竹屋町通堀川西入にある冷然院跡碑です。

 

 

冷然院は、平安京にあった後院(上皇の住まい)の一つ。

平安京左京二条二坊にあり、四町の広さを占め、大宮大路を挟んで平安宮の東隣にありました。

在位中の嵯峨天皇が離宮として建造。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇は異母弟の淳仁天皇に譲位して太上天皇となります。平安京遷都した桓武天皇は在位のまま崩、平城上皇は平城京に住んだため、平安京に住む太上天皇は嵯峨太上天皇が初でした。律令で太上天皇は天皇とともに治世に当たるとされ、旧来は天皇とともに宮城に住むことも多かったのですが、嵯峨太上天皇は冷然院に住み、これが後院となりました。天長10年(833年)、嵯峨太上天皇は洛外の嵯峨に在位中に造った離宮の嵯峨殿(後の大覚寺)に移ります。承和9年(942年)、嵯峨太上天皇が嵯峨殿で崩じると、その后・橘嘉智子(檀林太皇太后)は洛中に戻って冷然院に入り、嘉祥3年(850年)に崩じるまで住みました。藤原良房の権力に圧されがちであった文徳天皇は平安宮内裏に一度も住まず、東宮雅院、梨下院、冷然院で生活。天安2年(858年)、冷然院で在位のまま崩。貞観17年(875年)、火災で焼失。元慶4年(880年)、再建。天暦3年(949年)、陽成上皇が冷然院で崩。同年、2度目の焼失。天暦8年、再建。然の文字は燃に繋がるとして、冷泉院と改称。天徳4年(960年)、平安宮内裏が初めて焼失。村上天皇は内裏が再建されるまで冷泉院を里内裏とします。安和2年(969年)、冷泉上皇の後院となります。天禄元年(970年)、3度目の焼失。再建され冷泉上皇が住むも、寛弘3年(1006年)、4度目の焼失。寛弘8年、冷泉上皇は東三条第で崩じますが、冷泉院に11年間住んだことにより冷泉天皇と諡号されます。その後、再建され、後冷泉天皇が内裏焼失の際に里内裏としました。天喜3年(1055年)、冷泉院は不吉であるとして取り壊し。長久4年(1043年)に焼失して再建中であった一条院に建物の一部が運ばれて再利用されたといいますが、詳細は不明だそうです。

その後、徳川家康が建造した二条城の一角となりました。平成23年(2011年)、二条城北東部分での発掘調査で、冷泉院の庭園遺構(池、洲浜、石組など)が発掘されています。

 

 

 

冷然院跡碑;京都市上京区竹屋町通堀川西入