公・北条義時の視点で武都鎌倉における御家人同士のバトルロイヤルが描かれる。

 

 1.謀臣・梶原景時

 2.外戚・比企能員

 3.執権・北条時政

 4.侍所別当・和田義盛

 

■前回(信長公と蘭奢待)の復習
(あらすじと感想)
 元亀四(1573)年三月、将軍義昭(37)は武田信玄(53)と共に信長(40)と戦うことを決意し、兵を挙げた。義昭の切り札・信玄は前年の十二月二十二日に遠江三方ヶ原で徳川家康(32)を鎧袖一触に蹴散らすと、刑部で越年した後、三河に侵入し、菅沼定盈(32)の野田城を陥れるが、そこから突如として兵を反転させる。信玄が上洛すると思い込んでいた沿道の人々は不審な思いを口々にし、あれこれと噂しあっていた。その中に、家康の間者・菊丸の姿もあった。

 同年七月、宇治・槙島城に立て籠もっていた義昭は、浅井朝倉の援軍が一向に現れず、いまだ信玄の上洛もないことに苛立ちと焦燥を覚えていた。そこへ大勢の兵士たちを引き連れた秀吉(37)が現れ、敗軍の将・義昭を捕えてしまう。(ドラマでは描かれていないが、四ヶ月前に挙兵した義昭は、信長に上京を放火され、二条城を包囲されても、信長からの和議の申し入れには応じなかった。しかし、同年四月七日、勅命が下るに及んで、義昭はついに信長と和睦する。その数日後に信玄は五十三歳で病没するが、そのことを知らない義昭は、三淵藤英らに二条城を守らせ、自らは槙島城で再び兵を挙げたのであった。)これ見よがしに義昭を連行する秀吉。跪いて、義昭が通り過ぎるのを見送る光秀(46)。秀吉はそれをあざ笑うかのように、冷たい目で見つめていた。

 

 (これもドラマでは特に言及されていないが、義昭に二条城の守備を命じられていた藤英は、他の在番衆がみな退城する中で、一人二条城に籠っていたが、柴田勝家(52)の説得を入れて、同年七月十二日、山城伏見城に退去していた)。信長に降伏した藤英は、早々と信長方についた弟の細川藤孝(40)、光秀の二人を山城伏見城に迎えていた。藤英は同月十八日に槙島城で捕らえられた義昭が山城枇杷荘で無事なことを聞かされて、ひとまずは安堵する。藤英は、藤孝が信長に内通していたことをなじるが、藤孝は政治の世界では風を見る鶏になることも肝要なのだと言い放った。藤孝は、三好三人衆の一人で、義昭方の岩成友通を藤孝と共に山城淀城に攻めよ、という信長の命令を藤英に伝えた。

 京では、菊丸が光秀に届けてくれと一通の書状を配下に託していた。信長が浅井朝倉を早く討ってくれないと、同盟国の三河もいずれ苦境に立たされると菊丸は見ている。信長が浅井朝倉に手出しができないのはその背後に信玄の影を見ているからだと菊丸は考えた。つまり、(ドラマの、この時点では)信長陣営はまだ信玄の死を認識していないということだ。

 光秀は、菊丸の配下から、秘かに書状を受け取る。一方、菊丸自身は駒をたずね、東庵の診療所を訪れていた。中では、秀吉の母・なかが東庵の治療を受けていた。

 宇治・枇杷荘では、駒が義昭を訪ねていた。虫篭を返しに来たのだ、と駒はいう。義昭は、上杉謙信(44)や信玄、浅井朝倉、毛利に宛てた書状を見せ、まだまだ信長打倒を諦めたわけではないと語る。まだ戦を続けるつもりか、本当に勝てると思っているのか、と駒は涙ながら義昭に問う。将軍であるからには、御内書を書き続ける他はないのだと義昭はいう。だったら、将軍なんて辞めて! 昔の戦を嫌う、平和を愛するあなたに戻って!と駒は瞳を濡らし、震える声で訴えた。戦をやめさせようと、睨み合う大名たちに和平を働きかけても、一向に戦はなくならない。戦をなくすには、結局のところ、戦をするしかないのだ、と義昭はいった。義昭は寂し気に駒の目を見つめなおすと、「わしは駒を欺いてしまったのかもしれんな」と力なく笑った。

 貞正、安永、延禄、天正、文禄。床に並べられた五枚の半紙に書かれた五つの年号案を信長が見比べていた、そこへ光秀の来訪を家来が告げる。信長は、五つの年号案を光秀に示し、不在の将軍に代わって、改元の事を奏上したといった。信長は中から「天正」の号が書かれた一枚を拾い上げると、「これだな」といって上機嫌に笑った。光秀は、義昭をどうするつもりかと尋ねた。将軍なんて、適当に放っておけばいい、と信長はいう。あれは秀吉にまかせた。信長は関心なさげにそういうと、光秀に顔を近づけ、「武田のことは聞いているか」といった。信玄は三河に侵入した後、突如として兵を班したと聞く。信長はそういうと、東(信玄)の脅威さえなくなれば、浅井朝倉を一気に滅ぼせるものを、といった。光秀は、菊丸が知らせてきたこと、すなわち「信玄死す」との風説があることを信長に教えた。

 元号が改まった天正元(1573)年八月、近江に出撃した信長は、長政(29)の援軍として、越前から出てきた朝倉義景(41)を追撃し、敦賀を経て、一乗谷に到る。同月二十日、義景は、従弟である朝倉景鏡の裏切りもあり、自刃して果てた。ついで信長は浅井久政・長政の父子を小谷城に攻め、同月二十七日、二人を自害に追い込んだ。ここに、浅井朝倉の両氏は滅亡したのである。

 

 京・妙覚寺では、今井宗久(54)が信長の前で朝倉攻めの戦利品を鑑定していた。信長は光秀を呼ぶと、松永久秀(64)が許しを請うているという。義昭方に転じていた久秀であったが、将軍義昭は京都から追放され、頼みの信玄は鬼籍の人となり、浅井朝倉も滅亡した今となっては、孤立無援となったことを覚らざるをえないのであろうと信長はいった。久秀をどうすればよいか、と信長が尋ねると、久秀は有用な人物だから、許して活用すべきだ、と光秀は進言した。よかろう、多聞山城を差し出す代わりに久秀を許してやろう、と信長はいった。

 織田様はもう天下人も同然だ、と宗久が信長を持ち上げると、蘭奢待を知っているか、と信長は、正倉院の御物(天皇家や将軍家が私蔵する美術品等のこと)である名香木のことを尋ねた。信長は今のじぶんには蘭奢待を拝見する資格があるだろうか、と問う。もちろんだ、と宗久はいう。いまや天下人たる織田様が望んで、何の支障があろうものか、と宗久はからからと笑った。信長の真意を測りかねた光秀は、帰り際の宗久をつかまえると、信長は何を考えているのだろうか、といった。将軍義昭を追い、浅井朝倉を滅ぼして、今や天下に並ぶ者のない存在となった信長にはその高みからしか見えない景色があるのだろうと宗久は笑った。果たして、そうだろうか、と光秀はいう。幕府を倒し、代わってどんな世を創ろうとしているのか。そのビジョンはいまだ描けてはいない。高みから景色を眺めるどころか、まだ道半ばなのだ、と光秀はいう。要するに、信長はエゴサーチがしたいのさ、と宗久はいう。誰しも、いま現時点での、じぶんの価値を知りたいと思うものだ。人はおのれが立つ場所からの見晴らしが変われば、その人の生き方そのものも変わってくるものだ。そういうと、宗久は帰っていった。

 桜が咲き乱れる季節、内裏では三条西実澄(63)が参内して、信長が從五位下に叙され、昇殿を許された旨を帝に報告していた。実澄は、将軍不在の今、それに代わりうる力をもつ信長に然るべき官位を与えることができて安堵した、と本音を吐露する。信長は、天下静謐の事業に関しては見事な働きをしている。褒美をやらなければなるまい、と帝はいう。帝は浮かない様子で、信長は蘭奢待を所望している、といった。帝の声には、明らかに戸惑いの色が滲んでいた。蘭奢待を? しかも、截り取りを? 何という不遜な…。実澄はそこまでをいうと、絶句した。実澄はこのことをどう思うか、という帝の下問に対し、帝が許容するなら、致し方なし。実澄としては、そう答える他になかった。

 天正二(1574)年三月二十八日、東大寺・正倉院から蘭奢待が運び出され、多聞山城に運び込まれた。多聞山城では、勅使らが見守る中、待ち構えていた信長の前で、蘭奢待が截り取られた(なお、『天正二年截香記』 には「一寸(約3cm)四ホフヅゝ二ツ切取畢」とあるが、ドラマの画面を見る限りでは一つ切り取ったものを二つに割ったように見える)。信長は截り取られた蘭奢待を手に取ると、おのれが権力の絶頂にあることを実感していた。幸福な震えが信長の全身を包んでいた。信長は両手に取った二つの木片を見つめながら、「一つは帝に差し上げよう。きっと帝もお喜びになるであろう」といった。

 御所では、正親町天皇(57)が信長から贈られた蘭奢待を実澄に見せていた。信長は、朕が喜ぶとでも思ったのであろうか、と帝は実澄にいった。毛利輝元(21)が関白(二条晴良(48))に蘭奢待を所望しているらしいから、贈ってやるがよい、と帝はいった。実澄は、輝元は信長と敵対しているが、本当に構わないのか、と尋ねた。「そんなの知ったことかよ」と帝は冷たく言った。「信長はほんと変人だよな…」。そういった帝の心は、すでに信長を離れていたのである。

 近江坂本城の天守には、光秀と藤英の姿があった。前年七月に二条城で信長に降伏し、翌八月には信長方として岩成友通の山城淀城攻めに加わった藤英であったが、本年五月には、信長から居城である山城伏見城の破却を命じられ、光秀の近江坂本城に預けられていたのである。坂本城天守からの見晴らしは素晴らしい、と藤英が感嘆する。光秀は、信長の考えることがよく分からない、とこぼす。主人とはそういうものだ。藤英は穏やかな表情で静かにそういった。

※()内の数字は、元亀四=天正元(1573)年時の年齢

(史料から)

〇『御湯殿上日記』によれば、元亀三年三月二十九日に、改元の事が将軍義昭と信長に通達され、同年四月九日には勘者宣下もなされたが、同月二十日に改元は延引された。『尋憲記』によれば、同年九月に信長が義昭に呈上した「異見十七箇条」では、幕府が僅かばかりの改元費用を惜しんで、改元が沙汰止みとなったことを批判している。

〇『壬生家四巻之日記』によれば、信長が勘文の中から「天正」の号を望んだという

〇『改元勘文部類(自長享至寛永)』によれば、高辻長雅の勘文では、「貞正」、「安永」、「延禄」、「天正」、「文禄」の五つの号、東坊城盛長の勘文では、「寛永」、「明暦」、「永安」の三つの号が勘申された。

〇『兼見卿記』によれば、元亀四年七月十八日、槙島城を出た義昭はいったん山城枇杷荘に退き、同月二十日には河内若江城の三好義継(25)を頼っている。

■予習:丹波攻略命令
(背景と展望)

 つねに弱き人々に思いを致し、やさしい眼差しを絶やすことのなかった義昭であったが、現実に翻弄され、次第に何かを見失っていった。そんな義昭に訣別を告げた光秀は後ろ髪引かれる思いを残しつつも、信長を選択する。やさしさだけでは、慈悲の心だけでは天下の静謐は果たしえない。時に鬼神とも化しうる信長にこそ、成し遂げられる大事業だと考えたからである。しかし、権力の頂点に昇りつめた信長の言動に対して、光秀は次第に違和感を覚えるようになっていた、そして、その違和感はやがて大きな不安へと変わっていくのであった。