■前回(丹波攻略命令)の復習
(あらすじと感想)
天正二(1574)年の夏が過ぎた頃、坂本城には信長(41)の命令を帯びた使者が訪れていた。一両日中に、光秀(47)が預かり置いた三淵藤英を自害させよというのである。藤英は中庭で光秀の次女・たま(12)に花の活け方を教えていた。藤英は光秀の顔を見て、その用件を察する。藤英と、紀伊国由良にいる足利義昭(38)との間に音信があり、信長打倒の企てが発覚したため、切腹の処断が決まったのだと光秀がいう。光秀は、信長への助命を申し出るが、余計なお世話だと藤英に断られる。厳しい残暑の頃、藤英は坂本の月の下で自害して果てた。
同年秋、光秀は佐久間信盛(48)、細川藤孝(41)らとともに河内へ攻め込み、三好一党と本願寺の連合軍を打ち破った。一方、信長は伊勢長島一向一揆を討ち滅ぼしていた。光秀が河内国から帰還すると、稲葉良通(60)の家臣・斎藤利三(41)が光秀の館に駆け込んでいた。光秀が利三に駆け込みの理由を尋ねると、次から次へと主を乗り換える良通に愛想を尽かしていたところ、耐え難いパワハラを加えられたため、どうせ転職するならば、信長に対しても言うべきことを言える光秀の下で働きたいと思ったのだという。
京・妙覚寺では、信長から呼び出された光秀が廊下でバテレンたちとすれ違っていた。彼らはここから来たのだ。そういいながら、信長は床に広げた世界地図のイベリア半島を指し示した。利三を良通に返してやれ、と信長はいった。良通は美濃の国衆のキーマンだから、臍を曲げられると面倒なのだ、と信長はいう。もし利三を返せば、良通は見せしめのために利三を殺してしまいかねない、と光秀は懸念を口した。一人の命ぐらい、是非もあるまい、と信長。一人の命を大切にすることを知れば、国衆たちは信長様に心服するだろう、と光秀はいう。わしが一人の命を大切にしていないとでも? 信長は不本意そうに光秀を見やると、そういった。公方様(将軍義昭)のときだって、敵対した義昭を殺すこともせずに、わざわざ若江城まで送り届けてやったじゃないか、と信長は主張する。あのときは、秀吉が、信長様の指図と称し、義昭を裸足で歩かせ、宇治から若江城まで連行して、さんざん笑い者にしたそうじゃないか、と光秀は突っ込み、あれが武家の棟梁に対する仕打ちだろうか、きっと諸大名も呆れているに違いない、と指摘した。信長は赤面すると、返せといったら返せよな、と面倒臭そうに声を荒げた。やだね、と光秀が即座に拒否すると、青筋立てた信長は、光秀に向かって、帰れ!と怒鳴りつけた。これには光秀も売り言葉に買い言葉で、あ・ば・よ!と言い残すと、部屋を出て行った。しばらく考え込んでいた信長はニヤリと笑うと、いますぐに(光秀を)呼び戻せ、と近習に命じた。光秀が部屋に戻ると、バテレンからのプレゼントだといって、信長は一着の外套を差し出し、光秀に与えると、丹波国の攻略を命じた。信長は、光秀の与力として藤孝をつけてやるといい、利三の件もじぶんが良通に話をつけてやる、と約束した。
坂本城では、光秀が信長にもらった外套を早速、身にまとって妻子に披露していた。
一方、京・若宮御殿の庭では、誠仁親王(23)が蹴鞠に興じていた。関白の二条晴良(49)が同席していた信長に声をかけ、別室に誘った。正親町天皇(58)が誠仁親王への譲位を希望しているので、早急に準備を進めたいが、どうだろうか、と晴良が信長の顔を覗き込んだ。信長殿には敵も多く、多額の戦費も必要だろうから、金が必要な譲位を急ぐことはないんじゃないか、と三条西実澄(64)が口を挟んだ。帝が希望しているなら、速やかにやるべきだね、と信長はいった。
帝と実澄が話している。二条関白は将軍義昭が失脚して以来、保身のため、信長に接近しているようだ、と帝はいう。信長は、公家の生活支援に尽力してくれているから助かるが、関白に近づきすぎると、怪我をしかねない、と信長のことを案じた。そういや、光秀はどうしている?と帝は実澄に尋ねた。光秀と話したい、と帝はいった。
光秀は伊呂波太夫を訪ねていた。前関白の近衛前久に丹波のことを聞きたいから、前久に会わせてくれ、と光秀は太夫に頼んだ。前久が京都に戻れるよう、信長に取りなしてくれれば、前久に会わせてもいい、と太夫はいった。セッティングするから、丹波の園部に来い、と太夫はいう。誰か適当な道案内を紹介してほしい、と光秀がいうと、太夫は駒のところに適当な人物がいる、と教えた。
果たして、その人物は菊丸であった。光秀は、菊丸の筆跡を見て、以前、信玄死すの風説があることを知らせてくれたのが菊丸であったことを知る。光秀は、菊丸が丹波の国内事情に詳しいようだから、といって、誰か丹波で協力を得られそうな国衆はいないか、と尋ねた。菊丸は、小畠永明様なら、と答えた。
太夫の仲介で前久に面会した光秀は、前久が織田の敵対勢力に与してきたことを指摘し、今後も敵対するつもりか、と尋ねた。そもそも、じぶんは織田に敵対するつもりなど最初からなく、近衛家を敵視する二条関白と信長が手を組んだ成り行きで敵認定されてしまっただけで、一方的に敵視されなければ、いつでも信長に協力するつもりだ、と前久はいった。それなら、船井郡の小畠永明に会わせてほしい、と光秀はいう。そんな小者に会っても意味ないんじゃね?と前久はいうが、丹波の民情を知るためには、ぜひ会って話を聞きたいのだ、と光秀はいった。丹波は京都に近く、利害関係も複雑なため、対話なんてまどろっこしいことをしようという者はいない。戦こそがすべてなのだ、と前久は言い切った。
天正三(1575)年の夏、丹波の国衆は信長に従わず、光秀は丹波攻略に取り掛かった。長い戦いの始まりであった。
※()内の数字は、天正ニ(1574)年時の年齢
(史料から)
『信長記』(池田家文庫本)によれば、元亀四(1573)年七月、槙島城に挙兵し、降伏した将軍義昭に対して、本来ならば切腹させるところを信長は助命し、「怨をは恩を以て被報」として、羽柴藤吉郎(秀吉)に河内若江城まで護送させた、という。その有様を見て「貧報公方と上下指をさし嘲哢を成」したといい、「御自滅と乍申、哀成有様目も当られす」と記述している。
■予習:本願寺を叩け
(背景と展望)
うーん。ここまで来ても、いまだに光秀の人物像は輪郭がぼんやりしたままだ。光秀自身の志がいま一つ曖昧でわかりにくく、他人の値踏みばかりしている印象が強いからかもしれない。丹波攻略で大きな挫折でも味わって、一皮むけたりするのだろうか。
次回はタイトルからして、本願寺の逆襲っぽい感じになるのだろうか。信仰のためなら、死をも怖れない本願寺門徒衆は、敵にまわしたら本当に怖かっただろうと思う。その本願寺を相手にしつつ、西からは大毛利、東からは越後の龍・上杉謙信(45)も迫ってくる。義昭の御内書外交はまだ終わってはいない。彼は誠に勤勉なのである。