舞鶴にある建部山城です。

 

 

南北朝時代、丹後守護・一色満範が築いた山城。

室町時代、丹後守護は今川氏、上杉氏、山名氏などが任じられた後、明徳3年(1392年)、一色満範が丹後守護となって以降、一色氏が任じられるようになります。一色氏は足利一門で室町幕府四職(侍所長官を勤める赤松、京極、山名、一色の四家)の一家。若狭、三河の守護も歴任。満範は平時、丹後国八田に丹後守護所を置き、非常時の詰城として丹後富士と呼ばれる建部山に山城を築きます。一色氏は普段都に住んでいたため、丹後守護代の延永氏が実務を取りました。

永享12年(1440年)、一色義貫が室町幕府6代将軍・足利義教の粛清の対象となり、武田信繁と細川持常に誘き出されて討たれます。一色氏の守護国であった若狭守護は武田信繁に、三河守護は細川持常に奪われました。一色家の家督と丹後守護は、義貫と家督継承争いをしていた甥義親が継承。義親の後は義貫の子義直が継ぐも、応仁の乱の混乱の中、若狭守護・武田信賢が丹後へ侵攻。一時、丹後守護を若狭武田氏に奪われます。戦国末期、武田元明が越前の戦国大名・朝倉義景に連行されて若狭武田氏は弱体化。一色義道は織田信長と結んで丹後を安堵されます。義道は、室町幕府15代将軍足利義昭が形成した信長包囲網に加わったことから信長家臣細川藤孝に攻められ、建部山城に籠城。天正7年(1579年)、建部山城を攻め落とされ家臣の中山城主沼田幸兵衛の許へ逃れるも、幸兵衛が信長に寝返ったため中山城で自害。その後、建部山城は廃城となりました。

 

 

 

建部山城;京都府舞鶴市下福井