嵯峨野にある大覚寺です。

 


 

嵯峨山大覚寺といい、真言宗大覚寺派本山。

平安時代初期、嵯峨天皇がこの地に離宮・嵯峨殿を営みます。嵯峨天皇の崩後、貞観18年(876年)、嵯峨天皇の皇女・正子内親王(淳和天皇皇后)が嵯峨殿を寺に改め、恒寂法親王(淳和天皇皇子。母は正子内親王。仁明天皇の皇太子でしたが承和の変で廃太子となり出家)を開山、すでに崩じていた父の嵯峨天皇を開基としました。日本最初の門跡寺院で、以降も皇族が多く門主を勤めました。

鎌倉時代には法皇が次々と入寺。後嵯峨法皇は大覚寺21世・素覚、亀山法皇は大覚寺22世・金剛眼、後宇多法皇は大覚寺23世・金剛性となって院政を執り、この皇統を大覚寺統と呼ぶ所以となりました。後嵯峨法皇と亀山法皇は大覚寺門主でありながら亀山殿(現在の天龍寺の場所にあった後院)に住んで院政を行いましたが、後宇多法皇は大覚寺を院御所として大伽藍を築き、大覚寺中興の祖となりました。このとき大覚寺に永宣旨(天皇の許可なしに寺が門跡や院主などを任命する権限)が与えられ、幕末まで続きました。室町時代の元中9年(1392年)、南北朝合一により南朝・後亀山天皇が吉野から大覚寺に入って三種の神器を北朝方に引き渡しています。

後宇多法皇が再建した堂宇は建武2年(1335年)に焼失。その後も応仁元年(1467年)、応仁2年、天文5年と焼失しました。

安土桃山時代、大覚寺36世・空性法親王(後陽成天皇の弟)によって伽藍の復興が図られます。大覚寺は創建以来長らく大沢池の北側に伽藍がありましたが、この時に現在のように大沢池の西側に伽藍が整備されました。

神仏巡礼巡拝の道89番(京都9番)札所。真言宗本山5番札所。

 


 

式台玄関。

江戸時代の建造物で、東福門院(後水尾天皇中宮・徳川和子/江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女)御所の長局の一部を移築したものと言われているそうです。

 


 

五大堂。

大覚寺の本堂。

江戸時代、天明年間の建造物。

本尊・五大明王像を安置しています。

 

 

勅使門。

中央にあるのが石舞台。

本堂である五大堂は、もとは石舞台の場所に建てられていました。

大正14年に御影堂が移築された際に東へ移動しました。

 

 

御影堂。

大正天皇の即位の礼の際、饗宴場として建てられたものを、大正14年に移築したもの。開基嵯峨天皇、開山恒寂法親王、後宇多天皇、秘鍵大師(真言宗開祖空海)の像を祀っています。

 



御霊殿。

蓮華光院(安井門跡。明治初期の廃仏毀釈により廃寺)の御影堂が明治5年に移築されたもの。当初は南向きに建てられていましたが、大正14年の御影堂移築により西向きに向きを変えています。

 


 

寝殿。

元和5年(1519年)、徳川和子の女御御殿として建てられた建造物。延宝年間、後水尾上皇が下賜し移築したもの。

 


 

正寝殿。

安土桃山時代の書院造の建物で「大覚寺客殿(対面所)」として重要文化財。

内部に後宇多法皇が院政を執った部屋が再現されています。

 

 

霊明殿。

第30代内閣総理大臣・斎藤実が創建した日仏寺本堂を昭和33年に移築したもの。

 

 

これより大沢池の畔に出ます。

 

 

閼伽井。

嵯峨天皇は離宮の嵯峨殿に五大明王を祀る五覚院を建て、帰依していた空海に祈祷を行わせました。こちらは空海が仏前に備える水を汲み上げていたという閼伽井。

 

 

心経宝塔。

昭和42年(1968年)、嵯峨天皇の心経写経1150年を記念して建てられたもの。

弘仁9年(818年)、疫病流行の際に嵯峨天皇が空海の勧めに従い般若心経一巻の写経を行ったところ疫病が静まったという故事を記念して建てられたそうです。

 

 

 

大覚寺;京都市右京区嵯峨大沢町4