鎌倉にある宝戒寺です。

 

 

金龍山釈満院円頓宝戒寺という天台宗の寺。

元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府軍は新田義貞軍に追い詰められ、東勝寺において得宗北条高時はじめ一族郎党870人が自害。鎌倉幕府は滅亡しました。

建武2年(1335年)、後醍醐天皇は滅亡した北条一族追悼のため、足利尊氏に命じて円観慧鎮を開山として北条高時邸宅跡である北条執権邸跡にこの寺を創建したといいます。

 

 

本堂。

本尊・地蔵菩薩像を安置します。

 

 

聖徳太子堂。

 

 

得宗大権現堂。

得宗大権現は後醍醐天皇が北条高時に与えた神号。

北条高時(1303~1333)は鎌倉幕府14代執権。最後の得宗。鎌倉幕府9代執権北条貞時の三男。母は覚海円成(安達泰宗女)。出生時に父貞時はすでに執権を譲り出家隠居していましたが尚も得宗として実権を握り、異母兄2人も早世していたため北条嫡流として育ちます。応長9年(1311年)、貞時死去。正和5年(1316年)、14歳で14代執権に就任。内管領・長崎円喜とその子長崎高資が実権を握ります。正中元年(1324年)、後醍醐天皇の討幕計画である正中の変が勃発。正中3年、24歳で出家。次の執権に長崎高資らは高時の2歳の庶長子万寿丸(後の北条邦時)、高時の外戚安達氏は高時の同母弟北条泰家を推し対立(嘉暦の騒動)。高資は万寿丸成長まで北条(金沢)貞顕を15代執権に擁立、反対した泰家は出家。貞顕暗殺の風聞が流れたため貞顕は執権辞任、北条(赤橋)守時が16代執権に就任。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の2度目の討幕計画が発覚し隠岐配流(元弘の変)。幕府は都に光厳天皇を立てます。後醍醐天皇皇子・護良親王が討幕の令旨を発令。元弘3年、後醍醐天皇が隠岐脱出。高時は北条(名越)高家と足利高氏を鎮圧に向かわせます。高家は後醍醐天皇方の赤松円心に討たれ、高氏は後醍醐天皇に寝返り、同5月7日、六波羅探題を攻め滅ぼします。同8日、新田義貞が後醍醐天皇方につき挙兵。同18日、新田軍が鎌倉到達、幕府軍は鎌倉七口を閉じ防戦。同日、執権北条守時戦死。同21日、新田軍は稲村ケ崎を突破して鎌倉入り。同22日、追い詰められた高時は菩提寺の東勝寺に入り、一族郎党870人とともに自害。享年、31歳。これをもって鎌倉幕府は滅亡しました。

 

 

 

宝戒寺;神奈川県鎌倉市小町3-5