押小路通釜座西にある東三条第址碑です。

 

 

平安京左京三条三坊一町と二町に位置した邸宅。典型的な寝殿造として登場する邸宅。閑院の東隣にありました。

安和2年(969年)、藤原兼家が自邸とし、兼家はこの邸宅によって東三条殿と呼ばれます。兼家の長女で冷泉天皇女御の藤原超子、次女で円融天皇女御の藤原詮子の里第となり、正暦2年(991年)、皇太后藤原詮子が出家して日本史上初の女院となった際には、この邸にちなんで東三条院と号しています。

東三条殿は兼家の長男道隆が相続、焼失するも再建し、ここで没。その後は道隆の弟道長が所有。一条天皇は在位中に3度内裏が焼失、母東三条院の女院御所であった一条院を里内裏としましたが、一条院も焼失すると東三条第を里内裏として使用。三条天皇は一条院で践祚した後、院御所の冷泉院が焼失して東三条第に滞在していた父冷泉上皇のもとで2か月過ごし、新造内裏に移っています。寛弘8年(1011年)、冷泉上皇は東三条第で崩。長和2年(1013年)、火災で焼失。道長死後、道長の長男藤原頼通が再建。長久4年(1043年)、内裏も里内裏の一条院も焼失した後朱雀天皇は、関白藤原頼通の邸宅高陽院に入った後、東三条第に入り、ここで崩御。頼通六男の藤原師実が伝領。師実以降は、藤原氏長者のための儀式用の邸となり、藤原氏氏長者に伝承される朱器台盤は東三条第に置かれることになります。師実の後、その嫡男師通、師通の長男藤原忠通が伝領。東三条第は忠通の長女で近衛天皇中宮の藤原聖子の里第となります。久安5年(1156年)、聖子を准母とする近衛天皇が東三条第で元服。その後は忠通長男の近衛基通が伝領。仁安元年(1166年)、基通が早世するとその正室で11歳の平清盛次女・平盛子が伝領。東三条第で盛子の後見のもと憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子の儀、着袴の儀が行われます。同年、焼失。再建はされず廃絶しました。

 

 

 

東三条第址碑;京都市押小路通釜座西