宮津にある宮津城です。

 

 

 

天正7年(1579年)、細川藤孝によって築かれました。

細川藤孝は室町幕府申次衆・三淵晴員の次男で室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、義輝が松永久永と三好三人衆に討たれるとその弟足利義昭に尽力して織田信長の仲介役も務めた幕臣でしたが、室町幕府15代将軍となった義昭が信長と不和になり追放されると袂を分かって信長直臣となりました。藤孝はかつて自身の配下であった明智光秀に与力として付けられ丹後征討の一翼とされ、信長の命により藤孝の嫡男・忠興と光秀女・玉が婚礼。信長から丹後守護・一色義道の追討を命じられます。藤孝は建部山城を落として義道を自害に追い込むも、その遺児・一色義定が弓木城で抵抗を続けたため、長女の伊也を義定に嫁がせ和睦。義定は信長家臣となって北丹後を与えられ、藤孝は南丹後を与えられて宮津城を築きました。天正10年、本能寺の変で明智光秀が主君織田信長を討ちます。藤孝は光秀の与力で姻戚でもあることから再三援軍要請受けるも拒否。出家して幽斎と名乗ると家督と宮津城を忠興に譲り、丹後守護所を大規模改築して田辺城を築き隠居後の城として移ります。忠興は山崎の戦いで光秀に勝利した羽柴秀吉に臣従。同年、忠興は妹婿の一色義定を宮津城に呼び出し殺害。抵抗を続けた義定の叔父一色義清も滅ぼして丹後一国の大名となります。

慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いで忠興は東軍につき、家康より戦功として小倉藩39万9千石を受け転封。丹後一国を与えられた京極高知が宮津城に入り、宮津藩初代藩主となりました。

高知の死後は分藩され、次男高広が宮津藩主、三男高三が田辺藩主、娘婿で養子の高通が峰山藩主となります。宮津藩3代藩主京極高国は悪政を敷いたとして改易。永井氏、阿部氏、奥平氏、青山氏、本庄氏が藩主を勤めて明治維新となりました。

    

 

大手川。

かつて宮津城の外堀を兼ねていました。

平成22年、城壁が復元されています。

 

 

 

宮津城;京都府宮津市鶴賀