■前回(義昭、まよいの中で)の復習
(あらすじと感想)

 元亀二(1571)年秋、京は明智光秀(44)の館。坂本城の縄張り図を囲んで、家族の話題が弾む中、光秀一人は坂本への引っ越しに気が進まない様子。家中のみんなが坂本への引っ越しを喜び、待ち望んでいるというのに、どうしたのかと問う煕子(37)。冴えない表情で言葉につかえる光秀。そこへ木下秀吉(35)が訪れる。

 

 秀吉は信長(38)の命令書を持参していた。公家の生活支援事業を早急に起ち上げろ、という。その事業内容は幕府を刺激するものばかりであった。ぶっちゃけ、朝廷とうまくやっていけさえすれば、幕府なんかどうでもいい。それが信長の本音だ、と秀吉はいう。幕府とか、百害あって一利なしなんだし、もういらないんじゃね?と問いかける秀吉の目は怪しく光っていた。

 二条城の政所では、摂津晴門が光秀暗殺計画を部下たちに説明していた。将軍主催の本圀寺茶会で、信長のスポークスマンと化している光秀を殺すことによって、織田方の力を削ぐというのだ。信長の報復がやばくないっすか!?と尋ねる部下に、そろそろ信玄(51)のオヤジも腰を上げるというし、浅井朝倉のアニキたちもやる気だから、俺らも腹を括ってやらないとな、といつになくシビアに語る晴門であった。

 京は東庵の館では、怪我の治療を終えたたまと母の煕子、駒の三人が話しているところに騒々しい女が飛び込んでくる。女は東庵の患者で、秀吉の母・なか(59)だという。ひとしきり息子(秀吉)の出世自慢をした後、煕子とたまの顔を知らないなかは彼女たちの前で、信長に重用される光秀の妻子が公方(義昭)の妬みのために人質扱いされ、京都から離れられないらしい、と話す。煕子は、光秀が坂本への引っ越しになぜ気の進まない様子だったのかを覚った。

 イライラしながら、写経をする将軍義昭(35)。墨をする駒に八つ当たりをするが、逆に光秀の坂本転勤に際して、その妻子を人質扱いし、単身赴任せざるをえなくしていることを責められる。こんなパワハラしてたら、光秀に嫌われるよ、という駒の一言が義昭の胸にグサリと突き刺さる。摂津(晴門)たちが親・信長派の光秀を排除しろというから仕方ないじゃん!と涙目で言い訳する義昭。ぶっちゃけ、摂津は嫌いだし、光秀を排除しようとするから、本当は憎いとさえ思うけど、摂津以外には誰も味方してくれないから、摂津が光秀を消したいといえば、おKっていうしかないじゃん、と苦しい胸のうちを明かす義昭。え、消す!?と駒は思わず聞き返す。義昭は無力で哀れなじぶんをいっそのこと絞め殺してくれといい、濡れた瞳でじぶんを見つめる駒の胸に顔を埋めた。

 伊呂波太夫を訪ねる駒。光秀の身に危険が迫っているから、これで光秀を助けて欲しい、と駒は大夫に銭を差し出した。

 

 京・本圀寺では、細川藤孝(38)が光秀を呼び止め、晴門による光秀暗殺計画があることを告げる。藤孝が止めるのも聞かず、奥へと進む光秀。晴門の刺客が光秀に襲い掛かる。傷を負いながらも公方(義昭)のいる奥の部屋に進む光秀。突然部屋に入ってきた光秀を見て、驚く義昭。光秀を追ってきた刺客たちを義昭が一喝して、追い返す。晴門を幕府から追放して人事刷新することを義昭に迫る光秀。義昭は、三淵藤英を呼ぶと、茶会の中止を告げ、晴門の捕縛を命じた。

 晴門がいる部屋に藤孝の兵が押し入り、驚き、抵抗する晴門を捕らえた。

 数日後、伊呂波太夫を訪れ、藤孝に光秀暗殺計画を知らせてくれたことに礼をいう光秀。それが駒の差し金であったことを明かす大夫。光秀は、武士は将軍を尊崇すべきなのに、信長は帝に心酔している。その理由を知りたいから、帝の人となりを教えてほしい、と光秀は大夫に頼む。

 大夫は、帝をよく知る人物を紹介するといい、光秀を連れ出した。訪れた先は、歌人として名高い三条西実澄(61)の館であった。

 京・内裏では、実澄が正親町天皇(55)に光秀の話をしていた。実澄の好意的な話しぶりに興味を抱いたのか、帝は実澄に今度光秀をつれてこいといった。

 雪の降る中、京は光秀の館を訪れる伊呂波太夫。帝に会いたくはないか、と大夫は光秀に尋ねた。

 ある晴れた日、京・三条西実澄の館では、公家の家人風衣装に身を包んだ光秀を太夫がおかしそうに眺めていた。それならまあ、三条西家の用人には見えるでしょう。そういって、ふふっ、と大夫と実澄が笑う。「これで御所へ?」と光秀が二人に尋ねた。
※()内の数字は『国史大辞典』(吉川弘文館)に基づく、元亀二(1571)年時の年齢。但し、明智光秀、煕子夫妻、および大政所(秀吉の母・なか)の年齢は『日本人名大辞典』(講談社)に拠る。

(史料から)
〇『曼殊院文書』によれば、延暦寺の衆徒たちが天台座主の覚恕に、延暦寺の再興を武田信玄に勧めるよう、請うたという。その成果だろうか、『享禄以来年代記』には、信玄が身延山を東の叡山にすることを望んだという記事がある。また、『甲陽軍鑑』にも信玄が身延山に延暦寺を再興しようとしたという話がのっている。

〇『日本耶蘇會年報』には、ルイス・フロイスからの報告として、信玄が天台座主の弟子を名のって、信長に(恐らくは叡山焼討ちを非難する)書状を送ったところ、彼は第六天魔王・信長を名のって、信玄をからかったという話をのせている。偶像崇拝者たちを罰する信長はフロイスたちにとっては英雄的な存在だったのだろう。異教徒たちが「神仏の罰」を声高に主張するのを「信長は一笑に付し、日本では彼自身が神仏であり、石や木は神ではないといっている」と書いている。

■予習:訣別
(背景と展望)

 ドラマ内の時計ではまだ元亀二年の秋だったらしい。その後、伊呂波太夫が光秀を帝に会わせる根まわしをしているあいだに、年が改まったようだから、信長はまだ、義昭に異見十七箇条をつきつけてはいないし、信玄も兵を三河に入れてはいない。次回にはもう、元亀三年になっているはずだ。いよいよ、「公方様御謀叛」が公然と囁かれるようになる。まさに訣別の時が迫っているのだ。

 それはそうと、大政所(なか)には、折角だから、藤吉郎と尾張弁丸出しのかけあいをしてほしいなぁ。