鎌倉にある東勝寺跡です。

 

 

青龍山東勝寺という臨済宗の寺の跡地。

嘉禄元年(1225年)、鎌倉幕府3代執権北条泰時が、退耕行勇を開山として創建。北条得宗家の氏寺。北条執権邸の裏手にあり、有事の際の兵の駐屯を想定した広大な寺であったといいます。

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の討幕計画が漏れ隠岐配流(元弘の変)。幕府は都に光厳天皇を立てます。後醍醐天皇皇子・護良親王が討幕の令旨を発令。元弘3年、後醍醐天皇は隠岐を脱出、幕府は北条(名越)高家、足利高氏らを鎮圧に向かわせます。高家は後醍醐天皇方・赤松円心に討たれ、同5月7日、高氏は後醍醐天皇方に寝返り六波羅探題を攻め滅ぼします。同8日、幕府御家人新田義貞が後醍醐天皇方に付き上野国新田荘で挙兵。同18日、新田軍が鎌倉到達、幕府軍は鎌倉七口を北条一門に守らせ抵抗。同21日、新田軍は強風のため海面が下がった稲村ケ崎を突破し鎌倉入り。同22日、追い詰められた最後の得宗・北条高時は東勝寺に入り、一族郎党870人とともに自害しました(東勝寺合戦)。鎌倉幕府滅亡の地。

発掘調査によってこれまでに石畳や建物跡、宋や元から渡来した香炉や壺が出土したものの、人骨の発掘はありません。昭和元年(1925年)、釈迦堂谷やぐらから大量の人骨とともに元弘3年5月28日銘の五輪塔が発見されたことにより、ここが東勝寺合戦の戦没者埋葬地とされました。東勝寺から遺体を運んだ、もしくは、付近の名越切通を通って逃れようとして討たれたという説があります。

現在、東勝寺跡はフェンスに囲まれ立ち入り禁止。

国の史跡。

 

 

東勝寺蕾蹟碑。

 

 

腹切やぐら碑。

北条高時が腹を切ったと伝承されるやぐらで、宝戒寺が管理。

岩盤剥離の危険があるためロープが張られ、現在は立ち入りできません。

 

 

 

東勝寺跡;神奈川県鎌倉市小町